2014年11月28日金曜日

知っている、わかっている、私は正しい―”私”の幻想が崩れるとき

私はかつて、自分は色々なことを知っている、と思っていました。知識の収集に力を入れていましたし、自分の知識は”正しい”と思っていました。自分の直感力も、相当なもんだ、と思っていました(笑)。

この”私は知っている”、という思いこみと自信のもとに、見かけた人や出会った人を印象で判断したり、他人の考えているであろうことや、その人のするべきことまで、自分の方が本人よりよく知っていると思っていたんですから、怖いものです。

”あの人はこういう性格に違いない”
”あの人は腹の中でこう思ってるに違いない”
”あの人のやっていることは間違ってる、こうすべきだ” 等々・・・

その結果、たくさんの苦しみを生みました。自分の意見を守るためなら、自分が正しい、ということを押し通すためなら、人との諍いも厭わなかったからです。”愛を取るか、自分が正しくあることを選ぶか”(Do you want to be right or do you want love?)、という言い回しを、私の身の回りの人たちはよく使っていましたが、私は当然、正しくあるためなら、愛などかなぐり捨てる、という方でした。

やがてバイロン・ケイティに出会って、自分の中の思い込みを再検証してみる、ということを学びました。バイロン・ケイティは自分の思い込みに対して、4つの問いを投げかけることを提唱します。

1) それは本当ですか。
2) それが絶対に本当だと、あなたに分かるでしょうか。
3) その思考について考えるとき、あなたはどう反応するでしょう。
4)その思いがなければ、あなたは誰でしょうか。
*参照 http://www.thework.com/downloads/little_book/Japanese_LB.pdf
*英語    http://thework.com/thework-4questions.php

この問いは頭で処理して「本当に決まってるじゃん!」と終わることもできますし、問いと共にどこまでも深く沈んで行くこともできます。また「本当ではない」というのが正しい答え、ということでもありません。

最初は自分が間違っているかも、と考えることすら言語道断、という感じがしましたが、4つの問いと、それに続く”ひっくり返し”をやるうちに、やがて反対側の真実を見る目ができて、はっとしました。一度この、はっとする経験をすると、他の思い込みもばらばらと崩れ始め、再検証は楽になりました。

私にとって私の信じていることが絶対に本当のことと思えるように、他の人にはその人の信じていることが絶対の真実である。だから真実は、人の数だけ存在し得る―そんな単純な事実に心が開かれました。

自分がいかに素早く物事すべてを決めつけるか、ということに気づくとともに、自分が間違っていることに気づくたび、それを嬉しくすら感じるようになりました。

そうするとさらに、自分の思考を疑うのは楽になります。そうやって物事のペースを落としてみて見ると、これまで自動的に白黒判断していたことが、実はグレーであったり、果てはピンクだったりすることに気づいて、本当に驚きました。

スローダウンして見ると、自分が物事をいかにちゃんと見ていないか、聞いていないか、ということにどんどん、どんどん気づきます。やがてその、自分の頭の悪さをシンプルな機能的欠陥として自覚するようになり、何かを見て腹がたったりしたときにも、怒りの思考を信じてより怒りだす代わりに、待てよ、と、すぐに同じ物を見直す癖ができました。

そして自分を盲信すること、物事を誰かのせいと信じるのが難しくなりました。正しくあることも大事ではないというか、今はそれより、この検証の機会を逃すまい、という興味が先にきます。相手に腹が立つとき、”自分の中の何を相手に見ているんだろう?”とすぐに問いがこちらに向きます。相手に関しての批評は、自分の中の自分への批評、思い込みでしかないことが、自分の中で真に事実として自覚されたからです。

ちょっとの間の痛み、プライドの傷やエゴの痛みなんか、物事のありのままを知る自由に比べたら屁でもありません。

自分の信念、思い込みを疑ってみることは、私にとっては本当に価値がありました。そしてもちろん、これは今も続いています。


2014年11月26日水曜日

祈り

私は子供の頃からずっと毎晩、寝る前にお祈りをする習慣がありました。特に何かの宗教に属していたわけではなく、むしろ世の中にあまりたくさんの神様がいて、誰が本物かわからず困惑していたので、誰も怒らせないように知ってるだけの神様全部にお祈りせねばならず、なかなか大変なお仕事でした(笑)。

