2016年11月28日月曜日

悟りと進化

「あー、ええっと・・・”悟りは自然な進化のステップですか?”」

「おお、それはいい質問だ。答えは”いいえ”。仮に悟りが何かであるとするなら、悟りは進化からの逸脱だ・・・というか、私にはその質問が個人の生まれ変わりについて聞いているとも、種としての進化について聞いているとも取れるが、いずれにしても答えは同じだ。進化というのは変化についての話であり、悟りというのは真理、すなわち不変のものについての話だ。進化というのは日常の存在より、より大きな背景で起きることだが、それでもまだ、二元的な脈略の中に閉じ込められている。言い換えると、進化、成長、発達、変化、なんでもいいがそういったものは全て、二元的な存在のドラマチックな出来事の一部だ。悟りはそうではない。」

ジェッド・マッケナ『Spiritually Incorrect Enlightenment』

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ある時、”自分”と思ってるレッテルのすべてを放り捨て、捨て続けて気がつくと、意識が自分の存在を胎児までさかのぼっていました。そのまま意識は遡り続け、胎児としての形が形成されるより前まで行って、、、するとそこに、胎児としての形が形成される前に、”何か”があるのがわかりました。

意識はそこからそのまま線を逆になぞるように今に戻ってそれを通過し、先へ先へ、体が衰え、機能を止めるところまで向かいました。するとそこでも同じ”何か”が残るのがわかりました。

”あ!”と思いました。

その発見、あるいは気づきに喜んだ後、確信しようとして失って、、、、

しばらくしたある時、たとえ今、原爆戦争が起きて、私たちが世界と呼ぶもののすべてが完全に破壊されても、まったく影響されないものがある、というのをはっきりみました。

”ああ”と思いました。

自分の中では否定しようのない、はっきりした認識だったけど、口にして人に伝えたら、なんともオオボケな感じがするなぁ、と思いました(でも話したけど^^)。

そうしてその認識が薄れた頃のある日の夕方、散歩の途中、野原にあった大きな木を見上げた瞬間に、頭の動きが完全に停止し、”私”の動きが一切止みました。周り中のすべてはただ存在してー風と木と体と草と、土と、ただ佇むこととーすべてがそのまま、一切の名称も解説をも与える隙なく、ただ在りました。

後付けで解説を加えるなら、自分と周りに一切の区別がなかった、とか言ってもいいんでしょうが、そう言った言葉や描写の入る隙のない在り方でした。

数秒後に、その懐かしさが認識されました。
それは新しい発見でも経験でも悟りでもない、子供の頃、ふつうだった世界の在り方でした。

そうして”たとえ原爆戦争が起きても、まったく影響されないもの”
”自分が生まれる前にもあって、(もちろん今もあって)死んだ後にも残るもの”
に目が止まっても、変化に心をさらわれることは続きました。

”いつでも変わらず在るもの”
よりも、それに気づいた過程や、その余韻の方に心を奪われ、それをとどめようとして失望や喪失感、自分の不出来感を味わいました。

でも”それ”を新たに思い出したことで、”私”に燃料を注ぐことはどんどんと減り、代わりに”私”のガス抜きが加速されました。

力みが衰えて、抜けていくうちに、一所懸命探してきたものは、思っていたのとまったく逆に、どんなに努力しても失えないものだとわかりました。
存在のすべてにおいて、最も努力なく、手に入っちゃってるもの。
どうやっても離れることも、失うこともできないもの。

そしてどうやっても、定義・特定できないもの。
”わかった!”ー”私”が言いたくてたまらない、あの一言が適用できないもの。

まったく変わらないものに意識が返ることで、進化から逸脱するという見かけの変化が起きるのは、パラドックスとしか言いようのない、喜劇だなぁと思います。


・・・ううう。風邪で頭ボケボケ。


2016年11月12日土曜日

目覚め

”....禅や他系統の人々はこの点に関して話しはするが、大抵の場合、
重度の精神衰弱はスピリチュアルな教えの大きなセールスポイントではない。
皆完全な知識、苦しみからの完全な解放その他といった
美味しいものはすべて欲しがるが、誰も代金は払いたがらない。

ジュリーが今いる地点こそがその代価、もしくは、いずれにせよその始まりである。
(目覚めとは)血まみれの混乱、というのが単純な事実であり、
愛・至福系の人々は参加登録しないのだ。
彼らは、立ち泳ぎ仲間の間で
居場所を失わないで済む悟りが欲しいのだ。
手足をばたつかせるのをやめたくないのだ。
一人で暗闇に滑り込みたくないのだ。
彼らが欲しいのは別の悟り、
グループにとどまり、注意深く作り上げた人格を維持して
ただ幸せになりたいのだ。
できることなら本当に本当に本当に幸せに。

自分も隣の男性と同じように幸せが好きだが、
幸せは私たちを真理の探求に送り込んだりしない。
それはやってくるのが天国であろうと地獄であろうと、
代価に糸目をつけず嘘であることを止めようとする、
猛烈で熱狂的、激しい狂気なのだ。

(目覚めは)高次の意識とか、自己発見とか地上における天国とかいった話ではない。
これは血がこびりついた刀、朽ちかけたブッダの頭、そして自己犠牲といった話であり、
そうではないという人は皆、
自分が持ってもいない何かを売っているのだ。” 

                 ジェッド・マッケナ『Spiritual Enlightenment The Damnedest Thing』

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6ヶ月に及ぶ教師養成コースが終了しました。この半年間はコースを中心にした
生活でしたが、これで一息です。

”瞑想”という穏やかなイメージとは裏腹に、
自分の中からも外からも、何が本当か本当でないのか、引っ掻き回し、
すべてを取り出し、投げ出して見直していくという、容赦ない作業を続けた
参加者のすべてに、深い敬意を感じています。

”こんなに大変だなんて、誰も先に教えてくれなかったじゃない!”
と叫んだ子もいましたし、

”長い間みんなを心の中で批判し続けてきて、今やっと、自分が何を
してきたか、いかにわかってなかったか気づいたの。
ごめんなさい。自分が何してるか、まったくわかってなかったの。
こんなに長くかかってごめんなさい。”
と涙を流した人もいました。

否応無くそうせざるを得なかった、というのが現状ですが、
自分のすべてをさらけ続けたみんなに、深い感謝を感じています。

事実を言えば、参加者の誰もが、愛と至福、より良い自分を求めて
コースに参加したと思います。
自分のちょっと不都合でうまく機能してない部分を補正して、
ずっと楽な人生を歩んでいけると思ってたと思います。
”それ”を知る、思い出す、ということが、機能不全でありながらも
長く慣れ親しんだ自分の全てを捨てることであるとは、誰も、
聞いていても理解できないことであり、誰もが、期待していたこととは
まったく違ったと言います。

そうして、それぞれが新しい一歩を踏み出します。

2016年11月11日金曜日

ニュージャージー州 イントロコース

イシャヤのアセンション、イントロコースの日時が決まりました。
11月19日(土)7pm -8:20pm
会場:Stirling, NJ (NJ transit, Morris Essex line Stirling stationより徒歩5分)
参加費:無料

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