2015年11月20日金曜日

本当の自分を知るということ



本当の自分を思い出す、ということー
あるいは、まちがった認識や同一視がほどけ落ちるということ。

それは、すべてが変わらないままで、すべてを根本的に変えます。

でも本当の自分を知る、思い出す、というのは非常に微妙というか、trickyな話で。
というのは、どこかにこれまでと別個の、本当の自分という個体が見つかるわけではないからです。
急にまっさらな”私”になって、気持ちよく生きていけます、というような話ではない。
”私”が満足できる”私”になるのとはまったく異なります。

”私”と呼べるものがない中で、同一視できるもの、これとすがって生きるものがない中で、”在る”とすら呼べずに在るー

”私”が思っているのとはまったく違う現実がそこにあります。

私自身は本当の自分を知る、ということを意識的に追いかけてきたわけではなく、さらに現実を見つめれば見つめるほど、”わかった”と言えるものが何もなくなって、それ自体も気にかけることが不可能になっています。

そんな中、アセンションのコースを受けてくれた、ある人の体験を通じて、自分というものに関するあやまった同一視が、すべての苦しみの元であることを改めて教えてもらいました。

私の中に浮かぶ考え、
私がこれまでしてきたこと、

それは”私”である、という思い込み=条件付けとそこから生まれる苦しみ。

もちろん、私がこれまでしてきたと思うことは、今頭に浮かぶ記憶、すなわち古い思考でしかないので、私の中に浮かぶ考え、というものとまったく同じわけですが、いずれにしても、彼女はこれまで自分がしてきたことが頭に浮かんで止まず、なんでそんなことをしたのかと思うと自責の念で死んでしまいたい気持ちになる、と言いました。その瞬間、

ああ、彼女は自分じゃないものを自分と思っているんだな、
すべての苦しみの元は、あやまった自己認識、本当の自分は”何か”を、忘れてしまっているところから来るんだな、

ということがはっきり見えました。

思考、すなわち頭に浮かぶ考え、もしくは意識のスクリーンを通過する想念が自分ではない、ということは、ずいぶん前に経験として知りましたが、その衝撃もすっかり消え去って忘れてしまっていた時に、彼女という鏡を通してもう一度、内に見たものを外に見せてもらったように思います。

本人はもちろん、”言ってることはわかるけど、信じられない”、と言いましたが(^^)。
これは新らしい信念を植え付けることとはまったく違う話なので、信じてもらう必要はありません。むしろ、信じることには一文の価値もありません。
この先淡々と、新らしい道具とともに(ここではアセンション)繰り返し自分で経験し、確認していくしかないことです。

またしてもダグラス・ハーディングの言葉を思い出したりしました。本当の自分を知ることがすべてだって言ってたなぁ、と。

後日、アンバーシェルの本が今の彼女にぴったりに思えたので送ってみました。
誰もがマインドに作られた牢獄の中に生きているけれど、彼は形としても牢獄にある中で、本当の自由を発見しました。自由は外の形式とは一切関係のないところにあります。



そのアンバーシェルを知れたのも、ヒロさんのおかげ。直接メールすればいいのにこんな遠くからなんですが、ありがとうございましたm(_ _)m。
あれ?でも今見たらアンバーシェルの記事が消えてる?(笑)オススメの本も?

2015年11月1日日曜日

The Teacher


瞑想関連のある種の詩のようなものを読んでいて、"The Teacher"という記述がはたと気にとまりました。これまで何度読んでも、まったく意識に止まらなかったのですが。。。

その詩は私たちの精神探求の旅を歌っています。

前半には、ヴェーダの教えに登場する、たくさんのマスター達=教師の名前が並び、彼らへの感謝が綴られています。

そして最後の章で、現象のすべてを超え、探求者が本質に帰る様子が歌われるのですが、そこに"The Teacher"が幾度も登場するわけです。

Theと大文字で始まるTeacherは、唯一の、絶対なる教師を示します。

詩の内容からも、それが人でなく、名前あるものでなく、絶対なるもの、唯一にしてすべてなるものを指しているのは、明かであると感じられたのですが、それまでそんな可能性を意識したことがなかったので、不意をつかれた感じがありました。

気づくと同時に意識が”それ”に飛びー

この目の前に、ありとあらゆるところに、音も形も存在感も一切なく、とぎれなく静かに広がるもの、が、

唯一の教師である
絶対にして無二の教師である、

という事実が急にカチッときて、なぜかとてつもない畏怖の念に襲われました。

すべてを存在させている、すべてを完璧に生かしているこの、知性を超えた知性。

それが真の教師である。

そしてこの教師の存在の前では、頭では間違っても学びえないのだ、ということが細胞レベルで感じられます。どうしてわかるのかわからないのに、これ以上なく明白です。

この教師だけを静かに見つめる。

どこかに絶望的な思いがわきます。
どこかにもっとわかりやすい言葉で、この教師についていく方法を解説しているものがあるのではないかという思いが湧いて、信頼する著書を2−3眺めたりします。

1−2行読んで、すぐに絶望感が湧きます。

人の言葉から得られる助けなどない、なんとすることも絶対にできないのだ、ということが、あまりにも明らかだからです。

そして絶対的な無力感の中で、まっすぐに、教師を見つめます。
震えながら見つめると、

震えも、
それを認識するものも、
なにもかもが消えてしまいます。

Japanology Zen