2016年8月25日木曜日

まっすぐで、透明な(4)

今回の養成コースに繰り返し参加していて、気がついたことが一つあります。

"fascination with the process"

とカーリーはよく表現するのですが、要するに、”何かになっていく過程に対するワクワク”ですね。
今、この瞬間に”それ”に返るーそしてすべてがはらりと落ちてしまうーことよりも、そう”なる”という前提のもとに、変化やら、目的やらを楽しむ方に心を惹かれる。

これは今目の前にあるものを無理やり遠くへ押しやって、どうやって手元に引き寄せるか楽しむようなものです。なかなか笑えるゲームですね。

で、私はこれをやっていました。

自分自身がコースを経験してみた上で、今度はそれをある種外側から見るー前に書いたように、”見る”なんて上品なことはありえないと、すぐに気づくわけですがーということに、興味を惹かれていました。

”自分が参加しているのと、手伝いに来るのとでは、全く違う経験だなぁ!”

なんて思考とそこから派生するワクワクを楽しんでいました。


そして彼女が来た時、”ね、自分のコースの時と、私たちのコースに来た時は違った?”と”ワクワクしながら”聞いてみました。

彼女は、”う〜ん、同じ。”
と、いつもののんびりした、しかしスッキリ明晰な様子で答えました。


それを聞いた瞬間、私は顔に水をかけられたような気持ちになりました。


すでに自分の間違いに気づきながら、彼女にもっと説明してくれるように頼みました。

”walking into the unity"
と彼女はシェアしてくれました。

日常生活では、毎日朝から晩まで体のことばかり話すお年寄りに囲まれ、統合意識しかない、という事実がやや影って感じられるような気がする時があるけれど、こういう環境に足を踏み入れると、それしかそこにない。。。

その説明は、ミーティングの時、深く深く祈っているようにしか見えない彼女の様子を説明していました。

カーリーの指摘や、有名な賢人の名言以上に響きました。


愛の出し惜しみの時もそうでしたが、言葉そのものより、言葉の底やら後ろやら・・・周りにあるものが力強すぎて、美しすぎて圧倒されてしまうんですね。


そしてあの、あけすけで、まっすぐな眼。
疑う余地のない、透明さ。


彼女は、”日常の中では、自分の時間が欲しい、なんてエゴがまだガーッと頭をもたげたりするけどね。”と言いました。
”?自分の時間が欲しいなんて、当たり前じゃないの?だって起きてる時間ずっとお世話でしょう?休暇もないわけでしょう?”
と慰めるような気持ちもあっていうと、
”ん〜〜、あのエネルギーは完全なエゴだよ!”
と、彼女は笑いながら、かつ曖昧さのない様子で言いました。

”自分”の都合ではなく、物事のありのまま、エネルギーの質をしっかり見てるんだなぁ、とその容赦のなさにたじろぎました。

”音楽やってたせいなのかもしれないけど、神秘体験が多い方で・・・”と、彼女は幾つかの体験をシェアしてくれました。
中にはブッダがお経を唱えているところに出くわして、あまりのエネルギーに自分が散り散りになってしまいそうになり、”やめて!”と叫んだ、なんていうのもありました。

たいていの人の口からこんな話を聞いたら、私は引くか、流すかするんですが、私はただ、彼女の経験を感嘆の思いとともに聞きいていました。
実際、同じ話を前に彼女から聞いた時は、まだ彼女が”重く”見えていた時で、”へぇー、そうなの”と完全にスルーした記憶があります。

それが今回は、全く違う話を聞いているかのようでした。

せっかく久しぶりに会えたのだから、と、彼女は一緒におしゃべりする時間を設けようとしてくれていたのですが、私はもう、20分も話した時点でいてもたってもいられず、アセンション(瞑想)に戻るしかない、という状態になりました。

