2014年12月27日土曜日

悟った人のあり方

私にはこれまで、たくさんのスピリチュアル・アイドルがいました。私が師と仰ぐカーリーはじめ、U.G.クリシュナムルティ、バイロン・ケイティ、アディヤシャンティ、トニー・パーソンズ、デービッド・ホーキンズ、等々。

大抵のパターンは、
誰かにその人はすごい、目覚めている、というようなことを聞く→試しに本を読んだりビデオを見たりする(=飛びつく)→すごい!と納得→その人がどうやって目覚めたか、ということに関する話しを微に入り細に入り尋ねたり、調べたりする→その人のすごさについて証拠集めをし、納得し続ける→自分をその人と比較し、近づけようとする。
といったような感じでした。

私の周囲にも、同じ穴のむじながたくさんいました(笑)。

振り返って面白いと思うのは、私の中には”悟った人とはこういうもの”という尺があり、それに基づいて本物と偽物を”確実に”見分けられると思っていた点です。目覚めていない私が、目覚めている人はこういう風に見え、話し、行動するべき、と確信を抱いていたのですから、そのへんてこりん振りといったらないのですが、それをおかしいと思うことはまったくありませんでした。

私の周囲の人たちも同様に、自分の”本物を見分ける眼力”に非常な自信を持っていて、グル批評を声高に語っていました。

『誰それはこんな発言をしたから、本物じゃない。』
『こんな行動を取るなんて、昔は本物だったけど、今は”堕ちた”わね。』
等々。やれやれやれやれ・・・・。

私の尺の一つは、”特別な空気”でした。悟った人たちは周囲に特別な空気(オーラ?)を放つように感じて(信じて)いたのです。

なのでバーナデット・ロバーツに会った時は、心底困惑させられました。

特別なオーラはまったくない。無条件の愛どころか、攻撃的とも取れる発言をバシバシする。すべてを明け渡すどころか、強固な意志の人、という感じのエネルギーが全身にみなぎっているようにすら感じられる・・・・。その言葉は真実に満ちている一方で、彼女を偶像化するチャンス、隙など一切ない。ただのそこいらにいる、頑固なおばあちゃん、という感じ。

彼女の家族は、誰ひとりとして彼女を目覚めている―スピリチュアルであるとすら思っていないそうです。コースを教えに来る道すがら寄った娘さんの家で、「スピリチュアル・コースを教えに行くところだ。」と言ったら、鼻で笑われたそうです。「私の名前をグーグルしてみなさい。」と言ったら、娘さんはお母さんに関するwikiページがあったのに仰天して顎がはずれそうになっていたそうです。

彼女のコースでは、礼拝があったりします。トニー・パーソンズのリトリートで出会った人は、バーナデットに非常な興味を抱いていましたが、礼拝がある、と話したら心底引いていました。礼拝は非二次元に合わないわけです。

私たちの思い込みは不思議です。
私たちの全宇宙を形成しています。

もし、手に取って眺めてみる・・・立ち止まって再検証してみる、といったようなことをしなかったら、一生を、自分の中に形成された思い込みに捧げて終わってしまうのだな、と思います。私たちの自分の信念・思い込みに対する献身の深さと言ったら、他に例えようもありません。自分を見てみて、深く実感します。

間違った神様に一生を捧げて終わってしまう・・・
立ち止まるチャンスがあった幸運に、深い感謝を覚えます。

2014年12月22日月曜日

らせん

夢の中にい続ける限り、私たちは同じことの循環を繰り返す。車輪の上では、すべてのものが違うイメージを伴いながら、常に同じことを何度も何度も繰り返している―とは、トニー・パーソンズの言葉ですが、今年彼のThe Open Secretを読み返したとき、それがなんとも深く心に響きました。

数年前のことですが、私は母と国際電話で話すたび、母が同じ話ばかり繰り返すことに少々辟易していました。
「お前がいない間に、本当に色々あったのよ!」
と、母は深い感慨のこもった声で話をはじめるのですが、少なくとも90%は、何ヶ月前、あるいは何年か前に聞いた話ばかりなのです。

