2014年7月31日木曜日

プロセスは終わらない(1)

私の師カーリーは、”すべてがこの瞬間に終わる”ということを強調します。アセンション・アチチュードを思い浮かべるとき、”私”という物語が断ち切られ、”私の世界”すべてが消える。そこには問題もない、しなくてはならないこともない。ありのままの現実だけが残る。

”これ以上簡単なことはないでしょう?”彼女は繰り返し言います。

この”簡単なこと”が、簡単ではありませんでした。まず、あまりに退屈すぎる。問題を見つめ、どこかにある完璧な未来、いつか到達すべき完璧な自分に向かって何かをやっていく、という習慣化された衝動が心身を支配しており、そのエネルギーなしで生きていくなど、考えられないことでした。なので定期的に”私の問題”を大げさに抱えて、それに一生懸命取り組んで、自分の進歩に一喜一憂していました。

ある時、アラン・ワットの話を聞いていて、”真実がわからないのは、わかりたくないからだ。他に理由なんてない。本当にわかりたかったら、今この瞬間にわかる。”と言ったのがひどくひっかかりました。それまでにも他の人が同様のこと言っているのを聞きましたが、この時は強く響くものがあり、ビデオを止めて自問しました。”今でも何が真実かわからない、まだ目覚めていないと思うのは、わかりたくないから?本当にわかりたいと思ったら、今わかるんだろうか?”

残念ながら、その瞬間に真実は啓示されませんでした(笑)。ただ、”真実を知りたい、わかりたい=悟りたい、目覚めたい”と言い続ける一方で、実はプロセスに中毒しているだけじゃないのか、という問いが自分に残りました。

カーリーによく言われたことで、長らく拒絶していたことは他にもたくさんありますが(笑)、”真実のためだけに真実を求めるのでなければ、真実を知ることはない。”というのもその一つです。

私の関心は長らく、”私が永遠に完璧に幸せになること”でしたし、”それはもういいから、真実とやらはどうなんだろう?”と思うようになってからも、気がつくと”より素晴らしい私になるため”、あるいは、”私の不幸を取り去る”、が動機になっていることに繰り返し気がつきました。


2014年7月30日水曜日

人の話はもういいから、自分はどうなんだろう

アディヤシャンティというアメリカ人の男性がいます。日本でも多くの人が知っていると思いますが、アメリカでは大変に人気があります。比較的年若くして目覚め、指導者になった人ですが、なんとも言えない優しい空気と鋭いフォーカスを備えた人で、とても魅力的です。私は彼が近郊都市に来た時に、2回ほどミーティングに参加する機会がありました。質問がないのに、彼の注意を浴びたくて質問しようとしたのを覚えています。また受け皿が広いというか、聞いているこちらがうんざりするようなメロドラマチックな質問や、だらだらした質問にも、びっくりを通りこして飽きれるほど好意的に対応します。

私は定期的に誰かにハマってその人のCDやDVD、あるいはYoutubeビデオを延々に見続けるという傾向がありました。アディヤシャンティはその一人で、朝から晩まで―料理しながら、車の運転をしながら、お風呂に浸かりながら―暇さえあればアディヤの話を聞き続けるという生活を数ヶ月間、2度にわたって経験したと思います。二回目は教師養成コースの後で、余計なゴミが消えた頭には彼の明晰で美しい話がとても深く響き、また自分の経験と照らし合わせると、以前とは理解度が比較にならず、聞いても聞いても聞き足りないような気持ちがしました。しかし・・・

彼の話が以前より、いかに深く理解できるか、響くかという話をとうとうと語ったところ、ここでまた、私の師カーリーが、少々気に入らな気な、あるいは何を言っているのかわからない、という表情を浮かべました。彼女の言いたいことは正直、すぐにわかりました。”アチチュードを思い浮かべた時、すべての思考が消え、ただ一つしかない現実があらわになる中で、他に何を理解する必要がある、または理解したと思ってるのだろうか?”

彼女にこのような反応があると、出来の悪い生徒としては、さらっとその話をなかったことにして次の話題に移っていくのですが(叱られないように誤摩化す子供の態度そのままです・笑)、その後、他の会話に交えてちくりと刺すような発言がありました。
”(以前教師養成コースに行った人の例を挙げ)彼はアディヤの話を聞くことを代替えにして、自分でアセンションしようとしない。”

カーリーと同じ側に立っているふりをしたいけれど、自分の中に怪しさを感じているのを隠しきれず、”あ〜”と曖昧な返事をして、その話はさっさと頭の倉庫、記憶の隅に放り込んで忘れました。実際にそれが自分自身への真剣な問いとなったのは、それからまたしばらくたってからです。

ある朝、いつものようにアディヤのCDを聞いていたとき、突然、”もうたくさんだ”という気になりました。CDを止め、椅子に座って自問しました。”目覚めていると言われている人たちの話は、耳が腐るほど聞いた。でも私自身の経験はどうなんだろう?自分にとっての現実はどうなの?”

これまで聞いた、すべての人の悟りに関するすべての話を全部捨てたらどうなる?人の話はもういいから、私には何が現実として見えているんだろう。

その問いが湧いたとき、カーリーの言葉が思い出されました。別にだからどう、というわけではないのですが、あのとき感じたちくり、は、あの時まだ認める準備がなかった自分自身への疑問―人の話を聞くことで、自分が理解を深めているかのような幻想に浸っているのでは?―があったからなんだと、はっきり認識しました。

だからと言って人の話を聞いたり、本を読むのをやめたわけではありません。人の言葉を鵜呑みにしないことを新しいポリシーにしたわけでもありませんが、自分の現実をチェックするということは、自然にもっと起きるようにはなりました。