20代半ばで一度この習慣はやめたのですが、その後10年くらいたって瞑想のコミュニティに参加したときに、自然と祈っている自分に気がつきました。自分の環境、先行き、すべてがあまりにわからない状態で、怖くて不安だったから、というのがあったと思います。

子供の頃のお祈りは、”神様との交渉”でした(笑)。「これこれして下さい、その代わり、一生懸命勉強します。」とかいったものです。確か『後ろの百太郎』かなんかで、守護霊と交信するときに自分の側の約束事を提供して実行するのが有効、と読んだので、それを応用したんだと思います。

コミュニティでの祈りは、最初は「神様助けて下さい」というものでした。深い不安の中で、方向性を与えられることを求めていました。恋愛関係のパートナーについてオーダーしたようにも思います(笑)。

やがて祈りの質がどんどん変わっていきました。

最初は助けを求める切実さから、祈りへ傾ける思いが深まっていったのですが、やがて交渉するのでも、求めるのでもなく、「好きなように使って下さい」という祈りに変わって行きました。「私が求める人生ではなく、あなたが私に求める人生を歩めますように」
神様と呼ばれる、白ヒゲのおじいさんが、どこかの雲の上に座っていると思っていたわけではありませんが、コミュニティで”自分を明け渡す”という概念について学んでいた、その影響も大きかったと思います。

そしてやがて、祈りは沈黙になりました。深く、深く祈り続けるうち、言葉を失ってしまいました。適切な言葉が存在しなかったんです。

それからまた、祈ることが起きない時期が長く続きました。

何年もたったある時、バーナデット・ロバーツの自伝で、『contemplationとは神をみつめることである』とお父さんから教わったいうのを読みました。contemplationというのは黙想、などと訳されますが、カソリックの特定の宗派では、祈りをそのように呼ぶようです。自伝の表紙は彼女が子供の時からお気に入りだった絵画で、カソリックの僧が窓辺にたたずみ、どこかを見ています(ちなみにその絵画は戦時中に失われたもので、彼女の家にあったのは絵画の写真だったそうです。)

ただ、見つめること。

神と呼んでもエネルギーと呼んでもなんでもいいけれど、すべてが存在することを可能にしているものを、ただ見つめること。

本当にそれを見つめる時、それから何かを得ようとすること、それに何かを求めることは不可能な気がします。真の沈黙だけが、それに似合うから―ゆいいつそれと同調できるように思うからです。それにまつわるどんな言葉も努力も、うるさい騒音に感じられます。

そして同時に、その静けさの中では、どんな嵐も可能な気がします。身体に走る痛みも、周囲に起きる出来事と、それに関連してわきあがる思考も、感情も、その根底にある静けさと完全に共にあります。

世の中で一番嫌い、大嫌い、と思っていた出来事も、ただそれ自体の寿命を生きて、消えて行きます。嵐と、とてつもない静けさは、同じ一つのものであるようです。

*バーナデットの自伝は自費出版のみで、彼女のサイトから直接購入となります。リンクはこちら


2014年11月23日日曜日

当たり前な奇跡

私が住んでいるのは、アメリカ南部のあまり大きくない街ですが、それでも人種がものすごく多様です。

ショッピングモールなどで立ち止まっていると、目の前をめちゃくちゃ背の高い人、ものすごく低い人、白人、黒人、ヒスパニック、アジア人、各種様々なミックスと、バラエティに富んだ人々が通過していきます。大人、子供、ティーン、老人、男性、女性、どっちともわからない人・・・膨らし粉を飲んだように太った人もいれば、骨と皮ばかりに痩せている人もいます。ファッションも誰一人として同じではありません。真冬にタンクトップを着ている人もいれば、厚手のコートに身を包んでいる人もいる、というのがアメリカです。

誰一人として同じ人はいません。

昔は目につく人すべてに、”あの人太りすぎ。どうやったらあんなに太れるの?”とか、”わー、肌が奇麗”とか、常に批評・批判が自動的に湧いて頭が忙しかったのが、今は誰一人として同じでないことの神秘と、そのすごさに静かに圧倒されながら立っていたりします。

