「これくらいで疲れるべきではない。平気であるべきだ。他の人は平気なのに、どうして私はこれくらいで動揺するんだろう、疲れるんだろう、パニックになるんだろう。」
精神世界では、特にこの傾向が強まるように思います。悟りを開いた人はいつも心が清らかで、何が起きても動揺しないのだ、ということ伝えるメッセージがちまたにあふれかえっているし、そのアイデアは私達の多くにとってとても理にかなっているように思えます。イライラするべきではない。この不出来な自分をなんとかしたい、と思っているのに、目覚めることとイライラはまったく関係ない、などと言われても、受け入れられるわけがありません。だったらなんのために瞑想やら、色んな教えやらがあるのよ?する価値ないじゃん!ーという話になります。
目覚める、悟る、というのは、自然でありのままの現実に還ること、それしか存在していない、ということに目覚めることですから、ほとんどありとあらゆる点で、私達が頭で求めることに反しています。
ありのままの現実は、疲れることも、イライラすることも、パニックすることも含みます。
苦しみの原因は、起きていることを拒否すること、すでに起きたことを起きるべきではない、と考えることにありますが、概念として受け入れるのは、ほとんど100%不可能です。
ただ、"疲れるべきではない"と思いがよぎるとき、『すでに疲れているのに、"〜べきではない"と思う価値はどこにあるのか』自問してみる価値はあります。