2016年1月26日火曜日

隙間のない生

あるレストランで、黒人の小さな男の子に意識がすいよせられた体験があります。
その子はごく普通の、何ら特別なところもない男の子だったのですが、

3−4歳くらいの感じだったかな?

すべての行動、ただフォークを取る、食べる、何かを見る、

その一つ一つが全身全霊で起きているというか、

”隙間が一つもない”、という感じで、

その隙間のない生には、ビリビリするような強烈な存在感が溢れていました。

なんてことない、食べる、見る、お母さんを引っ張るーそんなことだけなんですが、
その一挙一動が、強烈な生そのもので、目を離すことができませんでした。


まだ小さいから?
なんて思ってみたりもしたんですが、あたりを見渡しても、他の赤ちゃんや小さい子には、同じものが見られませんでした。

彼のお母さんも、まったく普通で、そんな強烈さはありませんでした。




無心に、ただ何かをする

やっていることに埋没している


ただ生が起きている状態というのは、もともと当たり前の生き方だったなぁ、

ということを思い出します。


起きていることへの評論家は、後から訓練して育て上げたもんだったよなぁ、

ということに気づいたりします。




昔は”ただ生きる”、なんて言葉は、聞いただけで退屈さで死んでしまいそう、
なんて気がしてました。

ちょっと前までも、やっぱりそう思っていました。

だからスピリチュアリティでよく語られる、神秘的な体験や、特別さを、とても大切に思っていました。



でも”それ”がしっかり意識にとまった時、その認識はすっかり変わってしまいました。



ただ生がおきること、の中には、余分な苦しみがありません。

それはマインドが思うような無機質で味気ないものではなく、むしろ無駄のない躍動感に溢れた、見事なものです。


ただ在ること、ただ起きている生には自意識がありません。


そこには、誰かが”自然に生きよう”とするような努力が入る隙はありません。

シンプルさには、命がけで取り組むことなどできません。

自然さに返るのに、情熱を持ち込む隙などありません。


ただ、息がおきる

ただ、音がおきる

ただ、歩くことが起きる


できることなどないままに、すべてはすでに起きている。

”もっと’それ’に意識を向ける”

という楽しい夢想の裏側で、魔法はとっくに起きている。


どこかで、私のものでもなんでもない、ただの意識が、その現実に追いつきます。

”それ”、が

”これ”よりもっと近く、

名付ける隙などない近くで

見てみることなどできないくらい、そのものであることに気づきます。

Like now.

2016年1月24日日曜日

思考と、感覚と

トルコ系アメリカ会社が日本のコンサルタント会社を雇い、通訳が必要とのことで、唐突に工場通訳のお仕事が降ってきました。

ああ、そういえばLinkedInの自分の経歴をフリーランスの通訳にしてたんだっけ・・・忘れてた(^^;)

日系の会社に勤めていたことがあるのですが、日系会社では経営の鍵になるポジションには、たいてい日本からの出向・駐在社員がつきます。他の国の会社も同じだということが今回わかりました。国や文化は違っても、人々の力関係にまつわるやり取りはとてもよく似ていて、見ていて大変に面白いです(^^)。

++++++

思考に自分がどれだけ頼っているか、ということに気づいている方は多いのではないかと思います。

私たちの誰もが頭の中にコンサルタント、マネージャー、現場監督、なんと呼んでもいいですが、指示者・指導者を持っていて、私たちは往々にしてその、”頭の中の声”に頼って物事を判断したり、決定したりします。

頭の声は時には自分を慰めてくれたりもします。
”大丈夫だよ”、”仕方ないじゃん”

昔あったことを思いださせてくれたりもします。
”あのときこうだったじゃん?”、”あいつ、前もこんなことしたじゃん”

褒め言葉、けなし言葉、なにかを定義する言葉、なにかに関する、すべてに関する意見ー

私たちはこの声に、とても重い信頼を置いています。


さて、スピリチュアリティに足を踏み入れると、この声、私たちの大切なご意見番は、極めて頻繁に・・・いきなり降格されます(^^)。


”思考はいけない、思考を止めなくてはならない”


