小さな男の子が、二階で眠っている赤ちゃんに会いに行ってもいいかと、お母さんに尋ねました。お母さんの許可を得て、男の子は二階に上がって行きました。一方お母さんは、赤ちゃんを見守るために取り付けてあるビデオを通して、男の子が何をするのか、興味津々、見守っていました。
小さな男の子は、赤ちゃんのそばに行くと尋ねました。
”どんな感じか教えてくれる?ボクもう、忘れちゃったんだ。”
生まれてきたとき、私たちは自分が何物であるか、というアイデアを一切持っていません。目に入るもの、体に触れるもの、一切に対し、それが何であるとか、何を意味するとかいう考えを一切持っていません。ただ目に入るものをありのままに見、聞こえてくるものをありのままに聞いています。刺激に対して時には笑い、時には泣きます。その反応は1瞬1瞬移り変わり、一つの状態に長くとどまることはありません。生まれてきた時、私たちは自分が”私”であることを知らず、周囲のすべて、見聞きするものとの間に境を持っていません。
この感覚は、やがて薄れていきます。”私”という感覚が確立するにつれて、目に見えない境界線が様々なところに生まれていきます。境界の感覚自体は、それ以前に起きていますが、多くの場合、自分の名前を自覚することによって、境界の感覚、”私”という自覚が確立します。
小さいうちは、まだこの感覚はあいまいです。
小さいとき、自分の名前を呼ばれても、何を言われているのかさっぱりわからなかったあの感じ、覚えていませんか?何度も名前を呼ばれて、”あなたのことよ!”と言われて、”あ!そうか。”と思ったあの感じ、覚えていませんか?あるいは自分のお子さんに、何度も何度も教えてあげなければならなかったかも知れません。
”あ、そうか”と同時に、”なにか違うなぁ”と思ったのを私の場合は覚えています。自分の名前、自分、という感覚そのものがまだ曖昧なので、何か気に入ったものを見ると、”私はゾウさん!”となってしまいます。それが近所のみかちゃんでも、たとえうんちでも(笑)。うんちが汚いもの、と頭に登録されていないからです。
また小さいときは、何かに没頭すると、あっという間に”私”という感覚が消え去っていたと思います。”私”が何かをしているのではなく、私と行為は一体でした。私は自分のしていること、触れているもの、見ているもの、そのものでした。