2018年4月11日水曜日

成長のらせん5 〜夢見る力


”人というのはとても小さなものだ。実際それは合成物で、
それ自体で存在するとは言えない。気づかれていなければ、
それはそこにないのだ。
それはマインドの影、記憶の累計に過ぎない。
純粋な存在はマインドの鏡に、知っていることとして反映される。
知られたものが、記憶と習慣を元にして人の形を取る。
それはただの影、あるいはマインドのスクリーン上の、知
るものの射影に過ぎない。”

〜ニサルガダッタ・マハラジ
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間もなく日本に向けて出発。とても楽しみです。

イシャヤのアセンション、ファーストスフィアコースは引き続き受付中です。
ご参加お待ちしております。

情報、お申し込みはこちらから。

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私はもともと、超能力とかUFOとか、神秘的なものが大好きでした。
占いも大好き、珍しいもの大好き、特別そうなもの大好きで、どんなものにも
ワクワク飛びつき、集めていました。

物も、情報も、方法も。

アセンションを始めてから、なぜかそういう特別なことへの興奮が次第に、自然に
消えて行きました。

興味がどんどんなくなって、それでもあれこれ新しい”覚醒者”情報にはすぐに飛びつく
ようなところがあったし、
神秘体験、特殊体験をいつでも待ち焦がれて、目を見張らせていました。

”あ、なんか頭が変な感じ。これはもしかして何らかのシフト?!”
”ちょっと重心がずれて、めまいが続くわ。これはもしかして体が変換している?!”
”耳の奥で音がずっと聞こえてる。これは私の感覚が開いた?!”

やがてある時、マインドはとてつもなくパワフルで、
しようと思うなら、私の望む特別な体験を、いついかようにでも創ってくれてしまうのだ、ということが自分の中ではっきりとしました。

”私が望むなら、多少時間はかかっても、
私は必ず、私の目指した特殊体験を手にするだろう。”


あまりにはっきりわかってしまったので、そこで特殊体験への願望がすっかり終わりました。

創造できてしまうということは、できたものは自分の想像/創造であり、現実ではない。
そんな実存のないものに、何の価値もない。
少なくとも、私はそれには興味がない。

それは自分の中に突然訪れた認識、確信だけでしたが、のちにたまたま見たテレビ番組で、科学者たちが人間の、とてつもない”夢見る力”を語るのを、いくつも見るようになります。

”私たちは何も現実を見ていない。瞬時に予想で現実や未来を想定し、作り出している。”
というのが、科学者たちの発見。

色というものは存在しない。
直線が曲線に見える。
遠近感も視覚トリックで簡単に騙される。
記憶はまったくあてにならない。

もうわかってる、と思っていましたが、テレビを見ながら実際にゲームで体験してみると、どれくらい現実など見ていないかがわかって、さらにショックなものはありました。


”私たちは集団幻影の中で生きている”


と言ったのは、ニサルガダッタ・マハラジだけではありません。

そんな気づきの中から、”変わらないもの”にしっかりと目が向きました。

私たちの思考は、やってきては去ります。
感情も、起きては去ります。
体の感覚も同様です。
人生のすべての出来事も、同様です。

私たち自体が、生まれては死にます。

起きては去るもの、事、はすべて事象であり、事象は存在ではありません。
事象には存在(実存性)はありません。


ただの現象である”私”が、同じく現象である”私の感情”やら、あり方やら何やらを変えようとする。。。。不可能性ははっきりしています。

え・・・と、波が波を襲おうとしています、変えようとして(^^;)


