2014年8月16日土曜日

見ること、見えていること

小学校中学年の頃、植物観察の時間がありました。観察してその内容をノートに記録するわけですが、初回の観察記録の後、担任の先生に、クラス全員の前でとてもほめられました。

”○○はこんなことに気がついて素晴らしい!見ろ、他の誰も注意を払ってないところに注意を払っている。”

褒められた内容が何だったのか、まったく思い出せませんが、見たままを書いただけでここまで褒められるとは、あまりに予期しなかった出来事で、嬉しいというより心底当惑したのを覚えています。

次の観察の時間は、自意識とプレッシャーで一杯でした。”前回、何がよかったのかわからないけれど、今回もうまくやらなくては。”同じ特別な経験を繰り返そうと、最新の注意を払いました。

結果は、前回とは正反対。クラス全員の前で先生にけなされました。”そんないらないところは書かなくていいから!時間の無駄!”自意識でふくれあがっていた風船がはじけて恥じ入るとともに、さらに困惑しました。前回何がよかったのか未だにわからない上に、今回と前回でなにが違ったのか、まったくわからなかったのです。

つい最近、自然な状態と、”私”という無用なフィルターが入ってる状態の違いを意識したときに、小学校のときのこの記憶が蘇りました(いつもながら、だからどう、というわけではありません・笑)。

私たちがごく自然な状態にあるとき、必要なことはすべて見えているし、聞こえているし、気づいています。よりこの瞬間に気づいていようとか、周囲で起きていることに気づいていようとする努力は、重複した行為で、無用です。その瞬間に”私”という架空の行為者=力みが生まれて、視野や感性は狭まります。

何かをしようとする状態から自由であるとき、”私”という幻想が消えている時、私たちがごく自然に存在しているとき、すべてのことは意識の網の中で、生き生きと輝いています。ふと目に入るものすべての、不思議な美しさにはっとするのは、こういった瞬間です。