お腹いっぱいならぬ、魂いっぱい。静けさに沈むしかない。


++++++

彼女の変化は、私の変化です。当然ですが。

彼女の目が開かれた後、私の目が開かれることがたまたま起きて、美しいものを、美しいと認められる能力を取り戻しました。

そうして今は、会うたびにより透明になっていく彼女に、そんな人がこの人生にいてくれることに、ただただ感謝しています。

トニー(パーソンズ)だったかな?”僕が知ってる一番悟った人は、ハワイでコンビニの店員やってるよ”と言ったのは。

猛烈な探求者だった私は、”どうやったらその人を見つけて会いにいけるだろう?”なんて妄想を当然かき立てたのですが(笑)。

彼女の人生は目立とうとすること、特別であろうとすること一切なく、平凡そのもので、すべてが一なるものに捧げ尽くされています。

その本物さに打たれっぱなしです。


彼女を通して表現されている透明さに気づくことができて、本当にありがたく思います。

2016年8月24日水曜日

まっすぐで、透明な(3)

その次に彼女にあったのは、2年後、去年のことです。仲間内の結婚式で会いました。

この時の彼女との時間は・・・楽しかったぁ!

クルーズ行って、式参加して、、、ご飯食べて、お酒飲んで、喋って、踊って・・・ただひたすら楽しい時間を一緒に過ごしました。

アセンションの話も、スピリチュアルな話も全然しなかったと思うけど、彼女はまた一段と、”私”がなくなっていました。


彼女はイェール大学の音楽科を卒業した人で、もともとすごく頭のいい人です(正直、イェールに音楽科があるのは知らなかったんですけど ^^; )。
卒業後、プロの音楽家として10年くらいは活動したそうですが、彼女が養成コースに行った時点では、音楽はやっておらず、独学でウェブデザインを学び、個人で仕事を請け負っていたようです。

それが養成コースの後、すべてにすっかりモチベーションを失ってしまい、依頼が来ても”私ができることなんて、自分でできることなのよ”と、無料で技術や知恵を提供して終わりにしてしまうようになったそうです。

そうやって、何に対する願望もすっかり消えてしまった中で、お母さんの体調が悪くなり、介護をするようになりました。そこから近所のご老人にも頼まれ、お世話をするようになって、結果的にそれが仕事のようなものになった、といった具合でした。

真実が深く根を下ろしていたところに、無私無欲の生活を送るようになったためでしょうか(真実は無私無欲だから同じではありますが)、彼女は思いやりに満ち、機転が利いて、そばにいると楽しいばかりでした。


そして1年後、数週間前、やっと彼女にまた会えて・・・

出発直前にお母様が怪我をしたので、たった一晩しか彼女と一緒にいることができませんでしたが、あの充足感を、言葉では表現できません。


さて、書けるかな?

つづく。

2016年8月23日火曜日

まっすぐで、透明な(2)

その後特に彼女と会う機会はありませんでしたが、彼女は私の中で、どちらかと言うならそんなに会いたい人ではなく、カーリーが私のある経験を彼女のものと関連させた時も、”彼女と一緒にされたくなーい!”、というのが私の反応でした。養成コースで目撃した彼女の変化はすごいと思いましたが、彼女に苦手意識がありました。


それがまったく変わってしまったのは、私自身の教師養成コースの時です。


教師養成コースには、ほとんど毎日、いろんな人の出入りがあります。
リトリートに参加する人、お手伝いに来てくれる人などです。

最初の頃は人の出入りを楽しんでいたのですが、毎日昼夜を問わない瞑想を続けるうちに、だんだんと神経が研ぎ澄まされていき、人の騒音にやたら敏感になってきました。

目につく人が瞑想しているかしていないかー”それ”に心が向いている人と、頭の声に同一化している人の違いが、はっきりわかる。
”それ”に心が向いている人を見るとその美しさに吸い込まれ、頭の声に同一化している人のそばにいると、それが騒音のようにあたり中に響いているように感じられ、肉体的に”痛い”と言っていい感覚を感じる、と言った塩梅でした。


まぁ実際、私たち誰もが程度の差こそあれ、お互いの状態を常に自然に察知しているわけで、これは何も特別なことじゃないですよね。



さて、彼女が登場した瞬間、私はその静かで大きなフィールドにハッとしました。

まだちょっと残っていた苦手意識を押しどけて話しかけてみて、彼女のあけすけさ、あどけないと言ってもいいような可愛さにびっくりしました。かつて感じていた重さなど、見つけることができませんでした。


