2015年2月27日金曜日

ふりかえればそこに奴がいる

と、どこかのテレビドラマのような題名で始めてみましたが、バーナデットの続編です。よって格好いい内容でも、笑える話でもありません・・・。

バーナデットは、私たちが個人という認識からすべての本質に帰る過程の中で、二つの大きな転換地点がある、といいます。

一つ目はエゴが無くなること。
二つ目は自己が無くなること。

そしてこの二つはまったく別の事象であるのに関わらず、多くの人が混同している、というのが彼女のこだわりですが、どちらにおいても共通なのは”なくなってみてわかる”、ということだと言います。

エゴがなくなったとき、振り返ってみて、エゴとはなんだったのかわかる。
自己がなくなったとき、振り返ってみて、自己がなんだったのかわかる。

渦中にあるとき、それそのものとして自動的に作動しているときには、それが何であるのかはわからない。失ってみてはじめて、何がなくなったかわかる ― ふりかえるとそこに奴がいるわけです(^^)。

彼女の中で自己という感覚が喪失したとき、彼女はなにが自分に起きたかを知るべく、ありとあらゆる人、著作に助けを求めますが、答えを見つけることができませんでした。ただ、仏教の教えの中に、”人間とはこういうものである”という定義を見つけた後、”これを定義した人は、すでに自己という感覚を超えていたから定義できたのだ”、ということにはたと気がついたといいます。

さて、自分はどうかというと・・・

エゴというのはなんのことだかよくわかりません(^^)
自己という輪郭に気がつくことがありますが、だからどう?という感じです。

バーナデットに限りませんが、存在の本質の深みから湧いて来るものに触れると、あああああーーーと奥深くから共振が起こり、心がしびれます(^^)。昔のように”これは本物か偽物か”と、斜に構えてみることや、詳細を”採点”することができません。ただ純粋に、言葉の根底にあるものに打たれてしまいます。エゴが、過程が、などということを聞けば、”自分はどうなんだろう?”という想念が湧かないわけではありませんが、長続きできません。

こんな表現!すごい!―という味わいが湧くだけ。

そしてもし、エゴが、自己が、ということに興味があるなら・・・
”たった今、ここに存在しているといえるものは何だろう”というところへ返ります。

その瞬間、”私(中心)”という幻想が生む違和感が消え、ありとあらゆるところにある、捉えようのないものとしてのあり方に返り、全身がほっとします。

安心感の中、ふいとコーヒーを淹れる用意にかかったりして。

2015年2月23日月曜日

わかるまで、わからない

家を売りに出した後で、色々な欠陥に気づいて慌てて修繕したり、家を見に来る人のために出たり入ったりを繰り返したり、なかなかストレスのたまる状況です。

そんな中、ふと思い出すのは、かつての自分がストレスとどれほど格闘したか、ということです。ストレスを感じても表に出してはいけないとか、瞑想をちゃんとしているならストレスを超越あるいは昇華できるはずだとか、世にも不思議なことをたくさん信じて苦しみを生んでいました。

そうじゃなくてもすでにストレスを感じていたのに、ストレスを感じていることにケチをつけることでいらない負担をどんどん増やし、最後は身動きがまったく取れない状態に陥っていました。

我が師カーリーに助けを求める頃には混乱の極みに達していて、さらに英語がうまくしゃべれなかったこともあり、相談しようにも言葉が一切出てこない、なんていうことがよくありました。

しまいには泣き出し、しゃくりあげながら支離滅裂な説明をする私に、カーリーは言いました。

「どうして浮かび上がろうとするの?」
「??」
「沈んでいるときは、沈んでいるっていうだけなのよ。沈んでいること自体は苦しいことじゃない。でもあなたは浮かび上がらなくてはいけないって思ってもがくから、それが苦しみを生んでいるのよ。」

その指摘は魔法のように、私を堂々巡りの苦しみから解放してくれましたが、そうしてちょっとするとまた、同じような状況が起き、同じような苦しみのパターンを繰り返していました。

さて、今はどうかというと、ストレスを感じているときにリラックスしようとすることは、狂気の沙汰に思えます。どこからどうやったらそんな発想ができるんだ?というくらい謎に思えます。

このどーんとくる重い感覚や、神経がすり減るような感覚に対し、ふと、”もし、これをストレスと呼ばなかったらどうなるんだろう?”という好奇心が湧きます。名前を付けないでいると、あるいはどけると、感覚だけがありありと感じられ、そしてどんな嵐もそうであるように、やがて過ぎていきます。

へぇ、と不思議な感じがします。

何度色々な人の言葉を読んでも、聞いても、その時わかった気がするだけで同じことを繰り返すだけだったのに、あるとき突然それが腑に落ちて、やがてそれが紛れもない現実になる。

