2017年12月20日水曜日

虚空


”意識を越えようとするのではない。存在とは何か、ただ認識し、理解すればいいだけだ。”

”存在、意識、が神であり、生命の躍動とマインドの働きを観照する。それは干渉せず、ただ観照する。”

ニサルガダッタ・マハラジ

(観照とは何か、については、OSHOの言葉を引用しているこのブログがお勧めです。)

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なにもない虚空にしか見えないものに、ただ視線を置き続ける、というのはなかなかできることではありません。

しかもそれを常に行う、というのは並大抵なことではできません。

生命は動きですし、刻々と変わり続けるマインド / 思考の多様性、感情の上がり下がり、種々の身体・直感等の感覚は、味わい深く楽しいものです。真正直に観察するなら、私たちは苦しみや惨めさすら味わい、楽しんでいることに気づくでしょう。

生きることの醍醐味は、この飽くことない変化と多様性だと言っても過言ではありません。

それでもその楽しみのすべてを捨てて、それを味わっている本体はなんなのか、生命と呼ばれているものの本源なり、私というものの正体なりを突き止めようと思っちゃったりする人がいるわけです。

あなたが運悪く(あるいは運よく)、そんな人の一人だった場合、好むと好まざるとに関わらず、どこかでそちらに目が向くことになります。

求めているものが虚空のようにしか見えないことを、最初から認識して取り組んでいる人は稀でしょう。

エゴをおおむね卒業し、不安定なマインドに成熟が訪れるまで、様々なダンジョンを通って変化=経験をいくつも味わい、追い続け、楽しむことになります。

途中にはなんども真の目覚めがありますが、そこに目を据え続けることができる人は、これもまた稀です。

真の目覚めの反映である経験、どんな結果が得られたか、人になにを話せるか、に大抵は一瞬で心を奪われ、同じゲームの次のステージを目指します。

やがてどこかで運よく成熟が訪れた場合、すべてのゲームを完全放棄する決意が、どうしようもなくやってきます。

きっぱりと。

しかしこのきっぱりとした決意・覚悟の後ですら、マインドは揺らぎを止めることはありません。

でも正しい場所に視線を据え置き続けるなら、マインドの揺らぎをただ観照するようになります。

その動きと、不安定な性質をすっと認識するだけ。

そういう、本当にニュートラルな土壌にただあること、ニュートラルな土壌であることにだんだんと馴染みが育って行き、なお目を向け続けるようになる頃には、視線の発信源がないことがはっきりしています。

目を向けている元は限りない場そのものであり、特定できない。
目とは呼べない目が認識している対象、あたり中に常に広がるものもまた、特定できない。

五感でも、六感を通してでもなく知っているものを眺め、確かめ、研究し、そのつかめなさに身を任せていると、ふいに、

あ、

という瞬間があります。


あ、そっちが自分だ。


完全に疑いようのない、本体と知識の合体・一致があります。

天国の鐘がなることもありませんし、天使が舞い降りたり、いなづまが走ったりすることはありません。
恍惚もありません。

むしろあっけない、非常にそっけない、

なんだ、そっか。

というくらいのものです。

翌朝・翌日にはむしろ、それを特別化しようとするマインドの猛攻撃にあって、あのあっさりとした、しかし疑いようもなかった認識がどこかに消えてしまったような、なくなってしまったような気すらするでしょう。

ここであっという間にやめたはずのゲームのダンジョンに戻るか、淡々と目を向け続けるか、どちらが起きるかはその地点でのマインドの成熟度によります。

あなたの中の馴染みが強く育っていた場合、どんなに頭の中や心の中が沸き立っても、全く新しくまた目を向け続けるーわかる、わからない、といった思考に惑わされず、ただ目を据え続けることになります。

