ここしばらく、”エンライトメント〜パタンジャリのヨガスートラ”という本を読んでいます。最初は翻訳している関係から必要に駆られてだったんですが、結構楽しく、ちらほら読み続けています。
この本は、私のやっている瞑想法を広めたMSIという人による、パタンジャリのヨガスートラの訳で、各章に彼の解釈が載せられています。
この本自体は、イシャヤのアセンション瞑想を習った16年前から持っているのですが、最初は頭ですごい!と思ったものの読み続かず。
英語が面倒くさくて読み続かず。
読書が面倒くさくて読み続かず。
知識を頭が拒否して読めず。
内容がイシャヤのアセンション瞑想の宣伝のようで読み続かず・・・
等々ということが長年続いていました(長すぎるって)。
このまま完読することなく終わるかな、と思っていたのですが、今回は今のところ続いております。
今回、これまでと違うのは、やはり自分自身の経験が変わってみると、同じ本がまったく違うものに見える、という点です。
確かに、イシャヤのアセンションを大宣伝!みたいなところもありますが、大前提としては、”どんな手法であれ、人の意識を条件付けによって限られたものから本来の、最大限に自由な状態に解き放つもの、それを目的とした教え”を総称してアセンションと呼んでいます。
(・・・そもそも、自分のやっていることの宣伝をそんなに嫌がらなくてもいいでしょうに。という話もあるんですが、手前味噌的なものに”あーはいはい”的な反応をしてしまう、という癖が長らくあったもんで。)
ヴェーダやヨガスートラは非常な深さを持つと同時に、非常な誤解を生みやすい、頭でっかちに陥りがちな要素が多々あるように思います。
もちろん、それはヴェーダに限ったことではありません。
2年くらい前、雲黒斎さんのブログにどっぷりはまってたことがあって、特に仏教関連の記事がeye openerという感じで面白く、ブログを通して仏教を学び直した、あるいは新たに出会った(ように思った)経験がありますが、ここでも同じことを感じました。
キリスト教の教えも同じ要素があるように思います。
さて、さんざん前置きが長引きましたが、
今回最初に開いて目に飛び込んできたのは、この章です。
”もっとも高次の意識への、最後のかすかな自己中心的興味すら失うことで、
完全に特徴的な意識が、アセンダント意識から雨雲のような自然の庇護をもたらす”
By loosing even the last vestiges of selfish interest in the highest consciousness, complete discriminative awareness produces from Ascendant Consciousness support of Nature like a raining cloud.
・・・こうやって訳してみると、私のまずい訳も手伝って、解読不能な暗号みたいですね(^^;)。
以下、MSIの解説の一部をご紹介します。
”とても面白いことに、”もっとも高次の意識”prasam khyaneは、”意識の最後の中毒”とも正当に訳すことができる。いかなる意識の動きも、完全に純粋な意識ではない。もっとも高次の、優雅な、楽しい、喜ばしい、心地よい、慈悲深い、輝かしい(prasamのまた他の正当な訳)意識の経験も、完全に純粋な意識と同じではない。高次の意識経験においてすら存在する、限られた個人性の最後の名残を失うことによって、特徴的な知識の力のすべてが理解される。これが起きるとき、自然の法は有害(不快)な影響を与えなくなるばかりでなく、その庇護を洪水のように注ぐ。”
解説もまだ、独特の表現が多すぎて暗号のようですね(^^;)。
パタンジャリのヨガスートラは、人の意識が分離から完全な統合に向かう発展の過程を幾つかの段階に分けて、それぞれの特性を描写しています。
分離を基盤として生きている状態から本質に目覚めていくに従って、人の願望は個人の利や快楽を追い求めることから、ごく自然にだんだんと、生命全体の流れに沿ったものに変わっていく、としています。
自分の本質に目覚め、それが”時折起きる経験”ではなく、生きる上での基盤の意識として確立していくと、この生命すべてを生かしている、本当の立役者は一体誰なのか、どうしても知らずにはいられなくなる、
真なるものを知ることだけが、唯一の願望になる、としています。
しかし、その、最も高尚な願望ですら、”意識の動き”に過ぎす、動いている意識は、どんなに高次で精妙な意識であろうとも、”個”を内包し続けるんですね。
”意識の最後の中毒”final addictions of consciousness
ふーむ、味わい深い(^^)。
意識の発展があるのか、それは段階的な直線的なものなのか、庇護とは、自然の法とは、とか、そういうことは一切置いておいて。
最後の中毒が、そのかすかな名残が失われる時ー
その言葉に引っ張られるに任せて、
その言葉が消え、
意識がうんぬん、という意識が消えるに任せて・・・
ただ、うつろっていく
うつろいすらも消えるのに任せて。
優れた叡智の価値は、頭にとどまること、それをわかること、知識を得ることではなく、それとともにすべての知識が消えること、であるように思います。
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