2014年8月14日木曜日

”私”発電

変な日本語ですけれども・・・

”私”という感覚を維持するには、エネルギーが必要です。大抵の場合、
思考→感情→センセーション(感覚)→もっと思考→もっと感情→もっとセンセーション→もっともっと・・・

といった具合にエネルギーが発電されるように思います。私の場合、すごく些細な行動を行うにも、この余計なプロセス、”私発電”、が入っていることに気づきます。

例えば料理をするのに、”しなくちゃ!”という思いを持たなくてはいけない、この動機がないと行動がおきないということはあり得ません。昨日書いたように、自動反応化している自分の行動をゆるめて、スローダウンして見てみると、行動は単に起きていて、思考の方が後付けであることに気づきます。

”しなくちゃ!”という言葉が頭に湧くと、例えば焦りが湧きます。焦りは体の感覚を生み、体の感覚はエネルギーとして知覚されます。このエネルギーが、行動の原動力のような気がしていました。だから、”しなくちゃ”呪文を頭で繰り返し、焦りの感覚で自分を煽る、ということを日常的に行っていました。それこそが私の活動を支えている、と信じていました。

これ、とても疲れます。しかも無用です。

ベルナデット(バーナデット)・ロバーツは、彼女の著書『The Experience of No-Self』の中で、このエネルギーが抜けていき、自分、という感覚が消えて行った過程について表現しています。人まね小僧の私としては、彼女が表現したように、私発電エネルギーを自分の中から全部流しだす、というイメージを試してみましたが、その時”私”は消えませんでした(笑)。”抜きたがっている私"がいたわけですから、彼女の話が根本的にわかってなかったわけです。

このエネルギー発電を行っていると、”私”の存在が感じられます―少なくとも、そういう気がします。ですが、時間をとってこの”私という存在感”をチェックしてみると、輪郭が特定できません。

ちなみに思考は勝手に湧くものですから、止めることなんてできません。せいぜい、エネルギー発電が起きたときに、気づくことがあるだけです。この気づくことも、私に起こせることではありません。

ただ・・・一度こういう知識が頭に、心に、どこかにひっかかると、どうもその、”気づき”が起きやすくなるようなことはあるようです。

『AをするとBが起きる』

という思考・定義を真じる能力が消えてしまったので、曖昧なこと、この上ない表現になりますが(笑)。