2015年3月28日土曜日

ミューーージック!!

荷物を倉庫に預けて、アパートでの生活が続いているのですが、すべての状況が1転2転3転・・・と、延々に転び続けていて、一体いつ、どこに収まるのか、収まるなんてことがあるのか、まったくわからない状態です。

倉庫にかかる費用やら、色々な情報は人によって言うことが違ってどれが本当かわからないので、計画は立てる先からやり直しになります(笑)。

かつての自分だったら、心配と不安とイライラで神経が焼き切れていただろうに、この混沌が”ただそのまんま”、ある種面白くすら映るのは、ある意味奇跡としか言いようがありません。

かつての私は、どうしようもなく安定を求めていました。
”私”がいると思ってたから、必死で”私”を守ろうとしていました。
そして動き続ける、言うことを聞いてくれたり、くれなかったりの気まぐれな現実に振り回され、現実を思い通りにしようとする戦いに疲れ果てていました。

今はすべてが、即興演奏のように見えます。色んな音があちこちで起きて、不協和音を含めた調和の音が奏でられている・・・。そのかけらとしての”自分”がある。そしてもちろん、すべての音の根源としての自分がある・・・。

ちなみに・・・

素敵な音楽を聞くと、伊坂幸太郎の『死神の精度』という本を思い出したりします。言葉のセンスがよくて、たまにちょっとおじさんなギャグもよくて、大好きな本なんですが、つい最近古本屋で見つけて、立ち読みを始めたら止まらなくなり、また買って読み直してしまいました。数年前に売った気がするから、自分の売った本をまた買い直したのかも・・・なんせアメリカの田舎町にたった一件の古本屋ですし(笑)。

ともあれ、本に出て来る死神達は、みな音楽をこよなく愛しています。音楽は、人間が作り出した最上のもの、と死神は言います。そしてどんな音楽でも、聞き始めるとすっかり虜になってしまうんです。

お店の視聴機で音楽の虜になっている死神の姿を想像すると、City of Angelsという映画の中の、浜辺にまばらに佇んでいた、コート姿の天使達のシーンが思い出されたりします。

思いもよらないところで音楽を耳にし、思わず「ミューーージック!!」と叫んでしまった死神に、なんともいえず・・・ほんわかした気持ちになり、顔も全身もほころんだりして。

死神に理解できない、人間の性質に関する洞察も面白いです。

人間以外から見た人間の洞察、という点では、コミュニティ時代の友人達の間で、『異星の客(Stranger in Strange Land)』という本が、スピリチュアル・ファンタジーの傑作とされてそれはそれは人気でした。翻訳を読んだのですが、今ではあまり細かいことは覚えていません。人間の行動を見ていた結果、火星人の彼は黄信号=スピート加速、と覚えた、とかいう話とか、女性達の身体は若返らせても顔は変えなかった、とかいう話以外は(笑)。

そうだ!今なら英語で読めるはず!―と勇んでkindleでサンプルを取り寄せてみましたが・・・私の英語力では太刀打ちできませんでした(涙)。読めるけど、細かいニュアンスを楽しむことができないし(涙)。

と、今日は音楽、読書、映画の話となりました(^^)。


2015年3月26日木曜日

強いエゴ、弱いエゴ

6年前にバーナデット・ロバーツのリトリートに参加した当時、私の中では悪者攻撃ブーム・エゴ編が真っ盛りでした。

当時の私は、エゴがなんであるのか、よくわかっているつもりでいました。でもエゴがなんなのかすっかりわからなくなった今、当時のことを振り返ってみると、エゴが何かわかっていたというより、エゴ=悪い、ということを信じて疑うことがなかった、というだけのような気がします。

・・・というのはさておいて。

とにかく、当時の私は自分がエゴの強い性格だ、ということ、エゴをどけようとしてもなかなかどけることができない、ということに苦しんでいました。

それをバーナデットに話したところ、
「エゴが強いのは何一つ悪いことじゃないのよ!しっかりした強いエゴがあってこそ、神を知る探求に向かうことができるのよ。真理を知るということは、やわな人間にできる仕事じゃないのよ!」

