2014年8月31日日曜日

トラップ

疲れやストレスを感じると、人はなぜか、間違ったことが起きているかのように思いがちです。私はそうでしたし、友人を見ていても、アメリカ人、日本人に関わらず、同じような反応をしているのをよく見聞きします。

「これくらいで疲れるべきではない。平気であるべきだ。他の人は平気なのに、どうして私はこれくらいで動揺するんだろう、疲れるんだろう、パニックになるんだろう。」

精神世界では、特にこの傾向が強まるように思います。悟りを開いた人はいつも心が清らかで、何が起きても動揺しないのだ、ということ伝えるメッセージがちまたにあふれかえっているし、そのアイデアは私達の多くにとってとても理にかなっているように思えます。イライラするべきではない。この不出来な自分をなんとかしたい、と思っているのに、目覚めることとイライラはまったく関係ない、などと言われても、受け入れられるわけがありません。だったらなんのために瞑想やら、色んな教えやらがあるのよ?する価値ないじゃん!ーという話になります。

目覚める、悟る、というのは、自然でありのままの現実に還ること、それしか存在していない、ということに目覚めることですから、ほとんどありとあらゆる点で、私達が頭で求めることに反しています。

ありのままの現実は、疲れることも、イライラすることも、パニックすることも含みます。

苦しみの原因は、起きていることを拒否すること、すでに起きたことを起きるべきではない、と考えることにありますが、概念として受け入れるのは、ほとんど100%不可能です。

ただ、"疲れるべきではない"と思いがよぎるとき、『すでに疲れているのに、"〜べきではない"と思う価値はどこにあるのか』自問してみる価値はあります。


2014年8月29日金曜日

私たちが一番好きなこと

”人は自分について知るのが好きなのよ”とカーリーは言います。誰もが心の底で、自分の本当の姿を知りたいと思っている。そして同時に、何よりもそれを恐れている、と。

また、私たちがストレスに集中しているとき―何かが起きて、頭が”これは問題だ!なんとかしなくちゃならない”というモードに突入し、そこに意識が固定されてしまうとき、私たちは自分の一番好きなことを忘れてしまう、と言います。

自分の一番好きなこととは、存在の本質としての自分を思い出すこと、見つめること、です。本質にかえっている瞬間には、”私”という意識は消えていますから、好きも嫌いもありません。が、”私”という意識が戻っている時、その状態で本来一番喜びを感じるのは、自分の本質について聞き、それを思い出すことです。だから多くの人が、目覚めている人の話を聞きに、高いお金を払ってでかけます。

自分の大嫌いなことが起きたとき、無抵抗でいると固定されていた意識がゆるみ、自然に周りの音、景色、匂いといったものに移ります。そしてまた嫌いなことを思い出し、体の緊張を体験し、その状態にどこかではっと気づく。するとまた意識がゆるむ。意識は自分の大嫌いなことと、大好きなことの間を行ったり来たりします。

今朝は、大嫌いなことと、大好きなことは、どう違うんだろう?という疑問がふとわき、チェックしてみました。大嫌いなことと、大好きなことには、違いがありませんでした。探したとたんに好き、嫌い、というラベルが剥がれて、みんな一緒になり、嫌いなものと、それに気づいている自分の境界も見つけられませんでした。

大嫌いなことに集中するのは中毒性があります。今朝は、『問題だぁ、問題だぁ、なんとかするべきだぁ〜』 と頭が騒いでいますが、引き続き、大好きなことを思い出し、大嫌いなことを思い出し、その境をチェックし続けたいと思います。

2014年8月28日木曜日

ナマケモノ

ジョーイ・ロットのメッセージで共鳴したことの一つに、”抵抗しないこと”というのがあります。

なにも新しいことではありません。surrender, non-resistance, let go...精神世界では繰り返し使われてきた言葉・概念です。ただ、言葉は同じでも、それを発する人によって、また自分が受け取るタイミングによって、伝わる内容がやや(だいぶ?)違う気がします。

私がはじめにsurrender、自分を明け渡す、という概念や教えに出会ったときは、”行うべき努力の方向”として受け取りました。”私”に与えられた新たな進むべき方向、前向きに取り組むべき課題、達成すべきゴール・・・あるいは悟りにいたるための条件。

力を抜こうとする状態から、いつしか力が抜けていく状態に変わっていったとき、抵抗しないということの意味が変わりました。
・抵抗しない、というのは、いつでも穏やかで平安という意味ではない。
・抵抗しない、というのは、努力で起きる(または起こせる)ことではない。