昔はこういう美に気づくと、恍惚感に襲われ、他の何もが手につかないような気がすることがよくあって、それが起きたり消えたりした後の、日常の感覚との落差に戸惑ったりしたのですが、次第にそういう経験に慣れ、特別感も、落差もあまり感じません。ただ当たり前の奇跡に、静かに打たれながら立っています。

女性、男性、といった分類も頭から剥がれ落ち、自分が何を見ているのかすら、わからないような気がします。たくさんの、不思議なものが目の前をめまぐるしく通過していきます。

当たり前の奇跡が、目の前にあふれています。


2014年11月21日金曜日

私の輪郭

前回、私が悟りに関して持っていた、”外にある場所”としてのイメージについてお話ししました。今日は”内側”に抱いていたイメージについてです。

ある時、私の中には、”私”の心理的なイメージ(優しい、意地悪、頭がいい、頭が悪い等々)とともに、身体の輪郭のイメージがあるのに気づきました。例えば足を伸ばした状態で座っていて目を閉じたときには、目の前に自分の足が伸びているイメージが心象風景としてありましたし、いつ目を閉じても、鏡で見た自分の姿のイメージがそこには保たれ、自分の外形、殻とでも呼ぶべきものの感覚が、常にはっきりと感じられるものとしてありました。

この”私”の輪郭のイメージは、自分とそうでないものの境界を作り、個人としての基本的な存在感を支えていました。これはスピリチュアリティとは関係なく持っていたものです。

これに加え、私はオカルト漫画の影響で、”オーラ”という概念を早くに学びました。(多分大抵の方は聞いたことがあると思いますが、オーラとは一般に、人体の周囲に発散されているエネルギー、気の場、電磁場、波動体などなどと説明されています。)そのイメージはこんなものです。

その人の健康状態や心理状態によって色や幅が違う、などといわれます。そしてスピリチュアルな世界では、神、聖人、目覚めた人、マスター達は皆、金色の後光を放っているものとして描かれています。こういう話をたくさん聞いたり、そのバックアップとなるイラストをたくさん見たりすると、マインドにどんなイメージが作られるか・・・簡単に想像つきますよね?


これが私版の、悟りを自分の内に手に入れ、それが外側に溢れ出ている、というイメージですが、見てのとおり、目新しいものではありません。あちこちで見た受け売りのイメージが、自分の中にしっかりと抱え込まれていただけです。そしてこのイメージこそ、”私がなるべき姿”だと信じていました。

私は芸能関係の仕事に縁があり、そこでも存在感=オーラ、というものがとても大切なこととして当たり前に、まことしやかに語られていましたから、ますます”存在感”の拡大を大切なことと信じ込んでいきました。そして自分のオーラの色や幅、存在感の大きさなどといった愚かなことを気にして、自意識を強めていきました。

”私は深い気づきを得たけど、それは外に現れているかしら?人は気づいているかしら?” 私は自分のオーラを雰囲気的に知覚し、それを強めたり、広げたりできているようにすら感じていました。
  ―(_ _;)やれやれやれやれ。

オーラが実際のものかどうか、というのとは関係ありません。ただ、自分の中に深く根付いていた無用なイメージに、また一つ気づいた、というだけです。悟りに関して抱いていた幻想と、”私”の存在について、確かめてみる機会でした。

リラックスした状態で目を閉じると、周囲や身体に起きている、様々なことに気づきます。音、匂い、身体に起きる感覚―そしてこの気づきは、次から次へと自由に飛び回って、一カ所にあまり長くじっとしていることがありません。

そんな中でやんわりと身体に注意を払って見ると、様々な感覚が湧くのに気づきます。それは胃の中のチリチリするような感覚だったり、肩の痛みだったり、顎の緊張だったり、頭の右側の圧迫感だったり、手足のしびれだったりします。

その一つにさらに優しく注意を向けると、大抵の場合、その感覚は素早く消えてしまいます。とどまっていても、どこからその感覚が始まって、どこで終わっているのか、その輪郭を特定することができないことがわかります。さらに、”肩”に痛みがあると思っていたのに、その”肩”すらも特定できないことに気がつきます。