そしてそれはいつ起きるとも、起きないともわからない。

うーむ、と、生命の神秘に打たれて言葉を失うのみです。

2015年2月19日木曜日

イシャヤのアセンション コースのお知らせ

4月に日本に帰国する折りに、イシャヤのアセンションのコースをすることになりました。

イシャヤのアセンションは1990年代にアメリカで始まった瞑想法です。ニューエイジ志向の人々の間で当時、”最も新しいホットなもの”としてもてはやされ、素早く広がりました。ヨーロッパ、南米、アジアにも広がり、日本でも定期的にコースが開催されていた時期があります。アメリカのノースカロライナ州にコミュニティがありましたが、1997年に創始者が亡くなると、コミュニティに混乱が訪れ、経済難からコミュニティは散開に至りました。

私は日本で習い、その後アメリカに渡ってコミュニティに参加しました。半年後日本にアシスタントとして戻りましたが、日本にいる間にコミュニティの閉鎖が決定したので、どうするか迷った末に、テネシー州に移ったグループに加わりました。

気がつくと15年の月日を、アセンションとともに歩んでいました。

アセンションがこの世界で一番素晴らしい瞑想法である、とは思っていません。誰もが習うべきだ、などとも思っていません。何かの手法が命の本質を起こすことなどありえないからです。私たちはすでに、紛れも無く、いついかなるときも”それ”そのものだからです。

ただ私は縁があり、今もそれが自然と起きるので、それに一切逆らいません。

もし興味があったら、アセンションに関する過去の記事はカテゴリーから探せますので、瞑想のカテゴリーと合わせて読んでみて下さい。

アセンションの本は・・・2冊日本語に訳されていますが、ええ・・・もう・・・ニューエイジの香りがぷんぷんします(笑)。英語も同じです。核はものすごくシンプルなんですけど、いらない飾りが残念です(^^;)。

コースに関しては、このウェブサイトに情報がありますので、興味があったら見てみて下さい。

もしご縁があったら、お会いできるのを楽しみにしています。

関連記事:イシャヤのアセンションとは


2015年2月18日水曜日

美しいのは誰?

きれいなバラ。




そしてバラの脇役として添えられた花。


でもその驚くような細部の造りは、バラに劣らず神秘的。


そしてふと見たこの・・・・造花の観葉植物。きれい・・・・
うっとり。バラにも、添えられた小さな花にも劣らない。


マインドが慌てて入って来て、「これは作り物で、本物に劣るんだよ。違いがわからないと格好悪いんだよ。」と一生懸命言うまで、比較も、違いも、どこにも存在しない。

一瞬、「あ、そうだ、これは作り物で、本物じゃないんだ。これを素晴らしいと思っちゃいけないんだ」、と習慣通り信じるべきか戸惑ったけど、”違いがわかる人”、という格好いい(はずの)名札に興味が持てなくて、目の前にあるものにまた吸い込まれてしまう。

うっとり。

”きれい”という言葉さえ、実際にはあてはまらない。湧いて来る行動も感覚も、名付けることができないし、そんな必要まったく感じない。

2015年2月13日金曜日

知っているのはだれ?

ヘタクソなペンキ塗りに始まる家の修繕、掃除、その他の用事を毎日10時間以上続けて、毎晩体中に痛みを感じながらベッドにつく日々が続いています。朝起きて、せっせと働ける限り働いて、限界に達したら疲れた体を引きずってベッドに向かいます。
慣れないことをたくさん強いているのに、夜はよく眠り、朝にはまたしっかり起きて機能してくれる、優れた体に深い感謝を覚えます。

寝る前にちょっとの間気に入った本を読むのが、一日の最大の楽しみです。ここ最近はヒロさんのお勧めで知った、『Goner』というU.G.クリシュナムルティ関連の本にはまっています。gonerというのは、見込みの無い奴、救えない奴、とかいったような意味です。

各章のはじめには、透き通るような、あまりの明晰さに心臓に突き刺さってくるようなU.G.の言葉が載せられています。そしてそれに続く本文の中では、U.G.の奇行、蛮行、とんでもない発言の数々と、周囲の人たちの反応について、作者の人生の変化についての”物語”が展開します。この物語には相当な牽引力があります(^^)。

もともとU.G.のそういう規格外なところに強く惹かれてきたんですけど、それにしてもいやはや・・・想像を絶するものがあります(笑)。実際に会いに行ったりしてたら、きっとすごくくだらない質問をして、3分以内に怒鳴りかまされ、さらに蹴り出されていたのではないだろうかと思います(^^;)。

例のごとく、ゆーっくりと読み進んでいるのですが、数日前にこの言葉を目にしたときは、心が溶ける思いがしました。
 ”Once it has become pure, of and by itself, then nothing can touch it, nothing can contaminate that any more. All the past up to that point is there, but it cannot influence your actions any more.”
ひとたびそれが純粋になったなら ― ひとりでにそれが起きたなら ― もはや何ものもそれに触れることはできない、それを汚すことはできない。その地点までの過去のすべてはそこにあるが、それはもはや、あなたの行動に影響を及ぼすことはできない。
日本語にするなら、こんなところでしょうか。
”それ”というのは私たちの存在の本質、すべての存在の本質であるもの、という意味だと思います。人格は”私”に取り除けるものではありません。ただあるとき、”人格”としての私への同一化がひとりでに剥がれ落ち、本質が自ら自然と我に返ったならば、もはやなにものも、その純粋さを汚すことはできない。。。。

