2014年8月11日月曜日

神様はここにいる(1)

神様、というと、宗教的な匂いがたちこめるのは百も承知ですが、ここでは子供の頃に帰った気持ちで、この言葉を思い浮かべてみてほしいと思います。
大好きなペットが病気になったとき、助けを求めてお祈りしたことはありませんか?

”かみさま、シロの病気がなおりますように”

”小さい頃は神様がいて、毎日夢を叶えてくれた
 優しい気持ちで目覚めた朝は
 大人になっても、奇跡は起こるよ”

ユーミンの歌を聞いて、心の深い部分を掴まれた気持ちになるのは、私だけでしょうか?

神様が宗教になってしまう前、雲の上に座っている、白ヒゲをはやしたおじいさんになってしまうよりも前、大自然の中に立っていて、夜空の無数の星を見上げて、自分が完全に溶けてしまっていたときの感覚・・・あの大きさ、自由さ、無限さ。

神様という言葉は、人を超え、すべてを超えたもの、そしてそのすべてを抱合するものを表すために使われた、一表現であったと思います。言葉にできないものを言葉にしようとして生まれた概念。

科学者はそれをエネルギーと表現します。すべてはスター・ダストでできている、という人もいます。仏教では無、あるいは空、とも表現されます。

すべては神様同様、言葉にできないものを表現しようという、試行錯誤、試みです。すべての名称には、
”ほら、あれ、こんな感じなんだけど、知ってるでしょ?言葉にすると限られるけど。”
程度の役割しかありません。コミュニケーション用に、なんとかお約束を設けた、というところでしょうか。

神様に限らず、すべての言葉には、物事を指し示す役割以上の意味はありません。”痛い”という言葉は痛みの感覚・直接的な経験とは違うけれど、起きたことがらについて(この場合は体の状態、個人の体験した感覚)、大まかなコミュニケーションを行うのに役立ちます。”ね、言いたいこと、ちょっと感じはわかるでしょ?”というお約束です。

この”お約束”が本来の価値以上に重要視されるようになると、世界が一変します。神様ではなく、神様の名札があがめられるようになります。言葉や概念が神様になってしまいます。そして様々な苦しみが生まれます。