ここでー
思考が降格されるとともに、唐突に昇格を受けるのが”感覚”です。

フィーリング、感じ、直感は、突然その価値が倍増され、思考に変わる新しい人生のリーダーとして持ち上げられます。

考えによって決めるのではなく、直感によって決めるべきだ。感覚に相談するべきだ。
感覚に敏感なのが優れていることとされます。


し・か・し、、、、


じっと観察してみると・・・感覚フィーバーから我に返ってみると、感覚も思考と同じくらいあてにならないことに気づきます。

が、この感覚のガイダンスへの依存は、思考への依存よりも深く、精妙なレベルに入り込んでいたりします。私たちは気づいているよりずっと、感覚に頼っています。


”これ、やるべきかな?”、”こっちに進むべきかな?”
という判断をする時に、自分の中の”感じ”を、無意識にチェックしてたりします。


一瞬頭の後ろや背中の後ろから沸き立つような、冷や汗をかくような感覚があれば、その緊急感に即座に反応して行動したりします。


あの状況、この状況、あの人、この人から逃げ出したいのは、彼らが何をするからではなく、何かが起きるのが嫌なのではなく、突き詰めると、”何かが起きたときに自分の体に起きる、特定の感覚を避けたいから”であったりします。


好きなことを、好きな人を追いかけるのは、好きなことをしている時、好きな人といる時に体に起きる、”特定の感覚が欲しいから”であったりします。




でも感覚も思考と同様に、”ただ起きているだけ”、であったりします。

”身体中に落ち着かない感じがする・・・ってことは、何かが起きる予感?”
なんて頭の中で意味合いがつけられても、

実際には何も起きないー起きたってことにしてもいいんだけど。



感覚と、それに伴う解釈を盲信しないで、起きるままにしてあげると、
意外な空間(自由)が生まれたりします。

ちょうど、思考を盲信するのをやめた時みたいに。



思考を”私化”するのをやめたときのように、感覚も自由にしてあげると、

すべては浮かんでは消え、浮かんでは消え・・・


そんな自由さをいつもゆるしている、広々とした輪郭のない私ならぬ私が、不意にあらわになったりします。





2016年1月20日水曜日

あの時にも、”それ”は


私という名の実験場で、さまざまなことを手にとって見る、ということが起きます。

私という名の実験場はありがたいことに、材料(私、私の感情、私の思考、私の経験)込みで常時使用可、しかも無料です(^^)。
好きな時に、好きなものを手にとって、したい放題に実験して見ることができます。使用制限はありません。

プログラムもありません。”自主性”が完全に、徹底的に重んじられています。

もっと言うと、”自然に起きること”、がすべてを支配している場所です。

昨夜の実験場では、”瞑想をしていない時には、”それ”はなくなっているのか?”
という課題が降って湧きました。

瞑想でも、修行でも、ヨガでも、呼吸法でも、マスターと一緒にいるときでも、コースを受けているときでも、”それ”に意識を向けている瞬間でも、スピリチュアリティのカテゴリーに入るもの、なんでも入れて結構です。

スピリチュアルにカテゴリーされてない、”私にとって最高の時間”も混ぜて結構です。

すべてであるもの、は、”私”がそこに意識を向けていない時には、それに触れる努力をしていない時には、なくなっているのか?あの至福感、特定の感覚がない時には、なくなっているのか?

”そんなことあるわけないさ〜、道理的に言って。”
はいはい、道理的に言わないで。

”論理的に考えて、ありえないよ。”
いえいえ、論理は置いておいて。

どうでしょう?私が瞑想するから、修行するから、悟った人と同じ場にいるから、”それ”が出てくるのでしょうか?
瞑想をやめたら、マントラを止めたら、マスターやヒーラーの元を離れたら、”それ”は消えるのでしょうか?

”いや、普通に考えたらー”
いや、普通に考えないで。


”それ”は、あったり、なかったりするのでしょうか?


あ、そこの私、ここは”図書館”じゃないから、そのマスターの本、ちょっと置いといて。実験室だから、ちゃんと自分で手にとってみないとダメよ。


***


さらに、今朝の実験室では、その課題はもっと広がって、かつ具体的・個人的になっていました。
”私の人生でもっとも辛かったあの経験、あの瞬間ー無意識に思い出すのを避けている、あの時にも、”それ”はあったのだろうか?”

瞬く間に起きた、最初の反応は"NO!"です。

いんや!あの時は至福なんてほど遠かった。絶対に”それ”なんてなかった。ありえなかった。

・・・そうだろうか?