年を取ったから、などと多くの人は片付けるのでしょうが、私の中には母にそれを気づかせたい、という我があり、またあまり楽しくない同じ愚痴を聞くことに食傷気味だったので、うまく聞き流す、ということができずに苦痛に感じていました。また、”同じ話ばかりしていることに、本当に気づかないのだろうか?”と心底驚きを感じてもいました。

そんな話を私の師、カーリーにしたところ・・・彼女にまじまじと顔を覗き込まれました。その顔は、”あんた、自分は違うとでも思ってるの?”という無言のメッセージをしっかり、はっきり送っていました。
”なによぉ・・・”
と思いました(笑)。自分は母と絶対に違う、同じ話なんか繰り返してないわよっ、まだそんなに年いってないんだから!―と、本気でむっとしました。

その後もしばらく、この驚きの事実について友人たちに話したりしていたのですが、やがてあるとき、自分の思考やパターンも、常に同じことであることに気がついて愕然としました。

何度も何度も同じ問題に繰り返しぶちあたる。
いくら瞑想しても、ありとあらゆる努力をして、ちょっと改善したような気がしても、ちょっとすると同じことを繰り返している。悩みも、文句も、ちょっとシナリオが変わるだけで97%は一緒な気がする・・・

やがて問題だけでなく、人生そのものが、同じパターンの繰り返しである、という感じが強まってきました。いいことが起きて、嫌なことが起きて、いいことが起きて、嫌なことが起きて・・・。

ただひたすら、同じことを繰り返す。自分、というものが本当に何なのか心底知るまで。

物事の本質に目覚めて、”風穴”が空いた後も、この繰り返しは続いたりします。カーリーは、”これまでたくさん感情的、エネルギー的投資をした物語は、慣性の法則で、それが止まるまでちょっとかかったりするものよ。”なんて言っていたのですが、止まるのかどうかすら、私には知りようもありません。


同じ物語が繰り返す中で、はっと我にかえり、”それ”の視点に戻る。そしてまた、物語に飲み込まれて、また我に返る。すべてが自然にその行程を終えるまで―あるいは終わらないままに。

2014年12月19日金曜日

不思議

ちょっと前に、最近あった経験について書きました。それはものすごい自己溶解の経験とか、大きなワンネス体験とかではまったくないのに、これまでで一番不思議な体験でした。その後の変化も非常に慣れないもので、不思議な感じがしています。

それまでの私にとっての大きな気づきの体験というのは、どこかにある種の高揚感とか恍惚感とかを伴う感じのものが多かったのですが、そういうものはほとんどなくて、どちらかと言うと、底が抜けたような感じがします。

一番の違いは、『お化け』がいなくなったこと。

先日のお絵描きとはまたちょっと違うんですけど、これまで常に”私の何かがおかしい”と思っていて、間違いをおかすことを恐れて生きていたのに、それが唐突に抜け落ちてしまった感じです。”私の何かがおかしい”と思っていると、あれをやっても、これをやっても、何か間違っているんじゃないか心配で、その陰に常に脅かされながら生きることになります。

間違いをおかさないように生きる、というのは、きっと多くの方が経験しておられると思いますが、とてもしんどいことです。常に頭の中のコンサルタントに価値のない相談をして、恐る恐る、地雷を踏まないようにつま先立って歩いている。やることなすこと、逐一確認して、やった後にもしつこく見返し検証する。そこいらじゅうに怖いものが溢れている・・・。

この”心配感”が、唐突に、一切、なくなってしまったと想像してみて下さい。

あるいは、身体機能的に、そういう心配が不可能になってしまった、神経回路が抜けてしまった、というのでもいいと思います。

自分の言ってることや、やっていることがスピリチュアルかどうかなんて、これ以上馬鹿げたことはなく、気にする事自体が不可能です。自分を脅かしていたお化けもいない、コンサルタント(マネージャーでもいいですが)もいないし必要ない。

最初はとても静かな安全感に包まれて、穏やかな経験をしていたのですが、当然、いつもの騒がしい発想も帰って来て、それをどうしようとも思わない、思えもしない自分に、かすかに”本当にこれでいいのかな?”という思考はわきました。”ここであぐらをかいて傲慢になってしまうんだろうか”・・・心配ではないけれど、思考はありました。それを気にする能力もないままに、また日が過ぎて・・・

