2018年12月20日木曜日

祈り

一番最初のポストに書きましたが、私は小さい頃から神様が好きでした。
いろんな神様がいることを知って、知っている限りの神様をカバーすべくお祈りしたので、毎晩とても忙しかったです(笑)。

子供の頃の祈りは、もっぱらお願い事、頼みごとでした。
『神様、これください。』
『明日晴れますように』
『これこれがママにバレませんように』←めっちゃ大事でした(笑)

やがて”後ろの百太郎”の入れ知恵で、お願い事は一方通行ではいけない、ということを学び、お祈りは交渉の色合いを帯びていきました。

『ちゃんと勉強しますので、これこれを叶えてください』
『もっと真面目になりますから、これこれが起きないようにしてください』

交渉はうまくいくときもありましたが、とても大事なことが叶わなかったので、私は神様に怒りを抱えるようになりました。

2018年12月17日月曜日

ヒロさんへの感謝

アメリカ時間の昨晩、resonanz360のヒロさんが、ブログ更新停止という案内を出されました。

ヒロさんと、ヒロさんのブログには本当にお世話になったので、おっしゃっていることはとてもよく理解できるながら、残念な気持ちは否めません。

もう5年前になりますか、トニー・パーソンズが縁でヒロさんのブログを発見したのは。

ヒロさんの旅を読むのも、いろんな人について知るのも、読書やコーヒーの話も好きで、
毎回更新を楽しみにしていました。

ブログから伺える人柄がとても好ましくて(実際にお会いしても、とても楽しかったです)、探求の旅も読み応えもあり、楽しい限りだったんですけどね。

背後霊とか先祖霊とか関連ではない、ハードコアなスピリチュアルブログとしては、日本語では初めて見つけたもので、本当に嬉しかった、ワクワクしたのを覚えています。


2018年11月20日火曜日

目覚めの報酬はない

目覚めることには実際のところ、ご褒美はありません。

確かに、かつて”私”中心で生きていた(エゴ主体で生きてきた)時に比べると、
人生は自然に流れ、格段に楽だと言えます。

ただしそれは、辛い思いをしないのではなく、
不快なことが起きないのでもなく、
むしろただ、不快なままでいられる、というに過ぎません。

私、私の感じること、私の満足感、といったものの重要性が
限りなくゼロに近くなっていくことで、
自分の体験の質やら、感覚やらが大事じゃない、
よくても悪くても大事なことと思えなくなる、というだけです。


2018年11月18日日曜日

夢を見ている主はいるのか


もし私たちが正直に、じっくりと、ありのままを観察するなら、

私たちは刻々と変化するものの複合体・集合体であり、
身体も、感覚も、思考も、環境も、
私たちにまつわるものはすべて、常に変化していることに気づきます。

刻々と変化するものは現象であり、実体がある、とは言えません。

かろうじて言えるのは、”今起きている”、ということだけ。
私たちが私、と呼ぶものは、
それが身体でも、感覚でも、思考でも、感情でも、
今起きている状況について、かろうじて、

”こういう感じがしてる”

と言えるだけ。

しかもそれは、捉えた時にはすでに過ぎ去っており、
ましてや口に出す時にはとっくの昔に終わっています。

だから実際には、その曖昧さといったら例えようもないもので、
”今こう思った(・・・と、思う)”
”今こう考えた(・・・と、思う)”
”今こう感じた(・・・と思う /思ったんだけどね・・・)”

ぐらいの頼りなさです。
もし、自分をしっかりと、はっきりと観察するなら。

意識、気づきですら、現象であることに気づきます。


2018年10月30日火曜日

変わるものの話じゃなく


”私”たちはたゆみなく変化する要素の複合物です。
体、
感情、
感覚、
気分、
意見、
思考、

等、諸々を含めた”私”の経験は、日々刻々と、瞬間瞬間変化します。

常に変わりゆくのが性質であるものを変えようとすること、ある種の状態や形にとどめようとすることには、一切意味がありません。

・・・が、私たちのほとんどが、どれほどの時間とエネルギー、労力をそれに費やしてきたでしょう。
あるいは今も費やしていることに気づくかもしれません。

”こんな私になりたい”
”こんな癖を直したい”
”こうあるべきだ”
”こうあるべきじゃない”
”人間関係を改善したい”
”生活環境を改善したい”

でももし、私たちの興味が存在としての本質を知ることであるなら、

あるいはすべてのものの変化する性質と、変化するものを操作しようとする努力の無意味さに、賢く本当の意味で気づいたら、

あるいは単純に、”私”のゲームに十分に疲れたら、

変えることへの努力を一切捨てて、これまでのあらゆる努力の間、まったく変わらないでいたものは何か、というところに目を向けます。

色々な人が、どうやったら”私”を変えられるか、”経験”を変えられるか、様々なアイデアやテクニック、思想を教えてくれますが、

時間を無駄にしたくなかったら、
エネルギーを無駄遣いしたくなかったら、

変化ではなく、不変のものを指差してくれているものだけを探します。


だって実際のところ、いつまでも生きている保証はないんですから。


この限られた体としての存在、経験の中で、
あなたがたった一つ求めているものはなんでしょうか。

たった一つだけ、知っておくべきことはなんでしょうか。
たった一つだけ、実現したいことはなんでしょう?

