2016年3月17日木曜日

わかったというには早すぎる、わからないというには嘘すぎる

教師養成コースを卒業した、1ヶ月後のことです。

当時は我が師カーリーの家の近所に住んでいたこともあり、コースで教える内容について新しく思いついた案を見てもらうべく、家に来てもらいました。

そして、講義をやって見せたところ、
”Never settle" というフィードバックを受けました。

決して適当なところで腰を下ろしちゃダメよ、
何があっても安易に落ち着いちゃダメよ、

とでも言ったらいいでしょうか。


案は新しいものでしたが、その中に、”Aというのはこういうものである”、的な結論が持ち込まれていた点についての指摘でした。


”悟りというのはこういうものである”

とわかることが、言えるようになることが到達点なのだ、と思っていたのが反映されていたのだ、というのが、振り返るととてもよくわかります。


これは教師という役割を得たから、そういう到達点を想像していた、というものでもないんですね。それよりもっと深い習性です。


マインド、あるいは”私”という感覚は、どうしようもなく安心を求めています。

もうわかったのだ、と言えること、
信じられること、

極めたのだ、と言えること、
証明できること、
認めてもらえること、
宣伝できること、

それによって、もう探さなくてもいいのだ、と思えること。



もう探さなくていいのだ、と思えること。



を、必死に求めています。
そしてここだ、あー ここだ、と、

次から次へと止まり木を見つけては、そこに腰を下ろそうとします。



マインドには、止まるには理由がいらない、ということがわかりません。

止まるには、なにも必要としないのだ、ということがわかりません。


むしろ、”止まり木”がある限り、その嘘に伴う不安感がつきまとうのだ、
という事実には、必死に目をつぶり続けようとします。


あれから2年経って、そんなマインドの習性の深さをさらに痛感します。


探すのをやめることは、今この瞬間に一瞬にしておきます。

すべてから、一瞬にして、立ち去る、ということが起きます。



もっとも頼りにしてた、頭の声から。

もっとも真実だと、心の拠り所にしていた、その思いから。

馴染みのある、一切の思考、感覚から。



思っているよりも、ずっと深くしがみついている、そのすべてから立ち去ると、

真っ裸で歩いているような心もとなさがあります。


そして、すべてがただ、ありありと、存在しています。

不安の入る余地もなく。ある意味、幸せの入る余地もなく。


それは、例えようもない幸せです(^^)。



わかる、わかった、と思う限り、底なし沼が待っています。

”決してわからないのだ”という定義をかざすのも、同じ。



それでいながら、毎瞬間、まちがいなく、否定しようもなく、

”それ”であり続けている、私たちの、生命の不思議。


わからない、というのには、嘘すぎる真実がそこにはあります。



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2016年3月14日月曜日

誰もが、一番よく知っていること

先月、もう少しでアセンション、”お子様クラス”を教えることができるところだったのですが・・・

残念ながら、お母さんの熱い要望に反して年長の子が拒否し、ドミノ効果が起きたため、お教室は起きませんでした(^^)。

ざ〜んね〜ん〜


さて、お子様クラスの準備をしていた時、私の心をちょいと悩ませたのは、

”小さな子供にどうやって’それ’の話をするか”

ということでした。

このブログに書いているような語彙は、まず役立たずでしょう。

そもそも、小さなお子様たちは、’それ’なんて求めてるのか??

どんな風に共通の地盤を見つけたらいいんだろう?

・・・う〜む・・・



何人もの小さなお子様たちに教えた経験を持つ、我が師カーリーにそれを質問したところ、

”何言ってんの、この勘違い娘は”

という露骨に痛い視線とともに、

「誰も’それ’を教えてもらう必要がある人なんてないのよ。自分が何ものであるか、というのは、誰もが一番よく知ってることなんだから。」

という返答がすかさず、鋭く返ってきました。


我が師カーリーは、実用的なアドバイスは余すところなく与えてくれます。

ただし、根本的な勘違いの匂いがした場合には、絶対に見過ごしません(^^;)。

ありがたいことです。



皆が”知ってる”、かどうかは別として、、、、

知ってると”思ってる”かどうかは別として、


どうしたって、誰もが、例外なく、どうしようもなく、”それ”そのものである、というのはもう、揺がしようもない事実です。


皆、どう考えてるかに関係なく、’それ’してる(^^)。


それ以外でありえないから。


私たちがしているのは、せいぜい、一緒に思い出す時間を過ごすこと。



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2016年3月3日木曜日

無条件の愛

無条件の愛は、A さんが実行するものではありません。

B君が長年の修行と献身の結果、身につけたものでもありません。

Cちゃんがいい子だった時に、人から与えられたものでもありません。

有名な聖人だけが、マスターだけができることではありません。


ごく当たり前な、すべてのあり方です。


生命の単純な事実です。



ですが、誰かが”無条件の愛”なるものの特別さを語り、私たちが特別注意を払うようになると、


”愛”という言葉にまとわりついたすべての概念、過去の印象が、様々なイメージを作り出し、無条件の愛を素敵に条件化します。


”こういうのは無条件の愛じゃない”

とか。


”無条件の愛じゃないといけない”

とか。笑


そんなことが自由に起きるがままの無条件さは、軽〜く見過ごされます。


ダグラス・ハーディングは、そんな見過ごされがちな事実を、飾りなく、事実として表現します。

彼のキリスト教に関する表現は、これまで私が読んだものの中で、最も美しいものの一つです。

個人が、キリストが”する”のではない無条件の愛。
個人には”できない”無条件の愛。


事実として、今この瞬間に、あなたのために私が消えている事実。


そして、”過去の栄光”を掲げずに、毎瞬間確認する彼の真摯さ。


生命の源泉、”それ”、唯一なるもの、神、なんでもいいんですけど、それを”わかる”ことができない以上に、わかったのだ、という自信を持つことは不可能です。

でもそういった”体験”と”それ”そのものを混合して、過去の体験を語り続ける、
思い続ける、ということはしごく簡単に、頻繁に起きることです。



60年、なんて気が遠くなるような長い年月、ただ”それ”を見つめることに心を傾け、

そしてなお、人に何かを聞かれた時に、

”ちょっと待って、今確認してみるから


ああ・・・・その本物さには、本当に心を打たれます。


インタビューを読んで、その美しさに心が震えたのは1年前。

前にも書いたような気がしないでもないけど・・・

今日も改めて、感謝がわいています。


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