私が持っていたイメージは”イメージ”であり、身体の外形、枠、殻を確認できないことに気づきます。そこにあるのは移ろいゆく感覚だけです。

実験の結果は、輪郭というイメージの自然な消滅でしたが、それによって、自分が常に周囲と一体であると感じているわけではなく、ただ、無用な架空の枠が一つ消えただけ、という感じです。ものすごい拡大を感じる、というよりは、無用な荷物を下ろした楽さ、という感じです。


2014年11月18日火曜日

真理の場所

マインドは見聞きしたものを、時間と空間の中で特定しようとします。私は自分の中で、真理というのをどこかにある、特定のスポットのようにイメージしていたのに気がつきました。


これは無意識に持っていたイメージです。”真理に目覚め、そこに定着する”なんていう言葉を聞くことによって、ある特定のスポットが空間にあり、それを見つけ、そこへたどり着き、その上に定着する、というような、こんなイメージ(↓)がマインドに形成されていたわけです。

実際にその上に座っているのかどうかというのは別にして(笑)、定着する、という概念からは、定着してない時という幻想が生まれます。このイメージとともに、スポットからこぼれ落ちた(=目覚めたと思たのに、あの感覚がなくなっちゃったわ)、片足だけ引っかかってる(=かすかにわかるような気がするけど・・・)、指先でかすかに触っているような(=そこにあるのはわかってるけど)、といったような、諸々の目覚めに関する架空の体験が生み出されました。

言うまでもなく最初の誤りは、真理を”どこかにあるもの”と捉え、果てはその場所にたどり着いた(=真理を見つけた)、と思うことなんですが・・・

マインドは自分の立ち位置をはっきりさせるのを好みます。時間と空間の中での位置づけを行うと同時に、意味合いも定義しようとします。
「自分なんて存在しない」
「すべては一つだ」
あるいは「マインドなんて存在しない」などといったような洞察、気づきが起きると、それを”真理の定義”として握っておこうとします。この二つが合わさると、真理に辿りついて定着するというのは、こんなイメージですか(↓)

私はこれを、何度も何度も繰り返しました。そのたび運良く、誰かに、あるいは何かの出来事にうまいこと頭を叩かれぺしゃんこになって、握っていたものを手放す結果になりました。本当にありがたいことです。そしてこの作業は今も続いています。

どこか架空の場所、あるいは状態にとどまろうとすること、一つの気づきを普遍のものとして持ち歩くこと、どちらも不可能なことなので、無意味なもがきを生みます。限定され、箱に入れられた真実は、すぐに湿気を帯びて古くカビ臭くなります。でも握れるものがあるほうが、嘘くさくても、つかの間は安心な気がしました。

すべてはわかりたい、という”私”の中に深く根付いた、どうしようもない衝動からきています。わかれば、それを管理、コントロールできると思うからです。そしてコントロールできれば・・・結局、”安心したい”という願望に返って行きます。

あきらめて手放すと、すべてがただ流れて行きます。なにも捕まえることができないのは不安ですが、不安感もふと目を向ける間に流れていきます。何もかもがどうしようもなく変化し続けています。



2014年11月12日水曜日

あたりまえへの帰還

見つめれば見つめるほど、私に見えて来るのは超常現象も神秘的な何かでもなく、ものすごく自然で、あたりまえな物事のあり方です。

”すべてのことが、それ自体の完璧なタイミングで起きている”

例えば、私たちの身体は、赤児の身体から幼児の体、大人の体へと、自体のペースで育っていきます。そこに私たちの意志などまったく関係ありません。常に、それ自体に備わっている知性に基づいて機能しています。

呼吸、心臓の脈拍、消化、爪や髪の毛の成長、細胞の生まれ変わり、ゲップからお腹がきゅーっと鳴ることまで。

行動も思考も同じです。すべてを自分の意志で決め、行っていると教わり、そう信じてきましたが、行動や思考は”起きて”、自分はそれにその後気づいているに過ぎません。

すべてが、一秒たりとも早めに起きることはありません。一秒たりとも遅すぎることもありません。

この当たり前のことに気づいて、言葉にできない感慨に打たれてはまた忘れ、同じことを再発見します。その事実をさらに深く体感します。

理解も、気づきも、それ自体のタイミングで起こります。例外はありません。私の努力や希望とは、一切関係ありません。努力も希望も、それ自体のタイミングで起きています。努力しないようにしようとしても、希望を持たないようにしようとしても、するときはする、持つ時はもう持っています。