それを突き詰めよう、と思っても、
じっとそれと向き合うことができないのはなぜでしょうか。

どんな言葉や経験に深く心を打たれても、
そこからどんな強い決意をしても、
次の瞬間に、数時間後に、数日後にー
いとも簡単にまったく違う方向に流れてしまうのはなぜでしょう?

”私”は変化する媒体でしかないからです。

その変化と経験を、いつも認識しているもの、に興味があったら、
動くものへの興味を諦めます。


2018年10月4日木曜日

静寂、あるいは沈黙の軌跡

最近、バーナデット・ロバーツの”The Path to No-Self"(邦題:『神はいずこに』)を読み終えました。

チラチラとほぼ全体を読んではいましたが、これまではつまみ食いで、初めから終わりまで通して読んだのは、今回が初めてです。

改めて、素晴らしい本でした。

バーナデットは、Silence(静けさ、静寂、沈黙)を表現し続けます。

その表現は非常に的確で、彼女の最初の本、"The Experience of No-Self"(邦題:『無我の経験』)の冒頭で彼女が言ったように、様々な種類・レベルの静寂に、深く馴染んでいるのが伝わります。

これにはもちろん、彼女がカルメル会の修道女であったことも、彼女の子供の頃からの体験に加えて大きく関係します。カルメル会は祈りと観想(あるいは念祷)に、重きを置いています。

”もし私の観想の経験を軌跡とする道があったとしたら、それはこの、限りなく広がり、深まり続ける沈黙(静けさ)の道であったでしょう。”

わかりづらいかと思いますが、

献身を通して目覚めに至る道、
ハートを通して目覚めに至る道、
知恵を通しての道、
聖者の道、

云々、というのを、きっとどれか一度は聞いたことありますよね?
自分が目覚めに至った歩みを表現する道があるとしたら、それは限りなく広がり、かつ深まっていく静寂(沈黙)の道であった、と言っているわけです。

はぁ・・・美しい。


すべてのものの背後にある、”それ”を表す表現を思うとき、

学生時代に遠藤周作の『沈黙』にとても強いインパクトを受けたので、
私は沈黙、という言葉は好きです。

状況によっては、重たい印象も浮かび得る言葉ですが、私にとっては’沈黙’、という言葉に連動して、小石を静かな池や湖に落とした時のような静けさが、自分の内に波紋のように広がります。

外に広がるというよりは、内に沈むような動きです。


’静寂’という言葉に比べると、’沈黙’は誰かが黙っている、誰かが口を閉ざしている、
という、背後に行為者の印象を与えますが、

言葉をきっかけに、それが指してくれている先に、限りない、深い静寂に身を任せると、
’沈黙’、という言葉の後ろに暗示されている’行為者’が、即座に消え去ります。

内に向かった動きも、方向性や焦点を失って何も残りません。


’静けさ’とか’静寂’はどうでしょう。


何か音を立てていたもの、音を立て得るものが静まっている印象を受けます。
静けさや静寂には’動’や’音’の予感を感じます。

”それ”が孕んでいる生を匂わせる表現です。


沈黙、あるいは静寂には、環境的なものもあります。

なかなか気づきづらいのは、”音(動き)の中にある静寂・沈黙”です。

音や動きがあると、私たちの注意はそこにいくのが普通ですから、その周囲に変わらずあるーまたは、音を可能にしている静けさは、見過ごしがちです。

これは環境的な音でも、頭の声でも一緒です。

瞑想を始めたての頃は、周囲がうるさいくて集中できなかった、思考が湧いて集中できなかった、瞑想できなかった、

なんてよく考えますよね。

でもほんのひとたび、音を可能にしている静けさの存在を指摘されると・・・

簡単にその静寂に、”視線が合って”しまう。

この沈黙は人工的なものではなく、すべての生命を孕んでいるから、
どんな嵐の真っ只中でも消えることはないんですね。

一度思い出すと、視線は簡単に戻る。
それが本来、自然なことだから。



限りなく深まる沈黙・静寂に彼女と共に身を浸していくような、本当に贅沢な時間でした。

2018年9月6日木曜日

当たり前の発見

教師養成コースの会場だった場所からのある日の眺め。


”ここで私たちにあるのは、成功の物語ではありません。統合意識で生きる人生には、なんの栄光もないでしょう。”
バーナデット・ロバーツ


”それ”を思っても見なかった形で認識して、衝撃を受けたのですが、
その衝撃を表現する言葉もなく、すべもなく、なにに衝撃を受けたと言うこともできず、ポツンと取り残されていました。