思考がごった返しに湧いて、”心配”を取り戻そうとしている感じがすることが何度かありました。なんとか古い思考パターンに引きずり戻そうとしている感じとでもいいましょうか。ただ、それが起きるたびに、遅かれ早かれ興味が、”おおっ、これは一体何が起きているのだろう?”というところへいってしまいます。思考の中身より、起きていること全体に興味がいきます。

そしてその感覚は、これまでの”ああ、こんなに思考が湧いてしまって!早く切り替えなくては”みたいなもの、これはよくないから自分を変えようとか、スピリチュアルな後退だわっ!―みたいな発想とは全く違います。

正直言って、死ぬほど楽です。嫌な思いをするのも楽です。
何かが間違ってるから、それを直さないと、と思って生きることが正しいと、何十年も信じてきたのに、なんとも不慣れで、不思議な感じです。


祝!ヒロさんの新刊

2014年12月16日火曜日

世界の中心

私が”私”である、と信じているとき、世界はこんな風です。

   
    私がすべてを選んで動かしている。  周囲の物事が私に向かって起きる。
    私に決定権があり、責任がある。  人や物のせい/おかげで、不幸/幸福になる。

個人的には、自分を犠牲者のように感じていた頃は、右側が強く感じられました。調子がよく、自分が物事を管理できているように感じていたときは、左の感覚が強く感じられました。でもいずれにしても、世界観は基本的に同じですね。

”私”という世界の―あるいは宇宙の中心があって、”私”が”私以外のもの”と関わっている。”私”次第で世界が変わる。世界は”私”が動かしている。瞑想も、スピリチュアリティも、非二元も、他のすべてと同じく、”私”が手に取る、”私”のための道具です。”私”がよりよくなるため、より幸せになるため、よい気分になるため―。

”私の内側”も、ある意味、外側のすべての物と同じです。
”私”が”私の内側”を見つめている・・・別の物のように。

”私”という感覚がないとき、世界が・・・というか、力の流れがひっくりかえります。

赤い線は、すべてに満ち満ちている、生命のエネルギー・・・のつもりです(- - ;)。生命のエネルギーには無限の可能性があり、そこから”私”とか、すべてのものが現われては消えます。”私”は大きな海に浮かぶあぶくの一つで、それが他や、ましてや全体をコントロールする、などというのはあり得ません。

初めてこれをはっきり”見た”時は、びっくりしました。今年の春にトニー・パーソンズに会いに行ったときだったと思います。なるほどエクハルト・トールとか、色んな人が、「”私”は神様の振りをしたがる」「”私”は自分が神だと思っている」と言っていたなぁ、と思いました。

気づきは”起きる”のに、”私”は”起こせる”と思っている。
”私”をなくすことすらできると思ってる。すごい・・・・

でもそんな”私”を問題視している間は、視点が最初の絵、”私”という世界の中心に逆戻りしていて、生命のエネルギーはたまに訪れる場所とか、戻りたい場所、いつか永続的なものとして達成される状態、などといったもののように考えていました。

やがて”私”を問題視するばかばかしさが見えて。
さらにあまりにすべてがOKに感じられるようになって。
そうしたらある意味、こんな感じなんですが・・・


同時にすべては個々に違いが際立っている感じでもあります。
そして何よりも、そういった識別をすることが、どうでもいい感じがします。

物事の理解が高まるというよりは、どんどんどうでもよくなり、わからなくなる一方です。物事はあまりにすごいスピードで生まれては消え、来ては去って行くので、”わかろう”とすることは、それを止める―生きているものを檻に閉じ込めるようで、そうする気が起きない、といった感じです。

2014年12月13日土曜日

お化け(1)