運命論や、思考のレベルで物事は起こるべくして起こる、と定義するのとは違い、投げやりな気持ちは一切起きません。大いなる自然の動きに対する畏敬の念に包まれ、力がすべて抜けるような気がします。起きることに対する抵抗感が薄れ、静かな信頼とともに、次の行動に流れて行きます。

そして”私”が、”これを絶対忘れないようにしよう!”、と言います。それを新しい信念体系にしようとします。その時には、すでに気づきは役目を終え、死んだものとなっている。どんなに素晴らしくても、体験にしがみつき、それを絶対化して生きることはできません。



2014年11月9日日曜日

正しい問い

『正しい問いを持たなくてはならない』と、アジャシャンティ、U.G.クリシュナムルティはじめ、多くの人が言うのを聞きました。

ある人は、それはbig questionでなくてはならない、と言いました。例えば、
”神とは何か”
”生きるとはどういうことか”
といったような問いです。当然試してみました。最初こそ、この”大きな問い”に対する盛り上がりを感じたものの、注意はすぐにそれていってしまいました。

また別のところで、
”私は誰か”
という問いこそ、究極の問いなのだ、というのを聞きました。さっそくこれも試しましたが、問いは次から次へと思考を生むだけで、やはりなんの役にも立ちませんでした。

”考えること”が意識の焦点のほとんどを占めていた間は、正直、どんな質問もマインドの表面にとどまるだけで、なんの意味もなかったように思います。

初めて自分の中で、本当の”問いかけ”というものが起きたのは、アジャシャンティの『あなたの世界の終わり』を読んだ時だったと思います。
瞑想だなんだ、あれこれやってきたけれど、一体なんのためにやってきたんだろう?今、なんのためにやっているんだろう?

本当に自分の深いところから沸き上がるものがあるからやっているんだろうか?それとも、そうしたら何かいいことがあるらしいから、何かいい思いができるかも知れないから、人にそう聞いたからやっているんだろうか。

この問いは人からの”借り物”ではなく、自分にとって本物だったので、最初は少々努力を要しましたが、その問いとともにじっと座ること、深く沈んで行くことができました。初めて黙想することを学びました。

その後、
”私、私、って思ってるけど、一体私ってなんなんだろう?”(誰、ではなくて”何か?”です。)
”私が本当に欲しいのは何だろう?”

というような問いをはじめ、”あの人はこうするべきじゃない、と私は思ってるけど、本当だろうか?”といった具合に、一つ一つの思い込みや、自分がこれまで現実と思って来たこと、ただ自動的に信じてきたことを問い直す、ということがより頻繁に起きるようになりました。

こういった問い、黙想は、よく”思考を超えた経験”を起こしました。頭の中で答えを得るのではなく、むしろ問いとともに、問いを含めた思考が消えて行き、ただ在る状態を体感することで、思考がただのエネルギーであること、それまで信じてきた事柄が、実体のないものだったことが自ずとわかる、という感じでした。

そして今、繰り返し検証している、というか、眺めてみているのは、
”私は何を変えようとしているのだろう?”ということです。

あれやこれやを探し、試すその根底には、”今あることの何かがおかしい”とか、”何かが欠けている”、”これはこうあるべきじゃない”、という感覚があるのが見えます。世の中の、私の、何かが違う、間違っている、という思いが根底にあります。

本当に?これはこれではいけないの?今起きていることは、起きているままではいけないの?

子供の頃から、”現状に満足したら人間は終わりなのよ。それ以上の成長がなくなるの。”などと言われて育ちました。何か足りないものを見つけ、どうやったら目の前のものをよくできるか、ということを常に考えることが、人間の向上の道なのだ、と教わりました(当然これは、人間は向上しなくてはいけない、という考えを前提にしています)。

人間は破壊に向かう道を進んでいるから、精神を高めないといけない、とも教わりました。世の中には、目に見えないもっと大きなものがある、とも聞きました。

本当にそうだろうか?