彼女は1ヶ月滞在して、料理を担当してくれたと記憶しています。私はキッチンの横のリビングで瞑想することが常だったので、キッチンからの物音、話し声は常に聞こえていました。彼女のほんわかした声が大好きでした(今でも思い出して、頭の中で聞くことができます ^^ )。

一度に35人分の料理を作るのは結構な重労働ですし、あると思っていた食材がなかったり、予定より料理に時間がかかったり、ということはままあります。
人によってはストレスでカリカリしたり、パニックを起こしたりします。そういった状況で急かされたり、強いトーンで質問されても、ただの一度も彼女の声にストレスの響きが混じることはなく、のんびりとした穏やかな対応は、一切変わることがありませんでした。


自分自身の養成コースを終えて、私たちのコースを訪れた人たちを見回すと、人によって静けさや騒音の程度・状態に変化があるのが見受けられましたが、彼女の安定度は見事で、料理の時のみならず、滞在中どんな物事にも影響される様子がありませんでした(彼を叱るときも・笑)。

コースを教える時は、何一つ派手なところがなく、ただ淡々と、正確に進めていっていました。


彼女に尊敬の念を抱かずにはおれなくなりました。


今思い返してちょっと笑えるんですけど、彼女は当時、”最近ただ生きるのが忙しくてアセンションしていないの。”と話してくれました。”一度に一つのことしかできないの。ここ3年はアセンションのことしか考えてなかった。でも今はお母さんの世話が忙しくて、それをただしながら生きてる。でも人生はすごく完全よ。”

彼女の言ったことがおかしかったわけじゃなくて、それを聞いてちょっと内心オロオロした、自分を思い出して笑ってしまいます(笑)。そもそもアセンションしてなくちゃいけない、何て思う方じゃないのに、まぁ、教師養成コースという、特殊な環境にあったからですね。



彼女が手伝いを終えて帰る前の晩のミーティングで、彼女に感謝を伝えるとともに、改めて彼女自身の経験を聞いてみました。彼女はいつもどおりあけすけに、オブラートに包むようなことも一切なく、自分の経験を話してくれました。それが”愛の出し惜しみ”に書いた話です。(彼は彼女の隣に座ってました ^^ )

彼女の言ったことを本当に理解できたのは数年後ですが、彼女が話していた時の空気、そのリアルさ、本物さに、身動きできない思いで聞いていました。


つづく

2016年8月19日金曜日

まっすぐで、透明な(1)

我が師カーリーが主宰する各種コースに参加すると、この瞑想を通して知り合った友人たちにあちこちで、様々なタイミングで再会します。先週末は”愛の出し惜しみ”で書いた友人に、久しぶりに会えました。

この瞑想を通して、これまで素晴らしい人達に出会ってきましたが、彼女は私の中でちょっと特別な位置を占めています。

私の知る友人たちの中で、彼女は私にとって最も透明な人であり、最も真実を生きている人です。

初めて出会った8年前は、彼女のことをこんな風に思う日が来るなどとは、それこそ思いもよりませんでしたが(笑)。

初対面の日に”あなたは神を見失ってしまっている”とか言いながら追いかけられた経験があり、”うるさい!”と怒鳴ったような・・・相当うざったいと思った記憶があります(笑)。

その1年後、彼女自身が養成コースに参加しました。

私はリトリートに参加して、たまたま彼女の大きな節目となった体験の一つに居合わせました。

彼女はコース参加者の誰よりも長時間、毎日瞑想していたようですが、その自負心は相当なもので、他の人をだいぶん見下してもいたようです。
そんな態度をミーティングで皆に批判された彼女は、すかさず一人ひとり指差してお返し発言をした挙句、最後に”私がこの中では一番アセンションしてるんだから、ふん!”と締めくくりました。

あまりのエゴに、居合わせた人全員の口があんぐり開きました。

養成コースの指導をしていたカーリーとバガバティは、ショックもあらわに”そんなエゴを抱えて教師になることは、間違ってもありえないわよ”と彼女に言いました。
他の仲間もまた彼女を批判し始め、騒然となりました。