あるときから、嫌なこと、嫌いな感情が起きて全身に不快感を感じているときが、最高の実験のチャンスであると気づきました。嫌い、という想いを変えようとせずに、そのまんまでいたらどうなるんだろう?それが癖になってしばらくたってからジョーイに出会いましたが、ジョーイはそれを、”ただナマケモノになるんだ”と表現していました。言葉の裏から、彼が極限まで疲れ果て、もはや抵抗することも努力することも完全に不可能であったときの、その脱力感の経験が伝わるような気がして、さらに抵抗する習慣が緩まり続けました。

この一年、繰り返し繰り返し気づくのは、”私”がいかに落ち着かない存在であるか、ということです。”私”は行動することを求めます。”私”は何かをしてないと、存在を感じられません。”私”は、怠け者であることはとても悪いことだと教わって育ちました。”私”は、油断するとすぐに何かをしようとします。この”私”に、静けさを達成することは不可能です。”私”というのは”動”そのものだからです。

つんのめりに生きるていることに気づくだけ。それだけで、はっと力が抜けました。そしてまたつんのめりになって、またはっと気づく。繰り返しの中で、だんだんと緩んだ状態が長引いて、この自然な状態を取り戻していきます。もっと気づこう、とするのは無用。気づくというのは自然に起きることで、起こせることではないからです。

そうしてどんどんナマケモノな生き方が当たり前になったら、生き方というより、存在の仕方が変わってしまったような気がするのですが、こればかりはどうにも表現不可能です。

関連記事:となりのグル ジョーイ・ロット


2014年8月25日月曜日

彼女のそばにいて思うこと

短いリトリートに行ってきました。私は現在、時間にしばられないとても贅沢な生活をしています。それをわかっているカーリーは、機会があるとリトリートやコースに私を呼び出してくれます。今回は1週間のコースの途中で帰った人がいたので、その空いたスポットに入れてもらい、片付けや次のリトリートへの準備を手伝ってきました。

カーリーのオペレーションは、365日24時間サービス体系です(笑)。参加費を安くして、多くの人が繰り返し参加できるようにするために、ホテルを使わず、個人が提供する自宅や別荘でリトリートを行います。自分の自宅や別荘でコースを開催したい、という希望者が結構いるので、その要望に応える形でコースが開催されます。食材の買い出しから、掃除、簡易ベッドを持ちこんでセットアップしたりと手作り的要素が多く、参加者の指導と合わせて相当な重労働です。一緒に行動するたび、疲れ知らずに働き続ける様を見て、自分には到底できないことだなぁ、と思います。

実際、彼女のアシスタントとして日本に行ったときは、彼女が働く限り通訳である私も働かねばならず、悲鳴をあげる寸前だったのを覚えています。あれから12年たちますが、そのペースは緩むことなく、彼女は呼ばれればすべてに応じて出かけていきます。

予定外のことが起きるのは日常ですから(会場が約束と違ってひどく汚れていたり、あてにしていた手助けが来れなくなったり)、疲労困憊している彼女の姿を見るのは珍しくありません。しかし腰の骨がずれてひどいびっこを引いていても、原因不明の極度の吐き気に襲われていても、自分の状態を気にする様子なく、奉仕し続けます。精神力、体力ともに超人的な気がしますが、そのどちらも意志の力に支えられたものではありません。

また、”今は掃除する時間だからそれに集中して、それ以外のことはしない”というようなコントロールも一切ありません。どんなに忙しい最中でも、誰かが彼女を必要とすれば、すべての手をとめて話を聞きます。

自分、私と私に必要なこと、私の考え、物事のあるべき姿等々、そういった条件付けが剥がれ落ちると、エネルギーはまっすぐに、ふんだんに必要なことに向かって流れるのだなぁと、彼女のそばにいるたび気がつきます。

関連記事:私の師カーリー・イシャヤイシャヤのアセンションとは


2014年8月19日火曜日

変化

私は子供の頃から”不思議大好き”で、幽霊やら、UFOやら、超能力やらといったものにいつも興味がありました。感覚が鋭敏な面があり、人の体のエネルギー状態を見るとか、オーラを見るとかいうことも、自然とできたりしていました。でも若い時は、どちらかと言うと興味がオカルト系に寄っていて、ある時点でこんなのもういや、こういうことには一切縁がなくていい、怖いものを見るくらいなら、特別な能力は一切欲しくない、と思うようになりました。

数年たって、ニューエイジの世界に出会ったわけですが、ここでも色んな神秘体験をしました。昔のオカルトよりはずっと奇麗な世界でしたが、高次元が存在するには低次元が存在しないといけないわけで、低次元への恐怖というのは、ここでも常に存在しました。

ずっとずっと、神秘体験=スピリッチュアルな向上の証、と思ってきたのですが、長年瞑想していくうちに、気がつくと、そういった体験への興味がどんどん薄れていました。昔はとても意味あることと思ってしがみついていた、数々の体験の記憶が薄れて行き、重要性も感じられなくなっていきました。