静けさに、どうしようもなく惹かれ続けることになります。

それだけをまっすぐ示してくれるものを察知して、それを指標にしつつ、ただ目を向け続けることになります。

恐れを超えて、自分のすべてが飲み込まれるままになります。

2017年12月18日月曜日

確認する


散歩中に、雲ひとつない真っ青な空を手や指で切り取って眺めます。
なにもない、ただの青


視界に奥深く広がるなにもなさに、それを眺めている側が同調し、思考を紡ごうとする動きが停止します。

からっぽさだけがそこにあります

首の疲れを感じた体が自然に頭の位置を戻し、目線が元の高さに戻ると、青と共にあった透明なものが、空からそのまま目の前まで、途切れることなくあるのがはっきりします。
それはあたり中にあります。


”すごい、これ。思考止まったわ。家に帰ったら座ってもっとしっかり眺めよう”とか、
”毎日やって見よう”とか、
”昔は空をよく眺めたよなぁ”とか、
いろんなコメントが沸いては去るままにします。


会話に参加する代わりに、なにを通してそれを認識しているのか、身体感覚のひとつ一つをじっくり確認します。
匂いはあるか
触れることはできるか
目に見えているのか
聞こえるのか
味はあるのか

結果を見ようと素早くチャチャっと片付けるのでなく、本当にしっかりと確認するなら、おそらくたった一つの感覚を1秒試しただけで”世界”が消えます。

次の瞬間、
”怖い”とか、
”すごい”とか、
”なんだったんだ”とか、
”なんだ、なんでもないじゃん”
”なにも起きないじゃん”
といろんな感想が湧いたり、
ただびっくりしたり、がっかりしたり、
”ふん”と鼻で笑ったり ー すべて起きて去るままにします。

感想を感想文に広げず、意見に賛同も反対もせず、
起きたことを反芻せず、対応しようとせず、
自分にどういう影響が出ているか探そうとせず、

ただ、なにを通してそれを”知って”いるのか見てみます。


なにも特別なことなどない、淡々とした作業です。


ただなんども、なんども、試しに”自分で”確認してみるだけです。

2017年12月2日土曜日

科学の視点から現実を見ると、、、

11月27日、バーナデット・ロバーツが亡くなりました。
ちょうど毎日彼女のビデオを勉強していたところで、彼女の死の翌日舞い込んできた訃報は、私にとって大きなショックでした。

彼女は生涯、研ぎ澄まされた目を持って”それ”を見つめ続け、あらゆる宗教的文献を勉強し続け、自分の経験を記録し続けました。彼女の著作は非常に密度の高いものばかりです。

もう一度会いたかった、という思いと、彼女が残した軌跡への深い感謝を日々感じています。

日本語に訳されているものは下記にリンクを記しますが、自費出版された本やビデオは、彼女のサイトからのみの購入となります。リンク(すべて英語。印刷できる記事も2つほどあります。)

バーナデットはもともとカトリックの修道女だった人なので、キリスト教を枠組みにした話が多く、キリスト教の話をしているような印象を与えることも多いのですが、唯一なるものを見つめ続けたのであって、神父でも宣教師でもありません。反キリスト教の印象を与えることすらあります。

「’神’という言葉は本当は使いたくないのよね。」などという発言がポロリとこぼれることもあります。当然と言えば当然ですが、ニサルガダッタ・マハラジを読んでいると、まったく同じことを言っていることも多々あり、おおっ、そりゃそうだよね、などと思ったりします。

うちなる静けさ、あるいは外、自然の中にある静けさを経験から実感している方々は、自分の経験をより明晰に描写するものとして、味わえるかもしれません。

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さて、私は科学や物理学に精通しているわけではありません。が、科学の視線から描写される現実や意識の研究の話を聞くのが結構好きです。

自分が現実と思っていることが、実際には架空のものである、ということを科学の視点から聞くと、なかなか”おおっ!”という感じのものがあります。

そして意識に関する、生命に関する真摯な研究がみな、知ったかぶりせず、”わからない”というところに帰着しているのも好きです。

日本語字幕のものがほとんどなかったのですが、日本人の方のビデオで楽しめたものを二つほどご紹介します。

興味があったら以下どうぞ。