という、なんとも温かい、励まされる返事がありました。

彼女の表現の独特さ、語彙に関しては、色々意見が分かれるところかもしれませんが(^^)、当時の私にとっては非常な救いになりました。彼女自身が「私はエゴが強い(かった?)」と言ってはばからなかったこともありますし、何より言葉の根底にあった理解と優しさが、私を呪縛から解放してくれました。

バーナデットのエゴの定義で印象に残っているのは、What is Self?という著作の中の、”エゴとは、自分の思い通りに物事が進まない時におきる癇癪のエネルギー”だというものです。他にも様々な表現や説明をしていますが、(個人的に)これはわかりやすくて面白いと思いました。

A Passage Through Selfというビデオの中では、エゴの性質を以下のように説明しています。
”エゴは自分にとって最善のものを得るべく、全力で働く。だからこそ、神(真理)の探求に全力で向かう、ということが起こりえる。でも反対に、欲望を満たすことが自分にとって最善と思って、そのために下の下とも呼ぶべき行為に走ることもある。エゴには悪いことは何一つないが、その不安定さだけがやっかいである。”

ふむふむ。

エゴ、というのは他のすべてと同じく、実体のない概念です。良いもんでも悪もんでもありえません。また怠け者の私には、エゴという概念の定義を突き詰める根性もなければ、興味もありませんが、彼女のエゴを一切悪者にしないところは、聞いてて気持ちよく、とても好きです。

2015年3月20日金曜日

”私”に、ワクワク、ドキドキ

スピリチュアリティとか、非二元というアイデアにのめりこんでいたときには、色々なマイブームがありました。ヒーリンググッズとか、新しいメソッド・教師関連のマイブームもたくさんあったのですが、それ以上にヒットしたのは、悪者攻撃ブームでした(^^)。

エゴはいけないから、エゴをどけるべきだ。
執着はいけないから、執着をやめるべきだ。
欲しがるのはいけないから、欲しがるのをやめるべきだ。
嫉妬はいけないから・・・・

リストは延々に続きます。
今こうやって書いてみると、それらの一つ一つをどれだけ真剣に信じてもがいたかが思い出され、くすぐったくてたまりません(^^)。

「わぁ!これすべて、本気だったんだよな」って大きなスマイルマークを載せたくなります。

誰かが本にそう書いていたから、誰かが言ったから、「そうだ!そうしなくちゃいけないんだ!」ってすぐに信じていました。

頭が悪い、とか、洗脳されやすい性格だ、とか色々な考察はありますが、問題の原因は何かというと・・・”無邪気さ”です!(^^)!

マインドの無垢さがいけないんです!(笑)

「私ったら無邪気な性格だから〜」とか言うのとは違います。
性格ではなく、性格という表現をその背景でそっと支えているもの、可能にしているものが、本質的にどこまでも、どうしようもなく純粋だ、ということです。
そしてマインドは本来、”それ”と違うものではないからです。

マインドは無垢だからこそ、”空は青いんだよ”と言われればそれが空で、青だと覚え、”私があなたのお母さんよ”と言われたら、その”人”が、”お母さん”というものだと覚え・・・そうやって無邪気に、ゼロから、”社会”で機能することを習い覚えたわけです。そして良いとされることを覚え、悪いとされることを覚え、どうするべきかという人の言葉を信じ・・・

そこには意図は存在しません。純粋な機能があるだけです。



ちなみに、私の最後の悪者ブームは”私”でした。

トニー・パーソンズに会ってから、そしてその影響を受けた人たちの本を読んだり話を聞いたりしてから、”私”というものが最大の問題だったんだ、これさえなくなれば真の目覚めとか、究極の悟りに達することができるんだ、と本気で信じて長いこと”私”駆除を目指しました。

トニーは『”私”をどけたい、と思うのは”私”だけで、幻想の”私”に”私”がどけられるわけないんだよ。』と何度も言いましたが、それは聞いた先から頭の中をすり抜けて行きました。