しかし一方で、覚醒=悟りの証明となる、決定的な体験を追い求め、夢見ていました。これまであちこちに分散していた興味が、この一点に集中したような感じでした。トニー・パーソンズのリトリートで人の話を聞いていて、忘れていたいくつもの、目覚め体験が思い起こされました。”ああ、目覚めなら何度も体験してきたんだ。でもどうして未だに、最後の覚醒が起きないのだろう。” 心の中のもがきは、結構な痛みを伴いました(というか、もがくから痛みが生まれていただけなんですけど・・・)。


となりのグル ジョーイ・ロット

ジョーイ・ロットという人がいます。まだ比較的新しい、売り出し中の(笑)の非二次元メッセンジャーです。

私は彼のことを、翻訳者の古閑さんのブログで知りました(お気に入りベージ参照下さい)。古閑さんは欧米のたくさんの非二次元の教師を紹介しています。ご自身が実際に会ってみた時の経験談や、彼らの文書の訳も多数載せています。私のお気に入りのブログです。

私はここ数年、新しい教師を発見するよりも、自分のお気に入りの人たちのメッセージを繰り返し聞くほうが好きでしたが、ひょんなことから古閑さんのブログを発見し、その中の数人の人に興味がわき、チェックしてみました。ウンマニ、セイラー・ボブ、ジョーン・トリフソン等々。ジョーイについては、正直言って謎でした。いくつかのyoutubeビデオを試しましたが、どれも最後まで見ることができず、”トニー・パーソンズに会ったあとに、なぜこの人?”というのが、正直な感想でした。

ところがある時、古閑さんがブログに掲載したジョーイの質疑応答ビデオを見て、すっかり意見が変わりました。このビデオでのジョーイはすっきりとして明るく、心から楽しめました。またメッセージの優しさ(理解しやすさ)にとても惹かれました。妥協のない非二次元のメッセージを明るく、軽く語る、お隣のお兄さん、という感じです(笑)。小難しい表現を一切使わず、目覚めというものが、いかに身近なものか、探す必要のないものであるかを伝えます。

私がはじめにスピリチュアリティと呼ばれるものに興味を持ったときは、まだグルの時代でした。グルは選ばれた、特別な人であり、彼らに従い、認められることは大変大切なことでした。時代とともに、グルはだんだん階段を降りてきたように感じます。トニーも一見普通のおじいさん、という感じですが、ジョーン・トリフソン、ジョーイ・ロットにいたっては、さらに身近な友達のような感じを受けます。そのため、”何もする必要がないんだよ”というメッセージが、現実のこととして、するりと自然に入ってきます。

ジョーイはすごい勢いで本を出版していますが、そのどれもをできる限り低価格、可能な限り無料(アマゾンプライム)で提供しています。無料メールも配信しています。
興味のある方はこちら(英語)からどうぞ。


2014年8月16日土曜日

見ること、見えていること

小学校中学年の頃、植物観察の時間がありました。観察してその内容をノートに記録するわけですが、初回の観察記録の後、担任の先生に、クラス全員の前でとてもほめられました。

”○○はこんなことに気がついて素晴らしい!見ろ、他の誰も注意を払ってないところに注意を払っている。”

褒められた内容が何だったのか、まったく思い出せませんが、見たままを書いただけでここまで褒められるとは、あまりに予期しなかった出来事で、嬉しいというより心底当惑したのを覚えています。

次の観察の時間は、自意識とプレッシャーで一杯でした。”前回、何がよかったのかわからないけれど、今回もうまくやらなくては。”同じ特別な経験を繰り返そうと、最新の注意を払いました。

結果は、前回とは正反対。クラス全員の前で先生にけなされました。”そんないらないところは書かなくていいから!時間の無駄!”自意識でふくれあがっていた風船がはじけて恥じ入るとともに、さらに困惑しました。前回何がよかったのか未だにわからない上に、今回と前回でなにが違ったのか、まったくわからなかったのです。

つい最近、自然な状態と、”私”という無用なフィルターが入ってる状態の違いを意識したときに、小学校のときのこの記憶が蘇りました(いつもながら、だからどう、というわけではありません・笑)。

私たちがごく自然な状態にあるとき、必要なことはすべて見えているし、聞こえているし、気づいています。よりこの瞬間に気づいていようとか、周囲で起きていることに気づいていようとする努力は、重複した行為で、無用です。その瞬間に”私”という架空の行為者=力みが生まれて、視野や感性は狭まります。