ただの遊びです。。。。


嫌なものがあったので、お部屋に放り込む。ああ、これで見ないで済む。


どんどん嫌いなものを投げ込んでいたら、「怖い部屋」ができていた。
何があるのかよくわからないけど、怖いことになってる。

怖い、怖い。
あの部屋にはきっと大嫌いな蛇がうじゃうじゃしてるのよ。


ドアを閉め、忘れるように、見ないようにしているんだけど、
でも後ろにいつも何かが・・・


誰かが、「ドアのせいだよ。祀るといいよ。」と言ったので、試してみる。
お花を添えたり、アロマを焚いたり、超能力シールを張ったり、拝んでみたり・・・


でも怖いまま。

誰かが言った。「ドアを開けて、中を見ないとダメだよ。」


でも開けたらきっと蛇が出るよ。

開けられない、でもなくならない。
開けられない、でもなくならない。
それならいっそ・・・


部屋をちょっとだけ開けてみる・・・ちょっとだけ。
蛇が飛び出すよ!急いで閉じる。
??・・・何も飛び出さなかった。

もう一回開けて、一番手前にあった「怖いもの」を急いで掴んでみる。
ああ、蛇に噛まれる!


ただのヒモ?蛇じゃないの?


もっと取って見る。
取っても、取っても、出て来るのはヒモ、ヒモ、ヒモ。
いろんな色のヒモ。


部屋に入って電気をつけてみる。
色とりどりのヒモがたくさん。

なーんだ。


自由に出入りできる明るい部屋と、使えるヒモがたくさん。


2014年12月10日水曜日

ああ

不思議な一日でした。

朝いつものように瞑想していて、時間より早く瞑想を終えました。まだ心がざわついていたので、時間いっぱいまで瞑想を続けるべきかどうか、ちょっと葛藤がありました。

その時、目の前に伸びている自分の手、足とそれを覆っている毛布を見ながら、ふいに”This is it."という言葉が浮かびました。

This is it.

迷いがあるまま、葛藤があるまま、思考がうるさいまま、それだけ。本当に、ここにあるもの、それだけ。バーナデット・ロバーツの言葉を借りるなら、現実は目の前に見えているものそのまんま。裏も表も、読み解くべき謎も、隠された意味もない。改善しよう、改善できる、変えよう、という一切の呪縛が解けて落ちました。

それからクリスマス・ショッピングに一日忙しく駆け回り、夕方ジムでトレッドミルに乗っていました。前にもちょっと触れましたが、私の通うジムでは”私たちが退屈しないように”テレビモニターが何台もつけられ、爆音で音楽がかかっています。いつものように携帯とイヤホンを用意していましたが、youtubeを見る気にも、その他何かを携帯で見る気にもなれず、そのまま爆音と騒音の中で、テレビモニターを遠くから眺め、歩き始めました。

爆音と騒音の中で歩くうち、ふいに、
”ああ、本当にこれがすべてなんだな。”
とストンと落ちました。爆音の中に安心して身を任せきっている自分がいました。

周りにごちゃごちゃ人がいて、テレビのニュースやら、ドラマやら、人々のおしゃべりやらが溢れ返っている―これの何がいけないんだろう?何がいけないと思っていたんだろう?何を嫌がっていたんだろう?

これまで生きる中で、怖いものがたくさんできて、それを避けること、それから自分を守ること、それらを変えることに必死でした。お金が一杯手に入ったら、理想のパートナーが手に入ったら、仕事でものすごい成功したら、有名人になったら・・・きっとこのお化けを見ないで済むようになる、と思っていました。

その最終手段がスピリチュアリティでした。最上・最高の手段と聞き、そう信じていましたが、悟りを迎えた後には、果たして何が残っているのか、どこへ行くのか―考えたことがなかったような気がしました。

”お姫さまは王子さまと結婚して、その後永遠に幸せにくらしました”

永遠に続く至福、光り輝く悟った自分、というような空想の旅が終わり、仙人にはならないらしい、とわかった後、どこかのコミュニティのグルにはならない(なりたくない)とわかった後、目覚めて一体どこに着地するのか。

普通の、日常です。

家が嫌いで遠くへ行くことを夢見ていたのとまったく同じで、どこかへ行くことばかり考えていましたが、楽しい空想の旅の果てにあるのは、悟った人だけが住む特別な次元でもなく、”ごく普通の日常”への帰還でした。静謐さや神聖さばかりでなく、騒音や雑音に満ちて、混沌としていて、嫌なことも不快なことも楽しいこともたくさん起きる、この日常。