衝撃、というのさえ、正確とは感じられず。

しばらくして、なにかの拍子に道教にちょっと触れる機会があって、
(英語でTaoとは散々目にしてきましたが、これまで惹かれなかったので、まったく調べたことがなかったのです。)

見てみたら・・・あれ?私が中学の時、せっせと小遣いで買って読んでいたのは、道教の本だったのね、とちょっと驚きました。(ええ、そりゃあもう、マニアックな中学生でした(_ _;)。)

そしてかの有名な老子の本には、私の体験をはっきり描写してくれている箇所がありました。表現も、ぴったり。

なるほど、、、、そうだったのね。自分には結構深い道教の影響があったのね。

なんて思いつつベルナデット・ロバーツの本に戻ったら、やはり同じく私が経験したことが、ものの見事な明晰さで表現されていました。

ああ、さすがバーナデット、すごい。

と感謝の気持ちに包まれ、久しぶりにニサルガダッタを手に取ってみたら、
ものすごいパワフルさで、私が経験したことが描写されていました。

ウォッ・・・


・・・・・・・あれ?



そうだよね、みんな同じものを表現してるんだから、共通で見つかるの、当たり前だよね、

と、当たり前すぎることに気が付いて、自分で自分を笑ってしまいました。

2018年9月5日水曜日

Life of my friend


B passed away about 2 weeks ago. She had fought with cancer for 3 years.

She was a warm, witty, sweet woman. Her warm, sweet appearance - or air, often deceived me :) She was funny - in a very unexpected way. She caught me off guard many times with her witty comments.

B messaged me 2 weeks before she passed away. She was going to a meditation retreat, which I wasn't planning to attend. She said she couldn't drive by herself anymore and her friends were going to give her a ride. But she sounded light and cheerful as usual.

A week later, I ended up going to the retreat and she didn't make it.
Her close friend, who stopped by at the hospital to originally pick her up expressed her deep concern for B at the retreat - about B not being able to speak up for herself in regards to her treatment, and her missing friends and hugs. So I went to the hospital to see her.
I wouldn't be a help with verifying her medical treatment but I could cuddle her and chat - I thought.

Warm, witty B - that's whom I expected to see.

I walked into her room and "she" wasn't there.

Her body was there but "she" wasn't there. She was unconscious.
I felt like I was kicked in my gut.

Her sweet husband told me that she would respond if I try hard but I didn't feel the need to get a response out of her. I sang a song we sing at the meditation retreat, and chatted, just like I would if she was awake.
.
She came back, smiled several times responding to my story and tried to say something, which I couldn't catch. Then she would fade out again. She repeated that several times.

A nurse came in and gave her a drug, which put her to sleep - so I left.

I sent a text report to my friends who asked me to do so, went back to my car and tears and crying bursted out. It just happened, went on for a few minutes...and it was gone. I started my car.

I drove a while to a Starbucks and realized that that storm of energy was settled - enough to be able to think a short phrase we use for meditation. I was grateful to that phrase. I went back on the road to home.

***

B passed away that night or the early morning of the next day.

Next week or so, I kept feeling the pain in my heart and kept having some unsettling feeling.

It was my second time within a year to witness someone transitioning from what we call "life" to "death", from our life on the earth to moving towards the end of it.

Last time, I wasn't close to the person. I sensed her spirit in the room - sensed her strong presence, desire to stay, which could have been all just my projection.

It was completely different this time. I touched and sensed her body becoming cold. I didn't sense B's spirit. Instead of an individual spirit, I sensed the life force, which animated someone we called B.

As it released the hold of her body,  it, the life force became apparent. Its completely non characteristic presence was prevailing in the hospital room, in front of the machines, around B's bed and body - everywhere. It was like all the density was defused into the air, revealing itself.

It struck me as the fact that there never was B.
It was this life force, animated her personality, moved her body, made the sensations to be felt, moved her awareness---animated the whole being and functioning. And in the presence of that life force (for not having better naming at this moment), what we do means nothing. Personality may feel comforted by a song or a word or meditation or healing....but not the life force.