何かをしようとする状態から自由であるとき、”私”という幻想が消えている時、私たちがごく自然に存在しているとき、すべてのことは意識の網の中で、生き生きと輝いています。ふと目に入るものすべての、不思議な美しさにはっとするのは、こういった瞬間です。


記憶

私は過去12年間に2度、4−5ヶ月間集中的に瞑想を行う機会に恵まれました。一度目は12年前、二度目は昨年です。この間、一日10時間から18時間程度の瞑想を行い、色々な意識状態を経験したわけですが、昨年の瞑想中、そしてその後現在までにかけて、過去の色々な記憶が戻って来るのを経験しています。

ただし!がっかりさせて申し訳ありませんが、これは過去生とか、そういう話ではありません。また過去のトラウマが蘇った、という話でもありません。どちらかと言うと、自分の現在の行動・思考プログラムを構築する一端となった出来事が、あれこれと思い出されただけです。

一例は、中学生のときの出来事。
ある日、夕食の支度をする母のもとで、いつものようにその日の出来事について、延々に話していました。なんの話をしていたのかまったく覚えていませんが、私の話は母の唐突な、深い溜め息によって遮られました。

『人が右って言ったら右、左っていったら左。お前って、本当に自分ってものがないわねぇ・・・もっと自分ってものを持たないとだめよ。』

言われたことがわからず、きょとんとしたのを覚えています。

言われた内容はわからなかったけれど、母の失望感とフラストレーションは伝わったので、その日の夕食の後、日記を広げ、自分について自問してみました。”私とはなにか”、”私は誰?” 相当真剣に、集中的に自問しましたが、”私”は見つかりませんでした。そこで、どんな自分になりたいか、書き出してみました。

”人の上に立つ人間になる”とか、”優しい人間になる”とか、母に言われたこと、先生に言われたこと、人が他の人を褒めるときに挙げていた特性を次々に書き並べました。そして一つ一つを自分に言い聞かせ、忘れないようにしようと思いました。

あれから30年以上たって、あの時、”私”が見つからなかったのは、”私”というものが存在しなかったからなんだということ、その後自分がいかに、”私”という幻想を確立すべく、様々な仮面をかぶったり、イメージを追って生きてきたか、それがいかに苦しみを伴うものであったか、なるほどな、という思いが湧いて消えました。


神様はここにいる(3)

”私”という幻想が確立すると、すべてと一つである感覚が当然失われます。この喪失感はとてつもないものです。すべてから離れた”個”になる。世界は、私と別の”個”で満ちている、たくさんの”個”で成り立っている。

そうなると、他者とのやり取りに、注意を払わなくてはなりません。人生は駆け引きそのものとなり、自分の欲しいものを得るために、幸せに生きるために、常に神様と、人生と、交渉していかなくてはなりません。

これをしたら何を得られるか。引き換えに何を失うか。
この駆け引きは妥当だろうか?どうやったらもっと得できるだろう?
これをここであきらめてもいいけど、そのかわりここでは譲れない。

私は常に物事を秤にかけ、計算して生きるようになりました。そして時折、自分の損得を別にして生きている人に出会うと、自分がとても汚れた人間のような気がして、いたたまれない思いがしました。

存在の本質を思い出すとき、”私”という幻想が溶ける時、存在しているのは永遠にこの瞬間、目の前にあるものだけだと気づく時、この駆け引きがいかに意味のないものであるかに気がつきます。すべてのものに境がない、個別に存在しているものなど存在しないとわかったとき、人生から何を取って、一体どこへ持って行こうとしていたのか、自分の思考・行為に驚きます。

お気に入りの宝を庭の隅に埋めておこうとするワンコのように、人生からなんとか利を得て、できる限り自分に得になるものを集めて、貯めようとしていました。でも、どこへ持って行って、いつ楽しむつもりだったのでしょう?来世でしょうか?そういうつもりではありませんでした。ただ、自分のやっていることが、あまりにもわかってなかっただけです。


2014年8月15日金曜日

U.G.クリシュナムルティ

昨日、UGクリシュナムルティのことをちょっとだけ書きましたが、今日、たまたま彼のインタビュービデオを見つけ、見てみました。

http://www.conscious.tv/nonduality.html (英語)

UGの英語はアクセントが強いので、聞き取るのにはちょっと苦労します(私の場合)。昔見たのはバイロン・ケイティとのミーティングで、これはなかなか・・・UGの難しい性格が全開でした(笑)。

写真を見ても、ビデオを見ても、いつも気がつくのは、UGの体中のどこにも力が入ってない、ということです。完全に力が抜けている。訓練されたり、意識して作り出したリラックスではない。すべてに一切逆らわず、身を任せている存在の仕方が現れてるように私には見えます。そして気難しい性格とは別に、限りない優しさを感じます(ベルナデットもそうですが、気難しいのではなくて、子供のようにすべての感情を”編集しない”だけ、という気もします)。

