ふと目に入ったものに、はっとなることが増えています。このはっとするのがすごく変な感じで・・・例えばコーヒーを飲もうと手を伸ばしたときに、目に入ったコップ、そこへ伸びて行く手が妙にきれいでびっくりします。お風呂にはいっているときに、ふとお湯の表面が、風呂の蛇口が、浴槽が目に止まり、そのきれいさにはっとします。あまりに奇麗でぎょっとする、というか、照れるというか・・・
きれいな女性がすぐ目の前にきて、そのあまりのきれいさに、見つめるのが気恥ずかしくて目をそらした、なんてことを男性が小説に書いたりしますよね。ほとんどそんな感じです。
”当たり前のもの”として見過ごしてきたものが、突然本当の姿を現す、とでもいうのでしょうか。”浴槽”とか”蛇口”とかいう名前が消えて、ただ見る行為だけが起きている。観察しているのとはまったく違います。あらゆる思考が消えて、ただ見るという行為だけが純粋に起きている時、私には何かを見ているという意識もなければ、目の前にあるものがなんなのか、皆目見当もつかない、といった感じです。ただ言葉にできないきれいさと不思議さがあって、魅入られてしまいます。
そしてその状態にぎょっとして、目をそらします。”私”が大慌てで帰ってきます。
私、という感覚が自分の存在の核であると盲信していたときは、物事はすべて自動操縦状態でした。自分の信念であるとか、思い込みでしか物事を見ていないし、目に入るものすべてを光のようなスピードで名前付け、分類し、自分の思い込みに合わないものは却下していました。
人によっては大病をしたときとか、すべてを失って絶望したときとか、またはなんの前触れもなく同様の経験をすることがあるようですが、あるとき突然、この光速度で起きていた自動操縦が止まったり、停止寸前まで緩まることがあります。私の場合はたまたま、瞑想を通して自動操縦状態だった自分というものの、思考と活動速度が落ちました。一秒が十分くらいまで伸びるというか・・・時間がストレッチすると、一秒が突然永遠になるというか・・・
その瞬間には”私”という感覚はまったく存在していません。
そして次の瞬間、”私”というプログラムが帰ってきて、自分の不在、永遠を大急ぎで却下・除去します。はっとする時間が増えたとき、どれほど素早く私がそれを拒否するかにも気がつきましたが、これはまさに瞬時に起きる反応で、コントロールできるものではありません。
でも一度気がつくと、また気がついて、”美しさへの恐怖”にも気がついて・・・不思議な、不思議な感じです。