いや、絶対になかった。


否定の声を否定しないまま、心の中の過去の映像にズームインする角度が、ヒョイ、と変わりました。

”私”の視点から”考える”と、絶対にありえなかったものが、つい、となにかが”私”の脇をすり抜けた瞬間に、静かな絶対性をもってそこにあったのが、疑いようのない事実として”見え”ます。

まったくなにもしゅちょうしない、
まったくじょうけんをもたない、
まったくなににもえいきょうされない、

限りなく透明なもの、は、なかった試しなどない。



”それ”の確認の手立てが、
”どうやったら手に入るか”ではなく、
”どうやっても無くせないもの、一番努力しないで、手に入っちゃってるものは何か?”

になったりしたのは、別の日の実験場。



答えはいつも新鮮であるのが、この実験場のすごさだったりもして。
わかったと思ってるものを、ことを、何度でも手にとって見ることができるのも、この実験場の味わい深いところ。

みなさんの、今日の実験場はいかが?

2016年1月14日木曜日

生きるということ

一年以上前に書いた記事なんですが、今投稿することにしました。

*****

生きていく中で、私たちは様々な軋轢を体験します。人間関係の中で、自分の汚いところ(と、自分で決めている部分)を見るのが大嫌いだった私は、目を閉じての瞑想でそういう動物的な部分とか、反射的で醜い反応を避けて生きることはまさに最適だったんです。スピリチュアリティにむかった動機や原動力そのものが、人としての醜さ、辛さを避けることだったんだから、ことあればそういう方向に向かいたがるのも当然です。

ある意味、死ぬということは、私にとってあまり怖いことではありませんでした。この苦痛を終わりにできるなら、そのほうがいっそ気持ちが楽だと思っていました。生きることのほうがよほど怖い。自分の醜さと直面するほうがよっぽどしんどい。

これは瞑想の教師養成コースを終えて、家に帰ってからも当然続きました。どうかすると、瞑想を通して”きれい”な自分を保とうとする。恍惚感に惚けて、なにもする気がしないのを、どこかで美化する。

定期的に”私は何をしてるんだ?”という問いが湧いて、針路修正が起きます。あのスピリチュアル教師のようになりたい、と真似をしているだけ、という自分に気づいたり、スピリチュアリティというものを通して何かを避ける、または自分の欲しいものを得る、ということをしているだけ、ということに何度も気づきます。

そしてあたりを見回し、私が尊敬する人たちは、単に、本当に興味があって”それ”を見つめ続けているだけだ、ということに気がつきます。

”私は何が欲しいのだろう?” 何に興味があるのだろうか?

この問いに戻るたび、軌道修正がおきます。そして、”人に聞いて正しい答えを早く得ようとする” 知ったつもりになるより、実際にすべて手に取って、確かめてみることへ、向かうようになっています。

人に聞いたことはさておいて、自分にとっての事実とは何なんだろう?


2016年1月5日火曜日

なによりも欲する、ということ


明けましておめでとうございます。
皆さんは良いお正月を過ごされましたか?
いつものように味気ないアメリカの正月ではありましたが、友人宅でカウントダウンなどして、ちょっとだけお正月っ!って感じで楽しかったです(^^)。

****

マスターと弟子が旅の途中、川辺で休息していました。
どうしたら真理を知ることができるのか、と弟子がマスターに尋ねたところ、
マスターは彼の頭をつかんで川に押し込みました。
息ができず、あわや死に至るかと思った瞬間に、マスターは弟子の頭を水中から引き上げ言いました。
”今(この状況の元で)息をしたい、と思う以上に真理を求めるなら、真理を悟るだろう”

細部の違いはあっても、似た様な話を聞いたことのある方はたくさんおられると思います。

”なによりも欲しいと思う”
”ただこれだけを一心に求める”

といった姿勢が、情熱が、献身が、真理を知るには必要であるー。

これ、私にとって長いこと、周期的に湧いてくる”?”でした。
いい仕事が欲しい、いい収入が欲しい、白馬の王子様に出会いたい、美しくなりたい、いい人になりたい・・・

といったもろもろの、competing interest(あれもこれも欲する気持ち)を持たず、ただなによりも真理だけを純粋に求めることが必要なのだ。。。

「確かに、正しい気はする。でもあれこれ諦めたくないし。」
と、いうようなスタート地点から始まって(笑)