随分久しぶりに見て、彼のメッセージの深さに、改めて感銘を受けたのですが・・・書き起こしがない!後で読んでわからなかったところを確認するのを、楽しみにしてたのに(涙)。


 

2014年8月14日木曜日

規格外の人々

しばらく前に書きましたが、私が大人になってから出会ったスピリチュアティというのは、とても奇麗なイメージでした。自分を浄化して高次元の存在になる、、、怒りや嫉妬、欲、競争といった下世話なもの一切と無縁の存在になる。そういう汚いものが一切触れることができないような、高次元の存在になる(素敵♡)。

そのイメージに恋に落ち、必死に追いかける傍ら、なにやらしっくりこないものを感じていました。でもそれを口にするのはタブー、という気がしていたのですが、このタブーを見事に破って幻想を粉々に砕いてくれた、素晴らしい人たちが何人かいます。

U.G. クリシュナムルティ:ブッダは度胸がなかったから、悟りの最後の段階へ踏み込めなかったんだ、などと恐ろしいことを平気で言った人です。
ジェッド・マッケナ:Spritual Enlightenment The Damnedest Thing他の著者。きれいな幻を追う生徒の夢を壊すのが、教師としての自分の仕事、等々、相当インパクトのあるメッセージが詰まった本ですが、作者の素性は隠されたままです。
トニー・パーソンズ:神様も天使もいない、悟りなんてない、という徹底したメッセージで、夢や希望を持たせてくれません。
ベルナデット・ロバーツ:非常に意志強固な人で、その頑固さはU.G.を彷彿とさせるものがあります。エゴ喪失と自己喪失の違いを誰もわかっていない、ということへのこだわりは相当なもので、リトリート参加者に厳しい発言をすることを一切いといません。

他にも色んな人がいると思いますが、私は上記の”規格外”の人たちによって、目を覚まされ、失望を味わい、救われました。ベルナデットのリトリートでは、悟りを開く=聖人になる、ということを信じている参加者の人たちが、彼女の正直さと辛辣さに失望していましたが、私はフィルターの一切かかっていない存在の仕方に触れることができ、深く感謝しています。彼女のそばにいると、あるいは彼女の著作を読むと、彼女の神への情熱に感染するような気がします。もう一度会ってみたい人の一人です。


”私”発電

変な日本語ですけれども・・・

”私”という感覚を維持するには、エネルギーが必要です。大抵の場合、
思考→感情→センセーション(感覚)→もっと思考→もっと感情→もっとセンセーション→もっともっと・・・

といった具合にエネルギーが発電されるように思います。私の場合、すごく些細な行動を行うにも、この余計なプロセス、”私発電”、が入っていることに気づきます。

例えば料理をするのに、”しなくちゃ!”という思いを持たなくてはいけない、この動機がないと行動がおきないということはあり得ません。昨日書いたように、自動反応化している自分の行動をゆるめて、スローダウンして見てみると、行動は単に起きていて、思考の方が後付けであることに気づきます。

”しなくちゃ!”という言葉が頭に湧くと、例えば焦りが湧きます。焦りは体の感覚を生み、体の感覚はエネルギーとして知覚されます。このエネルギーが、行動の原動力のような気がしていました。だから、”しなくちゃ”呪文を頭で繰り返し、焦りの感覚で自分を煽る、ということを日常的に行っていました。それこそが私の活動を支えている、と信じていました。

これ、とても疲れます。しかも無用です。

ベルナデット(バーナデット)・ロバーツは、彼女の著書『The Experience of No-Self』の中で、このエネルギーが抜けていき、自分、という感覚が消えて行った過程について表現しています。人まね小僧の私としては、彼女が表現したように、私発電エネルギーを自分の中から全部流しだす、というイメージを試してみましたが、その時”私”は消えませんでした(笑)。”抜きたがっている私"がいたわけですから、彼女の話が根本的にわかってなかったわけです。

このエネルギー発電を行っていると、”私”の存在が感じられます―少なくとも、そういう気がします。ですが、時間をとってこの”私という存在感”をチェックしてみると、輪郭が特定できません。

ちなみに思考は勝手に湧くものですから、止めることなんてできません。せいぜい、エネルギー発電が起きたときに、気づくことがあるだけです。この気づくことも、私に起こせることではありません。

ただ・・・一度こういう知識が頭に、心に、どこかにひっかかると、どうもその、”気づき”が起きやすくなるようなことはあるようです。

『AをするとBが起きる』

という思考・定義を真じる能力が消えてしまったので、曖昧なこと、この上ない表現になりますが(笑)。


2014年8月13日水曜日

”私”する癖

3−4年前のことですが、サンクスギビングに、自宅で一人リトリートをしました。ほんとうのところ、物事はどうなっているんだろう?という疑問に、本気になりはじめた時です。私の幸せプロジェクトはおいといて、真実とやらはどうなの?