「トリックに決まってる。きっとなんとかやり方があるはず。だから彼は今の状態に至ったに違いない。」

でもその傍らで、別の体験が起きていました。

前に何度か(も?)書きましたが、私は瞑想の教師になるためのコースに参加して、4−5ヶ月の間集中瞑想を行ったんですが、毎日昼も夜もなく、永遠に瞑想し続ける中で、だんだんと脳みそが溶けていき、それと一緒に、それまで頑なに守ってきた色々な”自分ルール”が、どんどん溶けていってしまってました(いくつかはコースの後ちゃんと帰ってきましたが ^^)。

曜日感覚も消え失せ、時間感覚もおぼろげな中、色々な思考や記憶がランダムに浮かんでは消えていきました。

そんな中で、”私”にワクワクしたり、ドキドキしたりした瞬間の記憶がいくつも意識に昇ってきました。

後年、すっかり悪者に仕立て上げられてしまった”私”ですが、子供の頃は、思考に集中することで自分の中にエネルギーが湧き、身体に反応がおきるのが、なんとも不思議で面白くてたまらなかったんですね。それでもっともっと、とやってみたり・・・

”私”のイメージを真剣に検証してみたり。
どんなイメージを作り上げるか真剣に書いて考えたり、練習したりして。

そんな瞬間の記憶の数々が、脈絡もなく意識に浮かび上がってきました。
”私”というのは、面白くて仕方ない遊び道具だったようです。

そんな記憶を眺める中で、事の発端はやはり”無邪気さ”だったんだ、というのが淡々とした事実として見えました。そうして私の中の悪者攻撃ブームはほぼ終わりを告げました(次に返ってこないとは限らないけど ― 今のところ、悪者攻撃は体力がいるので、すっかりぐうたらが身に付いた私には、かったるくてできないのです^^;)。

”私”は本当に便利で、愉快なものです。

2015年3月16日月曜日

動くもの、動かないもの


こんな感じがきれいだった所から、


こんな感じがきれいなところにやってきました。山に囲まれ、空が大きく感じます。


仮住まいのアパートに入り、ノックスにはもう帰る家がなくなって、数日は宙に浮いてるような感じがしました。

マインドは変化が苦手です。
慣れた状態から切り離されると、足下をすくわれた感じになって、なんとか自分の居場所を確かめようとあたふたします。

このマインドの習性、かなり面白いです。

なんとか着地しようとして、記憶から照合できそうなものを探しまくります。”あの時に似てる”、”これと同じかも”・・・あるいは状況を定義付けようとしたり・・・”今は仮住まいなのよね!”、等々・・・。

いや、落ち着こうとしなくていいんだってば(^^;)。今、落ち着かない状況なんだから。

そうしてマインドが宙に浮けば浮くほど、すべての底辺にある(っていうと場所があるみたいだけど)あの特定できない不動の静けさが鮮明になり、意識が避けようもなくそこへ向かいます。

住み慣れた家がなくなって、新しい土地に移って、家探しにあちこち出かけて・・・体が移動しているようでも、”自分”はまったく動いていない。

2015年3月11日水曜日

起きてみるまでわからない

家は一瞬で売れてしまったのですが、その後必要な検査や取引が短期間に圧縮される結果となり、売買の確定を前提に引っ越しの予定は入れざるを得なかったものの、本当に引っ越せるのかどうかわからない、という状態がしばし続きました。おとといの夜、ようやく売買契約が最終的に確定し、今日は引っ越し屋さんが梱包をしてくれて、明日は引っ越しです。段ボールの山に囲まれて、住み慣れた家最後の夜を過ごしています。

家は、おとといまではショールームちっくに奇麗に保たれていました。

昨日ちろちろと荷物が引き出され、ちょっと”引っ越しするぞ”という感じが出はじめ・・・

今日あっという間に荷物が梱包されてしまいました。

魔法のようです!

明日までインターネット契約を残しておいたのに、モデムが外されてしまったので、予定外にインターネットに継続できなくなってしまった・・・と思ったら、携帯でホットスポットというものができるし。

魔法のようです!