夢見る力は私たちに与えられている贈り物だと思います。

でもまずは、実体が何なのかを知ってから。
遊ぶのはいくらでも、それからでいい。

というのが、私の中で湧いた思いでした。


そうして今も、日々、夢のまにまに現実が垣間見えるのを見つめています。

2018年4月9日月曜日

指針、あるいは支え


パワフルなので、迷いがある時、そうでなくても日常ついつい聞いてしまう、
読んでしまう人たちというのが何人かいます。

ジェッド・マッケナ
ニサルガダッタ・マハラジ
バーナデット・ロバーツ

この3名は私の定番。鉄板。

最近こそあまり読まない(聞かない)けど好きなのが、

U.G.クリシュナムルティ
バイロン・ケイティ
トニー・パーソンズ

ニサルガダッタ・マハラジの場合、クラシックとされている『I am THAT』は
ずーっと持っているのになぜかあまりはまったことがなく、
いつでも開いてしまうのは『Prior to Consciousness』。
あとはYouTubeのビデオに二つほどお気に入りがあって、
それをなんども見てしまう。ご飯食べたりしながら(笑)。
(キリスト教の僧院の一部では、食事のとき聖書や聖人の言葉とか読む人がいて、
皆、無言で食事しながらそれを聞くのが規則だそうです。ちょっとそんな気分。)

ジェッド・マッケナは本当に色々な意味で助けになってますが、未だ日本語訳が
出てないんですよね。
一生翻訳など許さないのでは、と思っていたら、最近数ヶ国語に訳されている
ことを発見。もしかしたら誰かが今、日本語に訳してる最中かも?!ーだったら
すごくいいんですけど。
是非とも上手に訳してもらいたい本です(トリロジーシリーズ、3冊あります)。

翻訳なんかは特にそうですが、誰かの会話や言葉を集めて監修した本とかいうのは、
紹介している方の視線を通して見ることになるので、紹介者の目線によって、
同じ人でもまったく違う印象を受ける、というのはありますよね。

例えばマイスター・エックハルト。

ヒロさんのこの記事で読んで、その深さにすごく打たれ、ブログページを携帯に開けたままにして、何度も何ども読んでいた時期があります。歯医者さんで、お店屋さんで、空港で、仕事場で。。。

アメリカ人と話すときのために、英語のものを一生懸命探したりもしたんですが(ヒロさんに”原文を探しています”とか言っちゃって。原文はドイツ語だってーの。英語も訳だってば!恥)

そうして見たら、マイスター・エックハルトは数々の美しい、有名な名言がたくさんあって、”ああ、この人だったんだぁ。” とても有名な方でした。
だけど正直、それらの有名な名言には、心惹かれたことがなかったんですね。

ところが今回、ヒロさんのブログの影響で探していたら、これでもか、これでもか、と心に深く響いてくるものが紹介されている。私のマイスター・エックハルトの印象がガラリと変わりました。
やっぱり紹介者の視線が、大きな違いを産むんだなぁ、と実感。

じゃ大好きな、もう何年もお気に入りのジェッドの本を訳してみたらいいんじゃないの、という発想もなかったわけではないのですが、、、

怠けもんなんでしょうね。
残念ながら、そういう風にcut outされていないようです。
(cut outはそんな形に切り抜かれていない、つまり向いてない、って意味です。)

”目覚めた人間の多くは、ただそのまま人生を生きていく。
それを表現すべく、労を尽くす者は稀だ。
鋭い表現力を持つものはさらに稀だ。
僕は今でも時々に、そんな表現が現れていないかと下界を覗く。”

というようなことを言ったのはジェッド・マッケナです。(上記は要約)

言葉にできないものを言葉にすべく労を費やしてくれた方々に、そしてそれを集めたり翻訳したりして紹介して下さった(下さる)方々に、深い感謝を感じています。


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2018年4月3日火曜日

成長のらせん4 〜わたしたちの実年齢


先週末はイースターだったので、卵にペイントしてみたりしました。

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教師養成コースに行くたびに、いつも驚いていたのは、

”参加者が全員どんどん若返る”
ということでした。

実際これは、教師養成コースでなくとも、アセンションのコースを教えていると、
ほぼ毎回気がつきます(宣伝じゃないので、安心して先をお読みください(笑)。
宣伝は最後に別途で設けています(^^)。)