やっとそこへ帰って来ました。
ああ、旅が本当に終わった、という思いがけない、静かな感慨―経験のない、言葉で表現できない感覚がありました。

旅の終わりはユートピアにたどり着くことではなく、人としての人生にあることでした。生まれたときと同じ世界、スピリチュアリティの前と同じ世界、ただ一つの違いは心のお化けがいないこと。架空のお化けがいなくなったので、当たり前の世界にちゃんといられる。

目が覚ましてみたら、世界は安全で、安心できるものでした。


2014年12月8日月曜日

バイロン・ケイティ 

バイロン・ケイティについて知ったのは12年くらい前だったと思います。私はスピリチュアル・ミーハーでしたので、すぐに飛びついて彼女の本やCD(当時はまだカセットだったかな?)を買ったりしました。そしてしばらくするといつものように熱は冷め、別の”すごい人”に走って行きました。

それから6年くらいたって、旦那がイシャヤの教師養成コースに行くことを決め、私はパニックを起こしました。アメリカという異国に住んでいることも手伝って、私の旦那への執着は相当なものだったので、”6ヶ月置いて行く”=”愛情がない、捨てられた”、という思考の図式にどっぷりはまり、自分で作り出した思考と感情の地獄の中で、もがき苦しみました。

自己憐憫にひたり苦しむことが長らく続いた後、ある時、車の中に置きっぱなしになっていたケイティのCDをふと、カー・ステレオに差し込みました。そして彼女のワークを再発見し、まさに命を救われました。

朝から晩までー文字通り目が覚めた瞬間から眠りに落ちるまでー取り憑かれたように、彼女のワークを続けました。最初はCDを聞くばかりで、自分で実際にワークをするようになるまで、しばらくかかったと思います。やがて”自分でやってみなくては”という決意が湧いて、オンラインの自主コースに登録し、実際にワークをするようになりました。やがて仕事場でも、上司や同僚に腹がたったら、すぐにワークをするようになりました。旦那と電話で話していても、古いパターンが湧いて来たらそれを説明して電話を切り、スターバックスに出かけてワークをするようになりました。

旦那に対して自分が抱いていたのは愛情ではなく執着だった、ということ、この二つはまったく異なるものであることを、彼女のワークを通して気づき、目からうろこが落ちました。

”私のことを愛しているなら、あなたが本当にいい旦那なら、自分のしたいことをすべてあきらめて私に尽くすべきよ。”

というような発想を”愛”と呼んでいたのだから、恐ろしいものです(^^)。私の場合は”お前のせいでやりたいことができなかった”、という後悔や恨みを抱かれるのは嫌、という思いから旦那が行くのを認めこそしましたが、内面的にはこの考えを強く信じていました。

この”愛という名の勘違い”は、夫婦や恋愛関係に限りません。そしてケイティのワークでは、それがいかに”笑える間違い”であるかを見ることができるのもいいところです。

ある女性は彼女の年老いたお母さんが、”社交性に欠け、自分の人生と呼べるものを持っていないからいつも不幸せでいる。”ということに苛立ちを覚えていました。そして”もっと出かけたらどうなの?犬でも飼ってみたらどうなの?”などといったアドバイスをしては、耳を貸さない母親に業を煮やしていました。

ワークをする中で、ケイティは、
「つまり、あなたが満足してイライラしないですむために、お母さんは行きたくもない場所に出かけて、好きでもない犬を飼わなくてはならないわけね?」
と指摘し、さらに
「で、私たちはそれを愛と呼ぶわけね。」
と続けて、会場は大爆笑に包まれました。私たちの誰もが、多かれ少なかれ同じことをしていること、そしてそれがいかにバカバカしい漫才であるか、皆よくわかったからです。ワークをしていた女性は大笑いして涙を流していました。

ケイティのワークを”再発見”してから半年後、ケイティと実際にワークをする機会に恵まれました。貴重な機会を無駄にしないように、格好つけないで、我を丸出しにして臨んでみました。彼女とロールプレイをする中で、我を張り続けると、自分の一番愛しているものを遠ざけ、失う、ということを体感しました。

翌朝、二日目のセッションで、ケイティに感想を聞かれました。一夜経ってみて、自分は旦那と戦っているように思っていたけれど、実際には自分の頭の中にある思考やイメージと戦っていたのだ、だからどうやっても勝つ望みなどなかったのだ、ということがはっきり見えた、ということを伝えました。

それからまたしばらくして、自然とワークから離れ、またイシャヤのアセンションに返っていきました。今でも彼女への感謝の想いは深く、フェイスブックで彼女の日々の言葉を楽しんでいます。

ちなみに、これは昨日のものです。
God said, "Katie, you must save the world." So I dropped all my plans to save it. World saved; done. Next?
神様が言いました。「ケイティ、世界を救いなさい。」そこで私は、世界を救うことに関するすべての計画を捨てました。世界は救われました。任務完了。次は?