すごいなぁ、すごいなぁ、と、驚きやら感謝の念やらが浮かびます。

”どう?大丈夫?引っ越しのストレス感じてる?”
引っ越しが決まって以来、友達や知り合いが色々心配してくれたりしたのですが、自分の中を探ってみても、快適なリビングに座ってくつろいでいる、というのがその時その時点での現実で、まだ起きていないこと(引っ越し)に何かを感じる、というのはどうにも不可能な気がしました。

”どう?チャタヌガに行くの(来るの)楽しみ?”
この質問に関しても同様で、返事に困りました。”楽しみ・・・楽しみ?”まだノックスに住んでいるのが現状で、チャタヌガに住んだことないし・・・

バイロン・ケイティのインタビューが思い出されます。

”『〜することを楽しみますか?』なんで聞かれることがあるんだけど、私としては、どうやったら私にそんなことがわかるの?って。だって今やっていないんだから!実際にしてみるまで、楽しむか楽しまないかなんてわかりようがないわ。”


人が来て荷物を梱包してくれるというのも初めてだし、本来自分のものは自分で片付けたいほうなので、明日あたりはストレスフルな日になるのかなぁ、なんて昨夜お風呂に浸かりながら思ってたら、突然恍惚感がやってくるし。

ええっ こんな時にですかぁ・・・

なんだか妙に場違いな気がしたんですが、同時におなじみの”これは何かが起きるかも!”とか、”これはなんの意味があるんだろう?”といった宝探し思考が湧いて、ちょっとの間それにくっついて奔走し、はたとそれに気づいて笑ってしまいました。

経験はいつでも、人と場所を選ばすやってきます。

そしてそれは、起きてみるまで決してわかりません。

そして起きることには、”起きた”という以上の意味はありません。それが故に、起きることはすべて素晴らしい気がします。ストレスを感じる瞬間も含めて。

2015年3月9日月曜日

名前のちから

すべての物には名前があります。


すべての物は名前を与えられることで、社会の中にその”存在”を与えられます。名前を与えられることで存在が明確になります。新しいものが見つかると、大抵の場合、まずはそれをなんと名付けるか、ということが話題になります。

名前には大変なちからがあります。

おとぎ話ではよく、魔女が誰かを意のままに操るのに、相手の本当の名前を知ればいいだけ、なんて設定がありますが、まんざら的外れでもありません。

名前を与えられたものは、次に定義を与えられ、分類されます。名前を与えられると、輪郭が生まれます。”なんとなくそこにあるもの”ではなくなります。

これは個体(のように見えるもの)に限らず、感情や感覚も同じです。

感情や感覚は、生まれた先から消えていきます。もし邪魔をしなかったら、感情や感覚に気がつくときには、ほとんどそれは過ぎ去っています(これは実は、思考も同じです)。


でも、これに名前を付けると・・・


急に輪郭がはっきりして、”意味合い”が生まれます。
そしてもし、それが”いけない”とされるものだったり・・・”嫌い”というカテゴリーに属するものだと分類されたりすると、


”どけなきゃいけない!”、”やめなきゃいけない!”、などといった抵抗の盾が持ち出される結果、余計にそれが肥大化されたりします。


だけどどんなに怪獣化したように見える感情、感覚も、名前の呪文を唱えるのをやめると、瞬く間に本当の姿に戻ります。


生まれては消えて行く。気がついたときには、実はしっぽしか見えていない。残像しか見ていない。

”私”、も同じです。


(ちょっと絵が怖いかな・・・^^;)