たった3日間の間に、みんなの顔が子供に返る。

深い休息や、安心感がもたらす効果の一つです。

心身が休まって身体が若返る、というのは当然ありますが、
”あれをしてはいけない”、”こうあってはいけない”
と信じてきたことの数々を捨てて、あるがまんまの反応を自分に許すことが増えると、
子供のようなあどけなさや自由さが自然に顔に現れてくる、というのもあります。

さて、ここ2年は、それにちょっとした違和感を感じてもいました。
参加者はともかく、ボランティアをしている教師たちもみんな子供のよう。
60歳を超えている人も、22歳の人も、みんな実年齢10歳〜13歳くらいに感じられました。

いい、とか悪い、とかは一切ないのですが、何かが引っかかる。
なんなんだろう?
なにが引っかかっているんだろう?

そしてある時、ふいに腑に落ちました。

実年齢。


年齢と成熟度は同じじゃありません。
”大人”の振りをしているその皮を脱いでみると、仮面を取ってみると、私たちほとんどが実際、それくらいの年齢から成長していない。

気づいてからずっとあたりを見回していましたが、私の目に実年齢的に成熟して映った人は、たった一人しかいませんでした。

改めて言いますが、良い悪い、ではありません。
ただ本当にびっくりしました。

その後も日常の中で、友人の悩みを聞いたりしていて、私たちは実際は12歳どころか、
あの赤ちゃんのとき、”んばぁ!”と大人の注意を引いて喜ぶ、安心する、あの地点から、
ほとんど成長していないんだなぁ、と実感しました。

外界から注意を引いて、自分の存在を確認して安心する、その方法こそ、
赤ちゃんの時より巧みになっていったかもしれませんが、根本は同じです。
ただ、それを繰り返している。

外界に確認しなかったら、フィードバックがなかったら、”私”は存在してるか
わからない、いなくなっちゃう。
よくても悪くても、フィードバックがあれば、私が存在してることが確認できる。
”私”の何らかの価値が確認できる。

だから、存在を肯定されないかも、されなかったらどうしよう、という恐怖は、
私たちの中にとても大きくあります。

私たち、表面上大人の多くが、日々その恐怖と戦いながら、その恐れに駆られながら、
その恐れ主導の元で生きています。


成熟、というのは、その時々の必要性が十分に満たされると、自然におとづれるものです。

ここで、ああ、子供時代に満たされなかったことがたくさんあるから、インナーチャイルドをまず満たしてあげないと、というアイデアが出てきます。

インナーチャイルドというアイデアに悪いことなど何もありません。
適切な表現です。

ただインナーチャイルドはアイデア、架空のものなので、満たしようがないんですね。
乾いた砂のように、水を撒いても撒いても吸い上げる。
一瞬は満たされたようでも、すぐ次の必要性が出てくる。

今度は私のああいう面が出てきた、こういう面が出てきた、
それはきっとあの時のあれが傷になってたからだ。
それを癒さないと、あれを癒さないと・・・

底なしのブラックホールのように、エネルギーをつぎ込んでもつぎ込んでも、
終わりはない、満たされることはない。

架空のイメージを満たすことなどできるわけがありませんから、
”本体”を見つけない限り、何も変化は起こりません。

本体。

本体って何だろう?
自分の本体って何だろう?

起きてくることはすべて現象ですから、現象は存在ではありません。
現象に存在はありません。
現象は存在から起きます。存在の中でのみ起きることができます。

じゃぁ、存在しているのは何なのか。

それをただ見つめる時に、それが自ずとあらわになって行く中で、
私たちは自らを知ることになります。

そして知るたびに、それが深まるたびに、

自分の中の真の充足度が増していきます。

さらに安心して、架空の自分を捨て、存在を眺めるようになります。

ごく自然に、成熟が起き始めます。

成熟というのは、真の存在を知ることでのみ、もたらされます。

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イシャヤのアセンションコース、4月開催の情報は下記から。