3日間、家から一歩も出ずに瞑想したわけですが、同時にいろいろな疑問が自然に湧いてきて、様々なことを試しました。まず朝目が覚めたとき、

『目が覚めたら起きないといけないと思ってたけど、実際そうだろうか?・・・起きないといけないと思ってるから起きるんだろうか?私が決めて行動を実行しているんだろうか?』

という疑問が湧きました。それまではそう思ってたけど、読んだ本にはそうじゃないと書いてある。実際のところはどうなんだろう?このままじっと寝ていたらどうなるだろう?

頭は忙しく回転していました。”起きるべきよ。” ”トイレに行かなくちゃ。” ”このまままた二度寝しちゃうかも。”等々。そしてある瞬間、気がついたら起き上がっていました。それはまさに、ある瞬間にいつの間にか起きていて、意識が行動を捉えたのは、行動が起きた後でした。

あらま。

結構びっくりしました。

トイレに行って顔を洗って、そのままリビングに移り、ソファで瞑想を続けようとしたのですが、ソファに横になったとき、自分がいかに自由であるかということに気づいて、充足感・幸福感が溢れかえってきました。

『ああ、なにもしなくていいんだ。こんなラッキーなこと、あるだろうか。本当になにもしなくていいんだ。』

体中の力が抜けて、溶けるような思いがしました。”何もしなくていいんだ”と頭の中で繰り返し、体の力がどんどん抜けて沈んで行くような感じに身を任せました。

やがて”なにもしなくていい”、は、”私しなくていい”、に変わり、さらに深い開放感をもたらしました。”私”、というのが役割―あるいは一種の仕事みたいなもので、実はとても疲れるものなのだと、その重荷を初めて実感しました。

無意識だったことが一度意識にとまると、ものごとは二度と以前と同じには見えません。”私”をやめるという経験、その開放感は、私の中にとても強い印象を残し、その後日常の中で、自分がいかに”私”しているか、そこにどれだけ無理があるか、折節に感じるようになりました。


2014年8月12日火曜日

透明で、透明で、透明なもの

ジムでのヨガクラスの最中、
襲ってきた苛立ち―のさなかに、
ふと、苛立ちと”私”の境を探してみた。
イライラは胸の中に巣くっている・・・
このお馴染みの感覚。

でも、あれ?
探してみると、境がよくわからない。
胸ってどこだっけ?

この辺、ここの中に、このモヤモヤと、イガイガがあって
大嫌いなの。

・・・と、いつも思ってたのに、それがどこにあるのか、
いざ見てみると、よくわからない。

あんなに張り裂けそうな感覚があって、どけようとしても
どけられなくて、助けて!って叫びたい気持ちだったのに。

よく見てみたら 



苛立ち、という名前が消えて
体の感覚だけが残って、、、

と思ってたのに、感覚の所在もわからない。
感じてた自分の所在もわからない。

二つの境は―――論外!
あまりにも明白。

たとえようもない、ゆるやかさだけがそこいら中にある。
あまりにも満ち足りていて、、、

自分がないのにすべてがある。

自分がないと、すべてがある。

その果てしない充足感の中、
なにごとも起こらなかったかのように、
体はせっせとヨガを続けている(笑)。


神様はここにいる(2)

小さな男の子が、二階で眠っている赤ちゃんに会いに行ってもいいかと、お母さんに尋ねました。お母さんの許可を得て、男の子は二階に上がって行きました。一方お母さんは、赤ちゃんを見守るために取り付けてあるビデオを通して、男の子が何をするのか、興味津々、見守っていました。

小さな男の子は、赤ちゃんのそばに行くと尋ねました。
”どんな感じか教えてくれる?ボクもう、忘れちゃったんだ。”

生まれてきたとき、私たちは自分が何物であるか、というアイデアを一切持っていません。目に入るもの、体に触れるもの、一切に対し、それが何であるとか、何を意味するとかいう考えを一切持っていません。ただ目に入るものをありのままに見、聞こえてくるものをありのままに聞いています。刺激に対して時には笑い、時には泣きます。その反応は1瞬1瞬移り変わり、一つの状態に長くとどまることはありません。生まれてきた時、私たちは自分が”私”であることを知らず、周囲のすべて、見聞きするものとの間に境を持っていません。

この感覚は、やがて薄れていきます。”私”という感覚が確立するにつれて、目に見えない境界線が様々なところに生まれていきます。境界の感覚自体は、それ以前に起きていますが、多くの場合、自分の名前を自覚することによって、境界の感覚、”私”という自覚が確立します。