I love Katie.

2014年12月5日金曜日

ふむむ

ちょっと忙しいのが続いて、身体が疲れるとともに、習慣的な思考が大騒ぎしています。もともとこの季節が苦手なので、マインドの大騒ぎが倍増しているように感じられるのですが、正直なところ、これがこの季節のせいかどうかなんて、よくわかりません。

マインドはいつでも理由を探します。
今日は低気圧だから、体調が悪いから、疲れが募っているから・・・

でもだんだんと、そういった理由づけが信じられなくなっています。いつもより思考が騒いでる、ということすら、本当かどうかわからない。

「いつもよりマインドがうるさい」という思考が湧いただけで、それが事実ということではないのでは?

理論としてはそんなこと、とうの昔に気づいていた、”わかっていた”と思うのですが、頭でわかっているのと、はっきり”見る”のとでは、なんだか本当に違う。

思考がわーっと湧く時、一体本当は、実際には、何が起きているんだろう?

「思考」って呼んでるものは、なんなんだろう。見ることも触ることも味わうこともできないのに、知覚しているのはなぜなんだろう?耳で聞いているような気がすることもあるし、まぶたの裏に浮かぶ文字を見ているような気がするときもある。

ただこれがわーっと湧いて、そうすると身体と呼んでいるものに感覚が走って・・・一体これ全部、何が起きているんだろう?

何なんだろう?


2014年12月1日月曜日

旅路にて

片道7時間のドライブの旅から帰り、一日空けてテキサスに飛んできました。ちょっとした旅続きです。

私はもともと旅行が好きです。トニー(パーソンズ)と雑談しているときに、運転中に起きた経験―運転している人と、運転することと、車がすべて同じものだった1瞬の経験―について話したら、”運転してるときに目覚めたって人、よくいるね。”なんて言っていましたが、飛行機に乗っているときにも似たような経験がよくあります。旅は瞑想に最適です。

身体は車や飛行機からの振動で疲れを覚え、思考がそれにつれて騒がしくなる瞬間も多々あります。ここで思考を信じると、それが個人化されて思考はストレスになります。旅の供と喧嘩になるのはこの瞬間です(笑)。でもその感覚をキャッチすると―身体の反応がそれ自体で勝手に起きていること、思考もそれにつられて勝手に起きていることが見え、”私”という感覚が崩れます。”私”はもとより、”人”という感覚もこぼれ落ちて、自分が何であるのかわからなくなったりします。

私が輪郭を持った個体から、すべてが起きる空間に変わってしまう瞬間です。

今回、旅の供にヒロさんお勧めのJ.C. Ambercheleの本の中から『The light that I am』を持ってきました。ここしばらく、目覚めた人たちの本やビデオへの興味が失せていて・・・これまで読み聞きしたことを一切忘れたら何が残るんだろう、ということに興味があって、買っても読まないんじゃないかなぁ・・・なんて迷いながら買った本なんですけど、これが・・・面白い!

興味が湧くとか知的に面白いとかではなくて、文の後ろから伝わって来るものが、なんとも言えない。書き手があまりに”それ”の中にあって、あまりに深く”それ”から書かれていて、読んでいて美味しいことこの上ない。私はハーディングには、たまたまどうも惹かれるものがなくて、そういう意味でも買うのを躊躇したのですが、今までのところ、とても味わい深い本です。目覚めることじゃなくて、”それをどう生きるのか”に焦点があるのもすごく響くものがあるし、著者の置かれた特殊な状況も手伝って、目覚めを通して何かを得ようとしていないのが、このなんとも言えない深さを生んでいるように感じます。

いつもながら、ヒロさんの貴重な情報に感謝です。