そこには成長すべき誰もいない、向上というのは概念だ、等々というのは置いといて、ただまっすぐ、本当なのか、眺めています。

じっと見つめると、問いが沈黙の中に消えて行きます。身体がゆるむのに気がつきます。深呼吸が自然に起きるのに気づきます。
そしてまた思考がわき、思考がわくのはいけないことだ、という思考がわき、本当にそうかな?という問いがわきます。

答えがないままに、心身がゆるみ続け、私のものではない、深い沈黙だけがそこに在るすべてになります。

2014年11月7日金曜日

悟り製造ライン

U.G.クリシュナムルティがビデオの中で、

「目覚め方なんて千差万別なんだ。だから誰かがどうやって目覚めたか必死に聞いて、その人の真似をしようったってそうはいかない。組み立てラインで悟りを製造する、なんてわけにはいかないんだ。」

というのを聞いて、ああ、本当にそうだなぁ、と思いました。

子供の頃から偉人の伝記が大好きで、たくさん読んでいましたし、大人になってからも事業に成功した人の自伝や伝記をよく読みました。伝記という”実際に起きた(とされる)物語”を純粋に楽しんでいた部分もありますし、有名な人の素顔を知る、というゴシップ的な楽しみもありましたが、”成功の秘訣を学んで、それを真似して生かそう”、というのが一番の動機だったと思います。

その発想自体も自分のものなどではなく、子供の頃に周囲の大人から、「偉い人から学んで、偉い人のようにならないとダメだよ」などと言われた、その刷り込みの結果だったりするわけですが、私の場合、”どうすればいいかわからないから、人に答えを探す”、というのが大きかったと思います。

自分のやっていることがまったくわかってないから、とことん深い迷宮の中にいるから、誰かに簡単に答えを教えて欲しい。

探していたのはこんなもの。


2014年11月5日水曜日

心象風景が消えるとき

バーナデット・ロバーツの『無我の体験』を日本語訳で楽しいんでいるところです。

心象風景―心に浮かぶイメージ、音、物語―といったものが消えるとき、そこに残るのは何か。バーナデットの旅の過程を読む中で、今私が一番内観を誘われている問いです。

”心象風景を一切合財失ったとき、そこからくるエネルギーに自分がどれだけ頼っていたかに気がついた”、と彼女は言います。

私は自分の頭の中で、終止独り言が続いているのに気がつきます。それは時には記憶の画像であったり、想像の物語だったり、自分や人の行動、発言に関する意見、憶測、批判、叱咤激励だったりします。

そして私は日常的に、この頭の中の声を使って、自分で自分を駆り立てているのに気がつきます。それが自分の行動の原動力、創造力の源だとすら思っているのに気がつきます。頭の声を信じることで自家発電される、ある種の”盛り上がり”とか”焦燥感”をなくしては、何もできなくなってしまうのではないか、とまで思ったりします。

一方で、頭の中のどんな声や意見を信じることなく、物語に巻き込まれることなく眺めていると、面白いことがおきます。

まず、ふと、考えていることに気がついて、頭の声と”それを聞いているもの”の間に亀裂が起き、ピタッと物語がやみます(大抵の場合、物語は消えます)。

『だるまさんが転んだ』現象、とでもいいましょうか。後ろから聞こえる「だ〜る〜ま〜さんが〜こ〜ろ〜んだ〜」という声を聞きながら前に進んでいて、あるとき急にピタっと止まり、振り返る。すると後ろの声もやみ、ついてきていた人たちは静止する。

そこでまた前に向き直り歩き始めれば、新たな物語が続行しますが、振り返ったままさらに”眺め続ける”と、頭の中にちょっとした騒ぎがおきます。頭の声が次から次へと別のトピックを投げてくるんです。もしこの話題に食らいついてこないなら、このゴシップはどうだ、あの映画の思い出はどうだ、という感じで、どれにも乗らないと、果てはまったく関係ない歌まで頭に流れてきます(笑)。

どれにも参加せず、さらに静観していると、”何も起きてない状態”になります。今の私の限られた経験と能力で描写すると・・・目が開いているにも関わらず、何かを見ている感覚もなく、なんとも変な感じです。麻痺しているのと違うように思いますが、何もはっきりしたことは言えません。

そして”それに耐えられない”、とでも言わんばかりに、わさわさした感覚が身体の中に湧きます。なんでもいいからこの静寂を破ろうとするエネルギー、といった感じです。

心象風景こそ、”私”そのもので、”私”が継続するには、常にエネルギーが注がれていなくてはならないこと、また”私”は自分が消滅することに、徹底的にあらがうのだ、ということが見えます。その抵抗ぶりとバラエティに富んだ技は結構笑えます。