小さいうちは、まだこの感覚はあいまいです。

小さいとき、自分の名前を呼ばれても、何を言われているのかさっぱりわからなかったあの感じ、覚えていませんか?何度も名前を呼ばれて、”あなたのことよ!”と言われて、”あ!そうか。”と思ったあの感じ、覚えていませんか?あるいは自分のお子さんに、何度も何度も教えてあげなければならなかったかも知れません。

”あ、そうか”と同時に、”なにか違うなぁ”と思ったのを私の場合は覚えています。自分の名前、自分、という感覚そのものがまだ曖昧なので、何か気に入ったものを見ると、”私はゾウさん!”となってしまいます。それが近所のみかちゃんでも、たとえうんちでも(笑)。うんちが汚いもの、と頭に登録されていないからです。

また小さいときは、何かに没頭すると、あっという間に”私”という感覚が消え去っていたと思います。”私”が何かをしているのではなく、私と行為は一体でした。私は自分のしていること、触れているもの、見ているもの、そのものでした。


2014年8月11日月曜日

神様はここにいる(1)

神様、というと、宗教的な匂いがたちこめるのは百も承知ですが、ここでは子供の頃に帰った気持ちで、この言葉を思い浮かべてみてほしいと思います。
大好きなペットが病気になったとき、助けを求めてお祈りしたことはありませんか?

”かみさま、シロの病気がなおりますように”

”小さい頃は神様がいて、毎日夢を叶えてくれた
 優しい気持ちで目覚めた朝は
 大人になっても、奇跡は起こるよ”

ユーミンの歌を聞いて、心の深い部分を掴まれた気持ちになるのは、私だけでしょうか?

神様が宗教になってしまう前、雲の上に座っている、白ヒゲをはやしたおじいさんになってしまうよりも前、大自然の中に立っていて、夜空の無数の星を見上げて、自分が完全に溶けてしまっていたときの感覚・・・あの大きさ、自由さ、無限さ。

神様という言葉は、人を超え、すべてを超えたもの、そしてそのすべてを抱合するものを表すために使われた、一表現であったと思います。言葉にできないものを言葉にしようとして生まれた概念。

科学者はそれをエネルギーと表現します。すべてはスター・ダストでできている、という人もいます。仏教では無、あるいは空、とも表現されます。

すべては神様同様、言葉にできないものを表現しようという、試行錯誤、試みです。すべての名称には、
”ほら、あれ、こんな感じなんだけど、知ってるでしょ?言葉にすると限られるけど。”
程度の役割しかありません。コミュニケーション用に、なんとかお約束を設けた、というところでしょうか。

神様に限らず、すべての言葉には、物事を指し示す役割以上の意味はありません。”痛い”という言葉は痛みの感覚・直接的な経験とは違うけれど、起きたことがらについて(この場合は体の状態、個人の体験した感覚)、大まかなコミュニケーションを行うのに役立ちます。”ね、言いたいこと、ちょっと感じはわかるでしょ?”というお約束です。

この”お約束”が本来の価値以上に重要視されるようになると、世界が一変します。神様ではなく、神様の名札があがめられるようになります。言葉や概念が神様になってしまいます。そして様々な苦しみが生まれます。


2014年8月9日土曜日

イシャヤのアセンションとは

今の自分に合わなくなった古い記事を削除してしまったので、イシャヤのアセンションに関する簡単な説明を足しておきたいと思います。

イシャヤのアセンションというのは、瞑想法の一つです。1990年代に、マハリシ・サダシバ・イシャム(MSI)という男性(アメリカ人)によって広められました。日本には90年代後半に紹介されました。

イシャヤのアセンション(以下アセンション)は、とてもシンプルな瞑想法です。気がついたとき、アセンション・アチュチュード(以下アチュチュード)と呼ばれる短いフレーズを思い浮かべ、起きることを起きるがままに任せます。特定の姿勢を保つこともなく、思考をどけようとすることもなく、アチュチュードを頭にとどめようともしません。この何事も強制しない、自然で優しいプロセスにより、通常無意識に繰り返されている思考パターンが破られ、頭・心・体に深い休息をもたらします。

私たちは通常、人生を生きる中で自分に関する様々なアイデアやイメージを積み上げます。年齢、性別、職業、性格、得手不得手、好き嫌い等々・・・それらのイメージと自分を同一化して、それらが自分であると思い込むようになります。しかし同時に、どこか深いところでは、それらが単にアイデアもしくはイメージにすぎず、本来の自分、自己の本質は何事にもしばられない、無限の存在そのものであることを知っています。