あああ―――と、体の芯から湧いて来た、郷愁とも喜びとも限定できない思い。

知っている。なんのことか知っている。

深い、深い、満足感と共に沈んでいきました。同時にチロリと湧いた思い。
「知っているのは誰(何)だろう・・・」

答えなんかいらないけれど。

でもま、”自分”のことですからね。知っているんですね、私たち、みんな。

2015年2月8日日曜日

この景色

ヘッドレス・ウェイに慣れ親しんでいる方々には、おなじみの光景なのかな・・・
この光景。

画才の無さはさておいて、ベッドに座っているとき視界に広がる光景、のつもりです。

”今ここにある、と言えるものは何なんだろう”という問いが、繰り返し浮かんでいた時期があって、あるときふと、視界が気になり始めました。

生まれたときから今まで、目を開けているときには変わらずにおなじみの、この空間。

この空間の中に、さまざまな物や人が存在します。すなわち、私の世界です。違う場所に行けば違うものがこの空間を満たしますが、この空間自体は変わりません。生きている限り、目を開いたときには死ぬまでこの空間があって、そこにそのときあるものが、そのとき存在していると言えるものすべてであることに、今更のように気づいてはっとしました。

ちなみにマインドにとってこの光景はどんなものかと言うと、

こうです。そこに座っているはずの”私”のイメージ付き。実際には後ろ姿を見ているわけではなくて、自分の輪郭の感覚がはっきりそこに投影されている、という感じ(自分の顔や頭がそこにしっかりあって、私が私の目を通して目の前を見ているのだ、という感じ)なのですが、とてもじゃないけど私の画力では絵にできません(^^;)。

自分を”私”という人として、世界の中心として見ているときと、”それ”として、すべてを抱合しているとき ― ふたつの感覚の違いには、大きなものがあります。

そして目を閉じると、世界は崩壊します。

最初こそ、それまで見ていたものの光景(私は部屋にいて、ベッドにすわっているのだ、というイメージ・確信)や、”私”の輪郭を心象風景として保持していますが、やがてくつろぐにつれ、”視界”なるものが消え去って、音と感覚、感触だけが残ります。

枠の無い、制限の無い闇の中にランダムに、イメージ、感覚、感触が湧いては消えていきます。マインドが糸を紡ぐように、すべてをつないで物語を織ろうとします。

やがて疲れて、そのすべてが静かに消え去るまで。

2015年2月2日月曜日

不意打ち

テレビを見ていたら、突然何かがびゅっと、下から突き上げられたような形で視界に飛び込んできました。

”ええっっ、何?!?!”

マインドが軽いパニック状態となり、”落ち着かなくては!”、”何が起きたか見定めるのだ!”などなどと慌てふためくこと数秒―。
ようやくマインドの焦点があってみたら、視界に飛び込んできたそれは、バレリーナのごとくまっすぐ伸ばして突き上げられた、自分の足でした(^^;)。

・・・えーっと・・・

と、その行動の引き金となったはずの思考を探しても、まったく記憶にない。そしてすぐ、”でも、実際のところ、すべてこういうもんだよなぁ”という思考が来て、あっさり納得してしまいました。

大人になってからは、マインドがこんな強烈な不意打ちを喰らったことはほとんどなかったような気がするけど、子供の頃は結構何度もあったような・・・と不確かな記憶の波が押し寄せます。

「自分でやった癖に何とぼけてんのっ」
「お前が今、言っただろう!」

なんて家族や周囲の人に言われても、”私がやった”というよりは、”そんな言動が起きてしまった”というのが自分にとっては本当のところで、ひどく戸惑ったあの感覚。

何か言う前に考えるのだ、
何かする前に結果を考えるのだ、
自分の考えに責任を持つのだ、
自分のしたことを自分に問い直すのだ、
等々・・・

一生懸命自分に言い聞かせて覚えてきた”私”という責任者が、何もしないでも怒られないとわかって、どんどんどんどん、緩み続けています。

まずご飯を食べてからあれをしよう。
これを片付けてから買い物に行って、帰って来たらメールを書こう。

などなどといった計画案や行動指南の思考が、どんどん自然な行動の速度に追いつかなくなっています。

何を食べ・・・(ようかな?)

思考が終わらないうちに、身体は冷凍庫からパンを取り出し、トースターに入れています。

パン・・・(を焼いているうちにコーヒーを淹れよう)

身体はすでにコップに水を汲んで口に持っていっています。

くるくると動き回り、効率よくどんどん用事を片付けたり―かと思うと、思考が嵐のように押し寄せ、せめぎ立てても、じっとすわって動かなかったりします。

現場監督=”私”が、”何かが間違ってる!”と抗議して、焦燥感や不安感が湧きます。慌てて監督に従い、何かをなんとかしなくては、という思いが湧きます。不安感を抱いて動き回り、そしてまた、はた、と止まります。

”何が間違っているんだろう?”

ああ、監督が頑張ろうとしてたんだな、という気づきが起きて、監督が消え、すべてが終わります。また自然主導の命の流れが戻ってきます。

命が、あるものすべてが、ただ、脈動しています。