2014年11月3日月曜日

瞑想という快適な時間

昨年、瞑想の教師養成コースで集中的な瞑想を行った、ということについては何度か書きましたが、そのとき私が経験した最大のチャレンジの一つは、”瞑想から起きること”でした。

私が行っている瞑想は目を閉じていても、目を開けていても行うことができます。両方が大切であることは、常に言われることですが、通常の生活を離れての集中瞑想、という稀な機会では、目を閉じての瞑想の重要性がはじめは強調されます。

やがてある地点から、目を開けて食事をしている、散歩をしている、人と話している、掃除しているときに瞑想することの重要性がもっと強調されるようになり、それはそのまま瞑想の指導をすることへ延長されます。

6ヶ月というのは長いようで短い期間です。この期間に学ぶのは、一なるものについて少なくともはっきりとした感覚を得ること、習慣的な、反応的な生き方と、自然な状態に沿った生き方の違いをはっきり味わうこと。さらに、トレーニング後の通常の生活で、自然な状態への認識が広がって行くよう、瞑想の習慣を確立すること、です。瞑想の指導の仕方、というのは、ある意味二の次です。

多くの人は、目を閉じて日に10時間以上も瞑想し続ける、ということに難しさを感じます。それまでの、常に何かをして気を紛らわす習慣を止めるのは、大変なチャレンジなのです。人と話したい、電話したい、パソコンに向かいたい、本を読みたい、美味しいお茶を入れたい・・・内観が起こす嵐、静寂、または退屈を避けるためならなんでもします。

私にとっては、目を閉じて外界を遮断し、次第に精妙になっていく様々な意識のレベルを模索するのは、これ以上ない喜びでした。ですから退屈や苦痛を感じるどころか、ある時点を過ぎたときには、このまま永遠に横になって瞑想を続けていたい、と願うくらいでした。自分は僧院にいて、一生祈って暮らしていく、というような錯覚にどこかで陥ってしまったほどです。

過去のマスター達が語ったように、存在への深い理解が確立され、自然と瞑想が止むまで突き詰めたい、というスピリチュアル・ロマンスへの執着もありました。

私の師カーリー、そしてバガヴァティは当然、それを見逃しませんでした。そして私を含む数名が、目を閉じての瞑想で学ぶべきことは終了したとして、目を開けての瞑想に重きを置くべく、次のプログラムに移されました。

瞑想という快適な寝床に安住していた私にとって、これは非常な苦痛でした。

私の実践している瞑想法は、条件づけられた思考をゆるめるのにとても効果的だと思いますが、どんなものであれ、それが逃げの場所になってしまえば意味ありません。瞑想の時間が日常より優れた特別な時間、とかになってしまえば、生活や思考を分断するだけで、存在の一なる本質を知ることとは真逆に走ることになります。


2014年11月2日日曜日

”私”の本音、と感謝

この週末、バーナデット・ロバーツが最近書いた研究論文を読んで、”自己とは何か”という課題に関する彼女の表現の明晰さ、言葉の向こうから伝わってくる、真実への情熱に、深い感謝を覚えていました。

私たちの中に備わっている、自分が存在している、という感覚。
それがなくなったとき、その後に残るものは何か。

彼女の明晰な描写とともに、その問いかけに深く沈んだ瞬間、
そんなことしたら私がいなくなっちゃうじゃんか!
という切迫感を伴った声が私の中に湧いて、大笑いしてしまいました。

ほらほら、それが本音よね。自己がなくなることなんて、自己が欲しがるわけないんだから(笑)。

”私”が欲しいのは、”私を持っていない私”というアイデンティティであって、本当に自分がいなくなるなんてとんでもない、というわけです。

さらに今日、中野真作さんのブログを読んで、とても感銘を受けました。
リンクはこちらです。

この記事に関する情報に限らず、常に貴重な情報を発信し続けて下さるヒロさんに、感謝の念がつきません。

またヒロさん始め、空愛ジョイさん、他トラックバックできなかったのですが、このつたないブログを紹介下さった皆様に、この場を借りて心から感謝申し上げます。

バーナデットの記事はこちら