そのため、多くの人が心の中に、言葉にできない違和感を抱いています。何かがおかしい・・・本来の無限の存在としての自己を忘れ、ごく限られた存在として自分をイメージしているわけですから、なんとも満たされない思いがあるわけです。この満たされない思いをどうにかしようとして、私たちは様々なものを求めます。お金、名声、恋愛、仕事、車、コンピューター、その他、ありとあらゆるものを求めますが、どれにも満足できません。欲しいものを手に入れて、つかの間の満足はあっても、次の瞬間にはまた何かを求めています(実際、つかの間の満足は、欲しい物を手に入れて、その瞬間何も探さなくていい、追い求めなくていいという、”求める狂気からの自由”がもたらす安堵感なのですが、大抵の場合、”物”がもたらしたのだと私たちは勘違いし、もっと、もっとと次を追い求めます)。

アチチュードは、賞賛、感謝、愛に基づいた、存在の本質を表現するフレーズです。そのため、私たちの深い部分、自己の本質をしっている部分が共鳴し、即座に自己の本質を思い出します。それを多くの人は、深い静寂の体験等と表現します。アセンションは目をあけた状態でも、閉じた状態でも行えるため、日常生活に浸透しやすく、いつでもどこでも行うことができます。

以上がごくおおまかな、アセンションに関する説明です。


2014年8月6日水曜日

プロセスは終わらない(2)

長い間、ネガティブな思考(と一般的に信じられているもの)を取り除くことが、スピリチュアルな成長の証、ゴールと思っていました。アセンションの教師養成コースの間に変化が訪れ、私のするべき仕事はアチチュードを思い浮かべるだけで、”こうあるべき”と思っている感情を人工的に生み出すことではない、と気がつきました。アチチュードを思い浮かべ、結果ひどいことを言うかもしれない、広い心で対応するかもしれない。でも私のすべきことは、ただ単にアチチュードを思い浮かべるだけ。

しかし、自分の中で特に大きな問題だと思っている事柄が起きるたび、この気づきはあっという間に忘れ去られました。どうしてこの問題をクリアできないんだろう、アセンションが足りてないからだ、いくらアセンションしても進歩しない等々、自己嫌悪しました。

アディヤシャンティはよく、”繰り返し起こることが或る場合、それは注意を払う必要がある証だ。”と言います。生命の源が、私たちの注意を促すようにメッセージを送っている。深く探る機会だ。アディヤの経験に習うべく、自分の問題を掘り下げる、というのに時間をとってみたこともありますが、それは問題の終焉になりませんでした。

かといって、養成コースの間に自分で経験しながらも、カーリーの言うように、すべてがこの瞬間に終わりを告げる、ということに自分を明け渡しきれない。以前はやり方が悪かったから問題が終わらなかったんだろうか、もっと深く掘り下げるべきなんだろうか、でも何かが違う気がする―そんな想念をちょっとの間もてあそびました。

同じ頃、バイロン・ケイティのライブセッションを見ていて、いつまでワークをしなくてはならないのか、という質問に対し、”ワークはプロセスなの。やり続けるものなのよ。”と言っているのを聞きました。

ある地点で突然、”ああ、例え問題を掘り下げて、この想念のパターンがクリアになったとしても、次の問題が出て来る。プロセスを続ける限り、絶対に永遠に終わらない、ということが自分の中ではっきりしました(ちなみにアディヤは別の話題の中で同様のことを言っています)。

では、だから何もしない、ということを意味するのか?

私にとっては、そうではありません。まず、何かをするとき―アセンションでも、想念の境界をチェックすることでも、体の感覚に注意を払うことでも、自分の意志に関係なく、するときにはやっており、やろうと思っても、やらないときはやっていません。何かをする、しないは私の意志によって起こっているのではない、というのが、明らかな事実になっています。

また自然な現実は、記憶の中にとっておくことは不可能で、毎瞬確認することしかできません。

ただ、毎瞬毎瞬新鮮に、勝手に起きていることを、時間の中で”私”が継続的に行っていることだと信じ込むことで、終わらない架空のプロセスを生み出し、苦しみがうまれるのだと気づきました。プロセスという概念を信じるには、”私”という行為者が存在しなくてはなりません。プロセスを行う私と、その進捗のストーリーが継続し、苦しみを生み出します。私という幻想が続く限り、良い・悪い、ポジティブ・ネガティブ、という幻想も続きます。”問題”があると信じ込み、それに取り組んで行くことになります。前進していると思う間はつかの間の喜びも経験できますが、必ず反対を経験するようにできているところがミソです。

私という幻想を私が取り除くことなど不可能ですから、気がつくより早く、また幻想の谷間にハマってしまうのかも知れないけれど、プロセスというものそのものが、他の概念同様、ただの概念だと気づいた次第です。