2018年3月28日水曜日

成長のらせん3 〜繰り返し見る風景



”となると、人生において変化するのは私たちの神との合一ではなく、その経験の様態、その気づきのレベルである。従って、人は神との一体性により深く目覚める、始まりから不変で安定しており、最後までそうであるところの一体性に、より完全な形で気づいていく過程にあるのである。”
バーナデット・ロバーツ「The Path to No-Self」


神、でもエネルギーでも、生命の根元でも、永遠なるものでも、なんでもいいのですが・・・

すべての現象を可能にしているものと私たちの一体性は不変であり、そうでなかったことも、そうでなくなることもありえない。それは子供時代からの幾多の神との統合の経験が実証している。

私たちに起きているのは、この変わりようのない事実を、様々な形で、あらゆる場面で、あらゆる瞬間に、より深く、より完全に気づいていく目覚めの過程である。


↑バーナデットの言葉の繰り返しです。

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私がアセンションに出会ったのは18年ちょっと前ですが、私の場合はアセンションを通して、いわば玉ねぎの皮が剥けていくような経験をしました。

これは人によっては日常の中で何のきっかけもなくただ起きたり、
離婚や、大病や、愛する人の死や、
あるいは結婚や、出産や、出会いや、旅や、仕事を通して起きたりもすることです。

たまたま、私の場合はアセンション。

人間関係、価値観、習慣、物、ものの見方、すべてを含め、人生において大切なものの順番が、あるとき(ある事)はゆったりと、あるとき(ある事)は盛大に入れ替わりました。

アセンションを通して何かを得たり、達成したりというのはありませんでした(中途では何度も、前よりこうなった、ああなった、と達成したように思ったけど)。
むしろ、一生懸命貯めて、必死になって抱えてきたものを、気づいたらどんどん捨て、忘れてる、といった結果になりました。

一番大事なことまで。

”それ(神、すべての根本、唯一のもの、エトセトラ)”がしっかり意識に止まった(と思った)とき、最初にしようとしたのは、
この状態なり、認識なりなんなりを、自分の中にしっかりと握りしめ、止めようとする事でした。

きっと繰り返していけば、定着する。安定する。
疑いようもなく、いつでもわかってる人になる時がくる。

キャリアとか、私をよくすることへの執着とか、そういったことはもはや手放したようである。残りのすべてを捧げてそこへ向かう・・・

と思い込んでいたのに。

”最終終着点”も、ただの仮想であったことが繰り返し示されて、
他と何も変わらないただ一枚の皮として、容赦なく、シュワっと剥がれてしまいました。



この間、同じ風景を何度も何度も眺めました。

”目覚め”の経験は、最初の頃の方がうんと華やかでした(^^)/。
だからそれについて話せることもたくさんあったように思います。

こんな経験起きちゃったの〜
あれがこんな風に見えちゃったの〜

反対側の経験も、それに比例して強烈でした。

また私、こんなことに怒ってるっっ
”それ”の感覚がなくなっちゃった、どうぢで?!

人生のおなじみのシナリオも、時を変え、登場人物を変え、何度も何度も繰り返されました。
だけどそれらの濃度が薄れていったというか。
あたかもそれぞれのことが、起きるたびにそれ自体をこすり落としていったような。
気にすることもなくなるに連れ、視界がだんだんひらけて行きました。

”決定的で揺るぎない結論”を持って、色々間違いのない判断ができるようになるのだと思ってたら、まったく意見なく、
”ただ見る”ということが起き出しました。

経験に対する興味が減って、それに連れてだんだん語れることが少なくなっていって、
”わかった度”よりは”わからない度”が増して行き・・・

でも、語ることは起きます。現にこうやって。長々と(^^;)


皆さんの景色はどんなでしょう?

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2018年3月16日金曜日

イシャヤのアセンションコース開催のお知らせ



以前にここでお話しさせて頂きましたが、イシャヤのアセンション瞑想のコースを、4月に横浜みなとみらいで開催することになりました。


・イシャヤのアセンションについては、このウェブサイトをご参照ください。
・コース料金等の詳細につきましては、このページをご参照ください。 

このブログでもアセンションに関して度々書いてはいますが、こちらの方でもちょっとした説明等書いています。今後私の経験も少し書こうと思っていますので、興味がありましたらご一読ください。

座ってても、寝転んでも、立っていても、人と話しながらでも(それこそ通訳しながらでも)できる瞑想法です(という様子はここで伺えるかも知れません)。


これまでも色々な方々が参加くださり、皆さんの真摯な思いにふれることができました。
今年はどんな方達に出会えるのか、とても楽しみにしています。

興味ありましたら、ぜひご参加ください。


またご質問等ありましたら、このブログの連絡フォーム、またはこちらから遠慮なく
お問い合わせください。

2018年3月13日火曜日

成長のらせん2 〜投影、参照

春です。


一見桜っぽいですが、ここいらの春の花はドッグウッド=ハナミズキです。

これは同じ木じゃないんですが・・・こちらも定番。


道の両脇を囲む緑、そして立ち並ぶ家や建物の合間にピンクや白がたくさん突き出し始めると、春の到来です。

ただし、そこからまた突然寒くなったりするのが、この辺りの典型的な陽気なんですが。^^;
昨日は雪がちらついていましたし!

日本は今はどんな様子でしょう?今年は帰国の時に、桜見れるかな?

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投影、参照。。。。

”私”の根本的な機能は、”自己投影”、そして絶え間ない”自己参照(自己言及)”です。
外にものを見るときは、”私”を元に意味、価値を決めたり、解釈したりします。

自分の記憶、蓄積してきた印象や知識を、外からのきっかけに応じて素早く組み立て、
”私が見ているのはこういうもの”、という風に瞬時に解釈し、外界を素早く構築します。
そしてそれが”私”にどういう影響をもたらすのか、どういう意味があるのか、
”私”にとってどうなのか、
”私”と比べてどうなのか、
めんめんとあらゆる想像をします。

いわゆる保身機能ですね。それが性質なので、それしかできません。

これが”私”の宇宙です。
よって、物事をありのままに見ることはほとんど不可能です。



そんな”私”には、自分を超えたものを想像することができません。
なので神でも、マスターでも、グルでもいいですが、

自分のスーパー良い版”としてのイメージを投影することになります。

・・・・はい、相変わらず稚拙な描写ですが(^^;)。

で、それが”私”にどんな素晴らしい人生や喜びをもたらすかと、想像をたくましくするわけです。
スーパー私”がくれるご褒美を、
それが素晴らしい瞑想の経験であれ、
人生が楽になることであれ、
”すごい変わったねー、何かあったの?”と人に認められることであれ、
よだれを垂らして待つことになります。



一方、私たちが”見つけようとしている”と主張する”それ”には・・・

”対象”というものが存在しません。



皆無です。



投影のしようもなければ、自分側にたぐり寄せるべきものもありません。

投影する先も、可能性もあまりにもないので、投影という動き自体が完全に消滅してしまいます。


(絵にもできない。)



”理解する(わかる)ことに満足するなら、対象なき状態に届くことは決してないだろう”
〜ニサルガダッタ・マハラジ