2014年8月13日水曜日

”私”する癖

3−4年前のことですが、サンクスギビングに、自宅で一人リトリートをしました。ほんとうのところ、物事はどうなっているんだろう?という疑問に、本気になりはじめた時です。私の幸せプロジェクトはおいといて、真実とやらはどうなの?

3日間、家から一歩も出ずに瞑想したわけですが、同時にいろいろな疑問が自然に湧いてきて、様々なことを試しました。まず朝目が覚めたとき、

『目が覚めたら起きないといけないと思ってたけど、実際そうだろうか?・・・起きないといけないと思ってるから起きるんだろうか?私が決めて行動を実行しているんだろうか?』

という疑問が湧きました。それまではそう思ってたけど、読んだ本にはそうじゃないと書いてある。実際のところはどうなんだろう?このままじっと寝ていたらどうなるだろう?

頭は忙しく回転していました。”起きるべきよ。” ”トイレに行かなくちゃ。” ”このまままた二度寝しちゃうかも。”等々。そしてある瞬間、気がついたら起き上がっていました。それはまさに、ある瞬間にいつの間にか起きていて、意識が行動を捉えたのは、行動が起きた後でした。

あらま。

結構びっくりしました。

トイレに行って顔を洗って、そのままリビングに移り、ソファで瞑想を続けようとしたのですが、ソファに横になったとき、自分がいかに自由であるかということに気づいて、充足感・幸福感が溢れかえってきました。

『ああ、なにもしなくていいんだ。こんなラッキーなこと、あるだろうか。本当になにもしなくていいんだ。』

体中の力が抜けて、溶けるような思いがしました。”何もしなくていいんだ”と頭の中で繰り返し、体の力がどんどん抜けて沈んで行くような感じに身を任せました。

やがて”なにもしなくていい”、は、”私しなくていい”、に変わり、さらに深い開放感をもたらしました。”私”、というのが役割―あるいは一種の仕事みたいなもので、実はとても疲れるものなのだと、その重荷を初めて実感しました。

無意識だったことが一度意識にとまると、ものごとは二度と以前と同じには見えません。”私”をやめるという経験、その開放感は、私の中にとても強い印象を残し、その後日常の中で、自分がいかに”私”しているか、そこにどれだけ無理があるか、折節に感じるようになりました。