私はこの時点では、彼女に何もネガティブな感情を持っていませんでしたが、ああ、この勘違いはちょっと痛々しいな、と思いました。そこでちょっと遠慮しながら、”私たちは、優越感を得るためにアセンションするわけじゃないよね”と言いました。

教師でも何者でもなかった私の発言を、彼女はなぜか、静かに、素直に受け止めました。

私の言ったことが彼女を変えた、とかではありません。ただ彼女が、この騒ぎの最中のどこかで、エゴと向き合う決意をしたのだと思います。
そしてその後、引き続いて他の人が彼女への不満や、傷ついた気持ちを表現するたび、彼女は黙って、それを受け止めようとしていました。

彼女の中の深い抵抗と、それを無理やりねじ伏せようとしているのが、はっきりと見て取れました。あたかも鉄の分厚い、重たいドアをジリジリと強引に押し開けていっているかのような・・・それが目に見えるかのようでした。


そして彼女の中の、”私が一番正しい、他の人はみんな間違ってる”的なものが落ちました。


見事でした。



私にとって相当印象深い出来事でしたが、これは前回書いた彼の事件が起きる前のことです。

2016年8月3日水曜日

インスピレーションの有効性




私のやっているイシャヤの瞑想のコースでは、

”私たちが言うことを信じる必要はないですよ”

ということをよく言います。ふ〜ん、そうなんか、と思ってくださっていいですが、私たちが言うことを鵜呑みにする必要はまったくないし、むしろしてはいけませんよ、と。

私たちは自分の経験を話しているだけ、皆さんはそれぞれの経験を持って、
自分にとってどうなのかを発見していくことなのだから、と。

同じことを私の師カーリーは、”情報は実際に瞑想をするための助けでしかない”、
という風に繰り返し言います。

教師養成コースの中では、さらに進んで、”インスピレーションはより(この場合は)アセンションするためのものでしかなく、各自がよりアセンションする結果になる限り有効であるけど、実際にアセンションすることに取って代わるものではないのよ”と強調します。

教師養成コースでは、ニサルガダッタ、ラマナ、ダグラス、アンソニー・デ・メロ、アディヤシャンティをはじめとし、様々な著書が用意されています。こういった素晴らしい人たちの本は、大きなインスピレーションをもたらします。

そして新しい発見、新たな気づき、さらなる打開があった時、私たちの心は高揚します。

新鮮さ、美しさ、豊かな創造性に触れた時、私たちの心は全開に開かれ、高揚します。至福を体験することも多々あります。

ただ、この高揚感は、”それ”そのものではないんですね。

”それ”に触れた時(思い出した時)の副作用(経験)と、”それ”そのものは、同じではない。

心が開かれたその一瞬には、真摯な目覚めがあります。しかしその一瞬あと、一瞬より素早く、マインドが”その経験”を捉え、解釈し、言葉に、形に、概念にします。その絶妙な機能は賞賛に値します。

一旦形になったもの、言葉あるいは概念、感覚でもいいんですが、捕えられた感触を、私たちは繰り返し味わい、眺め、それが”それ”だと思って温めます。

実際はどうかというと、”それ”は私たちが最悪の状況を経験している時も、最上の経験をしている時にも変わらない、まったく同じものなんですね。

でも経験や関連する感覚を”それ”だと思うと、その高揚感を追い続けることになる。

インスピレーションを堪能するのではなく、それを受けてすぐに視線を”それ”に移す。
インスピレーションをすぐに捨て去って、自分で見てみる、ということです・・・ので、抵抗あったりするんですね(^^)。ああ、こんな美味しいものを捨てるなんて〜〜

でも他人の言葉の中に、他人の経験の中に”それ”が見つかることは決してありません。
匂いはするけど(笑)。
その匂いを嗅ぎつけたら即、元を辿るのがかなめの部分なんですね。

インスピレーションはたとえどんなに美しくても、”動き”です。
高揚感、至福も”動き”です。来ては去っていきます。

それを超えて、それを豊かに存在させているものに目を向け続ける。
中身に関係なく、一切影響を受けることなく、普遍であり続けるものに目を向け続ける。

インスピレーションはその手前まで、私たちを運んでくれます。
最後の一歩は、私たちが自分でとります。