2015年7月25日土曜日

”なぜ”のゆくえ

『'Why' questions - ”なぜ”、”どうして”という問いは、なんの役にも立たない 』

と言ったのは、私の師カーリーでしたが、もちろん彼女のオリジナルではありません。
数々のスピリチュアルな有名どころが似たようなことを言っています。

なんでこうなったの?

どうしてあの人(私)ってこうなの?

なんでこんなことが起きるの?


こういった問いの行き先は・・・・





ぐ〜るぐる〜

思考のらせん階段を昇ったり降りたり。

出口のないままにぐ〜るぐる。

ここでじっと、ぐるぐるするままであれる、

というようなラッキーな事のなりゆきが起きた場合には、

自然に、それと気がつくと、ぐるぐるが終わっていることに気づきます。

問いもぐるぐるも自然消滅。


”なんで?どうして?”に

エネルギーを注ぎ続けることが起きた場合には・・・

写真 http://gigazine.net/news/20080702_tired_cat/

限りない’疲れ’が待っています。



私の経験上、もちっとよろしくなかったのは、むしろ”答えが見つかった”場合。

どうしても答えが欲しいから、

”なぜ?どうして?”の答えが見つかれば、解決策が見つかって、

未来の防護策になると思っていたから、

どうしようもなく常に安心していたかったから、

答えらしきものにすぐに飛びつく、ということがよく起きました。


そして満足 - するのは一瞬。

得意気に新しい答えを掲げ、それにすがって生きていると、
どこかで必ず

誰かが、何かがやってきて、

その答えは間違っている、といいます。

あるいはよそに、”もっと正しそうな”答えが見えて、
「あれ?やばい。乗り換えなくちゃっ」

というようなことが起きます。

そうして結局 

繰り返した挙句は

ここまで行けば、どうにもあきらめるしかない、という事態が無選択に起きるのですが、

http://alleycat1970.blogspot.com/2014_03_01_archive.html



下手に体力が、しぶとさがあるがゆえにだらだらとした疲れが続き

非常に、慢性的に疲れました。


答えがある、とおもってたんだもんなぁ、

こたえなどない、といわれても、

みつかるとおもってたんだもんなぁ

こたえがない、というこたえがみつかる、とすら、

おもってたんだから、。。。すごい。




あら?気がついたら、前回と内容が被ってましたね。
ははは。


2015年7月14日火曜日

わからないままでいられること


夕焼けのように見える朝焼けー

2−3週間くらい前かな?それこそ唐突にジョーイ・ロットの"Don't Change A Thing"を読んでしまいました。なにかおかしいな、とひっかかることがあったところに、Facebookでいつものようにジョーイが、99セント(約100円)サービスの宣伝をしていたのが目に付いたからです。

2週間以上たった今となっては、恐ろしいことに、一言も内容を思い出せないのだけれど、すごくよかった(^^; こんな言い方じゃ誰も信じない?)とても助けになったのだけはしっかり印象に残っています。

そこへもってきて、ジョーイがここ最近ブログをつぎつぎとアップするもんだから、なんとなくそれも目について・・・

一番最近のブログ(ちんたら書いてるうちに、次のブログがアップされてしまいました)が、またとてもよかった。


『”探求”という行為は、”わかることができる”ということを前提にしている。またわかろうとすること、理解しようとすることは、いいこととされがちだけど、苦しみから逃れたい、というのが強い動機になっている。』


理解しようとする行為は、わかることができる、という推測を前提に成り立っている・・・

どこかに到着点があることが前提になっている。

今目の前に起きていることは納得がいかないけど、どこかにちゃんと解決策がある。

辿りついたらもう安心、ちゃんちゃん! −という地点があって、とにかくそこへたどり着くために、ひたすらに、やみくもに探し求める。

「そんなの全然あたらしくないよー、前にも他の誰かが言ってたよ。」

と言われるかもしれませんが、改めてなるほど、と思いました。

”わかることができる”という刷り込みはそうとう深く、それが苦しみを生んでいる、ということに気づいたところだったからかもしれません。

あれ?ジョーイ読んで気づいたんだったかな?・・・

2015年7月8日水曜日

”私”ちがい

ニサルガダッタ・マハラジがその師に、「ただ”私”に意識を向け続けなさい」と言われて、純粋に、ただ言われた通りにやり続け、3年で完全に”在る”ということの本質に目覚めた、というのは(知る人の間では^^)とても有名な話です。

っていうか、すごい話です。

師に会ったのは数回。本当にただ、自分一人で座り続け、見つめ続け。

3年たって完全に本質に目覚めた後も、一度はどこかの山奥に、さらなる深みを求めて行こうとし、その道中でそんな山に行く必要はない、ということに気づいたといいますから、ちょっとはそんな普通の血迷いもあったようですが、様々な瞑想と迷走を続けた我が身を振り返り、そのひたむきさはちょっと真似できん、という感じです。

それ以上にすごいと思うのは、
「”私”に意識を向けなさい」とだけ言われて、それができたこと?

私は10年以上前に”すごい本だ”と聞いて早速 I AM THAT を買っ(てもらっ)たのですが、読んだのはその3年後で、未だに通しで読んだことはありません(^^;)。

初めて読んだとき、『なんだぁ!”私”に集中すればよかったんだぁ!簡単じゃーん!』と本気で大喜びし、我が師カーリーに勇んで報告。

『ニサルガダッタ読んで、やっとわかったわ!”私”に集中すればいいって!これでもう、すればいいことがわかって、迷うことないわー。』

我が師は焦った顔で言いました。
『彼の言っている”私”は、普通に言う”私”ではないのよ。』

つまり、パーソナリテイ的な”私”という感覚ではなく、存在そのものとしての”在る”という感覚なのだ、と。すごい簡単でシンプルな解決策を知ったと思ったのに、そこにトリックがあった(らしい)と知ってがっかりしました(_ _;)。

ただ、つい昨今(っていうか昨日?)、ヒロさんオススメのジョン・シャーマンのインタビューを聞いて学んだところでは、(知る人の間では有名な)ラマナ・マハリシは、”エゴをしっかりつかまえて放すな”と言ったそうなので、また、この方も一人で座り続けた人なので、

いわゆる”私”を注視したとしても、遅かれ早かれ、同じことに気づかざるを得ないのではないかなー、などという、意味のない考えが浮かんだりしていた夕べでした。

さて、積極的な、躍動的な意識を” わたし”と思っているものに向けたら、なにが見つかるのか。なにが”わたし”と思えるのか。

は、

自分で見てみるしかありません。

どこかで聞いた(どうやら)正しい(らしい)答えを捨てて、隙だらけで、無防備に、見てみるしかありません。

しかも、まいしゅん(毎瞬間)。

だって、

それが単に気になるから(^^)。

ただどうしてもやっちゃうから。