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2015年3月6日金曜日

優しい世界

雪の降った翌日。


お隣の屋根を見たら、この日の空の色は雪の色とおんなじで、空と屋根の境がわからない。

それが妙にくすぐったい気がしたりして。

そしてはたと気づく。

もしお隣さんが眺めたら、自分の家の屋根もきっとこんな風に見えるんだろうなぁ、って。

だけど自分の家の中から、自分の家の屋根は見えないから、私はお隣さんの家を通してしか、これを発見することはできない。

普段は近すぎるように思えるお隣さん。でもお隣さんの家がいなかったら、このくすぐったい光景に気づくことは無い。

お隣さんも私の家なくして、これに気づくことはない。

写真元:Veterinaria, Facebook page

フェイスブックで見かけた、目が覚めるように美しい鳥。

でもこの鳥は恐らく、自分がどんなに美しいか、一生知ることはない。

羽つくろいをするときに、羽の先端は見えても、自分の全身を見ることはできないから。

水に映った前身は見れても、後ろ姿は見れないから。

自分の全体としての美しさを知ることはない(鳥が気にかけることがあったとして、だけど)。

この美しさは他のもののために存在する。

それを見るもの、それに気づくもののために存在する。

”私の見かけは、私のためではなく、相手のために存在する”という、ダグラス・ハーディングの言葉を思い出す。

その理解が示す、世界の優しい造りに心が溶ける。

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2015年3月3日火曜日

生命の地盤から

J.C. アンバーシェルという、刑務所の中で自己の本質に目覚めた人がいます。私はまだ『The Light that I am』という本しか読んでいませんが、他にも複数の本を出版しているようです(詳しくはこちらのヒロさんのリストをご覧下さい)。

アンバーシェルは服役中に精神世界に興味を持ち、獄中で数十年仏教を学びます。そしてある時ダグラス・ハーディングのヘッドレス・ウェイに出会い、それを通じて自己の本質に目覚めます。『The Light that I am』は、ヘッドレス・ウェイを通じて存在の本質に気づいたその見地から、過去のこと、また現在の獄中生活のことについて綴った随想録です。

”私”=アンバーシェルという枠の中で生きる一日と、”私”の存在しない、生命の本質そのものとして生きる一日を並べて綴った随想は、同じ刑務所生活が、自分を何物(何者)と捉えるかによってどれだけ違うものになるかをありありと描写していて、読んでいて目が覚めるものがありました。

自殺未遂を計った娘が面会に来た時に、何もしてあげられることが無い絶望感の中、ヘッドレス・ウェイを彼女と分かち合い、娘が現実を垣間みるのを目の当たりにします。その過程、そしてその後の娘の変化、娘との関係の変化を綴った随想は、読んでいて胸(と目頭)が熱くなりました。

・・・というのはほんの一部の紹介ですが、この本にはNotes from the Ground of Beingという副題がついてます。私はこの副題を本の題名と同じか、それ以上に気に入っています。
もちろんいく通りかに訳すことができますが、今ぱっと思い浮かぶ中で私のイメージに近いのは、

生命の地盤からの覚え書き
生命(いのち)の見地からの覚え書き
存在の基盤からの随想録

といったところです(どれもイマイチだけど)。
存在の本質、生命の基盤、あるいは生命そのものとして綴る随想録・・・彼の文章はまさに”それ”そのものの表現です。”私”というフィルターを通過せず、まっすぐに表現されています。

さらに”毎日をそれとして生きる”、というのがすべての文章の根底にあって、私にとってはそれが非常に魅力的です。

ちなみに・・・

この副題を眺めながら、何度となく頭に思い浮かんだのは、『この世界で知っておくべき、たった一つのこと。』というブログです。(逆かな?このブログを読むたび、この副題を思い出した、というのが正しいところです、はい。)

これまで私が読んだ非二元の本は、説明形態のものがほとんどでした。言葉にできない生命の本質を説明するならこんなことになる、あるいは、こういう考え方や物の見方は違うんだよ、と説明する感じのものです(そうでないものもあるのでしょうが)。

アンバーシェルはそういった中で、もっと現在進行形で生な感じが異色に感じられたのですが、このブログの表現はさらに異色で、私は他に同じようなものを知りません(あえて言うならウェイン・リカーマンがラム・ツーという別名で出している、『No Way』という本が笑える、という点で同じですが、『この世界・・・』にあるような優しさはないです)。ブログの随所、表現のすべてに、書き手の目覚めの深さが現われているように感じられます(英語でいうならsolidということなんですけど・・・ぶれや波がない?)

アンバーシェルと同じく、存在の本質からストレートに湧いているような表現は、しばらく前、このブログの記事にあった、”秘湯”そのものという感じです。一なるものからこんこんと湧いている”公然の秘密の温泉”。しかもこの温泉、浸かるとくつろげるばかりか、お腹の底から笑えるという素敵な効能が。

素晴らしいブログです。