「えー、そんなこと言うけど、有名な誰それさんは(私の師カーリーもそうですが)お金も美貌も知性も名声も、全部持ってるじゃーん・・・」
なんてはしたない恨みがましい思いとともに、半信半疑、いじましい思いに満たされ。

「必ず悟れる保障あるならちょっとの間、他を置いといて試してもいいけど」
と、これまたはしたないネゴネゴ根性。

いい生徒であるために試してみたり、急に”最も本気な人”がなんだか格好いいように感じられて目指してみたり、

なんてウロウロしているうちに、いつか”本気”に、”興味”に乗っ取られていました(^^;)。

それでもそこには、”悟り”という神秘体験やステータスの見返り、
あるいはもっと微妙な無意識レベルでただ気持ちよさ、いい気分という代償を求めていたりしたわけですが、

乗っ取りは私の意志に関係なく進んで、やがて、本当に”ただ、”それだけが真の興味になっていました。

見返りを求めていた間には、迷いがいつもつきまとっていたので、
自分の尊敬する人が異口同音に”なによりも真理を求める気持ち”を提唱する(笑)のに出くわすと、不安が湧きました。

ほら、欲しいものを手に入れるのが真の目的だから、正しくやってないかどうか、十分にやっているかどうか=手に入るかどうか、心配になるわけですね(^^)。

で、そういう時点での私の機能基盤は”思考”および”感情”という動き、エネルギーだったので、なによりも求める=感情を盛り上げて燃料とする、と解釈し、行動していました。

当然、このように機能する場合、盛り上がりはしばし続いては振り子のように反対の極に揺れてクラッシュする、ということになります。そして、どこにも至ることもなく、スタート地点に迷い・惨めさとともに着地することになります。

さて、瞑想の教師養成コースに行って、私の最大の野望、”悟り”に永遠と意欲を燃やしていた時、なんと、そういう発言は絶対にしないように思われていたトニー・パーソンズの著書の中に、彼が同じことを言った(なによりも欲しがること)のを発見してしまったのです。

ええっ?という驚きと、でもトニーが言うんだから・・・うん、そうよね、やっぱりなによりもそれを、それだけを求める気持ちと集中が、最後の壁を突破するのに、究極の真理に至るのに必要なんだわ(はっっはっはっはっは!!!)

次に機会があった時、我が師カーリーにそれをすかさず、ちぼっと小出しにしてみました。確認と、もしこれが正しいのであれば、褒め言葉も受け取れるかもしれない、というチャンスだったわけですね(^^)。

カーリーはすかさず、ほぼ必死な感じで(^^;)、折あらばあさっての方向に走り出す、不出来な弟子の誤りを正してくれようとしました。

”彼が言っているのは、すぐにアセンション・アチチュード(瞑想のテクニック)を思い浮かべる、っていうことよ、欲しい、っていう感情の話ではないのよ。”

またまたまたぁ・・・すぐそうやってなんでもアセンションってことにするんだからぁ・・・

”思い込み”と”実際にただ行うこと”の違いがわからなかった私には、”欲しいという感情の話ではない”などと言われても、さっぱりわかりませんでした。

教師養成コースは、アセンションのコースですから、当然アチチュードを思い浮かべる、という表現になりますが、”真に求める”とは、”欲しい”という妄想を温めることではなく、ただ単純に、実際に、視点を”それ”=真なるものに向ける、ということなんだ、

と彼女は言っていたのだ、と真にわかったのは、それから丸2年経った今です(^^;!)

すべての思考・感情は動いています。
この動きは、不快とされる種類の物も含めて面白く、興味ぶかく、私たちの意識・注意を軽々と虜にします。

次から次へと、動きを追って移ろい続ける注意を、そっと、切り替えるー。

なんの努力もなしに、無理することなく、するっと。

ただ単純に意識を戻すこと、それが人工・人造のものでない純粋さそのものです(ってか、純粋さは起こせるものではないんだけど)。

”それ”について知ることにエネルギーを費やすのではなく、
”それ”について考えることに、思いをはせることにエネルギーを費やすのではなく、

ただ、意識が自由さにかえるのにまかせる。
折あるごとに、ありとあらゆる機会で。