And it is the same force, which is animating what I consider to be me.
There never has been me. The same life force is currently animating this being and functioning.

That non-present presence of the life force---impossibility of describing, catching, scaling, defining, categorizing, (anything!)---jolted me and left me in awe.

2018年8月5日日曜日

目をさます

ダウンタウンナッシュビルの格好いいビル
写真はちょっと前に行ったナッシュビルのダウンタウン。
そこそこ近いので何回も行ったことあるのですが、ダウンタウンに
行ったのは初めてでした。

音楽の街とは聞いていましたが。
いやはや、毎日街中にゴマンとあるミュージックパブで
生演奏が延々に夜中まで。。。

すごかったです。

********

”目覚める”、”覚醒する”、”悟る”、
なんでもいいのですが。

本当に”目を開けよう”と思うなら、そもそも”目覚める”とか”覚醒する”とか
”悟る”というのがどういう意味なのか、しかと自分に聞いてみる必要があります。

”本当にわかっとるんかぁ〜?”
”わかってるんならどういう意味か、自分の言葉で言ってみ、ほら!”

と、とことん自分に詰め寄る必要があります。

他の人は知りませんが、私にとっては避けがたいことでしたし、今もそうです。

むしろ前よりそう。

そもそもは本とか、他の人の言葉に”ええっ、それっていいじゃ〜〜ん!”
とか思ってピタッと張り付いちゃっただけ。

次から次へと目にした、耳にした言葉や概念を取り入れてはその上をなぞってきただけ。
お気に入りの歌を口ずさむように、”悟ってる人の言ったこと”を復唱してきただけ。

”正しい”とされること、多数の人の支持を受けている流行りがあると、
自分もそれに沿っている、”わかってるよー!”ということを証明しようとしたり。

ーこれは幼いマインドにはどうしようも無い、条件反射です。
スピリッチュアルだろうと、非二元だろうと、ファッションだろうと
ただの意見だろうと、カテゴリーは選ばない、おんなじ条件反射です。


よくわかんないけど、良さそうな響だから。
絶対賛成!


結果、めくらめっぽう取り込んでいった、”いい感じのもの”が、
自分の中にはチリの山として積もっていました。

チリの山を掃いて、かき回してみたら、それ以外何もなくて、
愕然としました。

恐怖を覚えました。


本当に知るには、徹底的に自分に問いただしてみる必要があります。

本当に知るには、徹底的に”自分の経験”に照らしてみる必要があります。

I am ”私はある”、だけに意識を向けなさい、と有名なインド人は言ったけど、

ちょいとおまち。

そもそも、意識ってなによ?

私の感覚ではどれよ?

意識って言葉を無視して、自分の実感で言ったらどれよ?

で、これは一日の中で、どうなってるわけ?

寝てる時は?

夢見てる時は?

起きた時は?

ご飯食べてる時は?

人と喋ってる時は?

白昼夢みてる時=妄想に流されている時は?



本当に知ろうと思うなら、

ちゃんと自分で確認できます。

誰も邪魔する人はいません。

四方八方どこにも、障害はありません。


本当に知ろうと思うなら。


2018年6月23日土曜日

”私”

上部にお花が咲いてないのはすでに散ったからか、
まだこれからなのか・・・
白いバージョンは満開なのに。謎。

アメリカ南部は日本に似て湿気が高く、四季らしきものがありますが、
違いは春と秋が超短いこと。雨はガンガン降るけど、梅雨がないこと。
完全な真夏日が続いています。

日本も相当暑いみたいですね。

********


”私”、という観念がまったくなかった時期があります。


”私”、というものを自覚した時期があります。


”私”を必死に探した時期があります。


”私”のイメージを打ちたてようと苦労した時期があります。
 

”私”、とはこういうものだ、と思い込んだ時があります。


”私”に陶酔した時期があります。


”私”を向上しようと、必死に努力した時期があります。


”私”に絶望した時期があります。


”私”がすっかりわからなくなった時期があります。


他の人がいう”私”を信じようとした時期があります。


”私”を消そうと努力した時期があります。


そもそも”私”とはなんなのか、自問した時期があります。


”私”を捨てようとした時期があります。


”私”がいつもあるものでないことに気づいた時期があります。


”私”を忘れてることに気づいた時期があります。


”私”でも、”私”でなくても、よくなった時期があります。


そして

・・・・・・・・



”私”がすべて、
”私”がすべてを動かしている、コントロールしている、
と、思ってましたもんね。







そうでなくなるまで。

2018年5月25日金曜日

青い空、青い海


日本での素晴らしいコースを終了し、その報告をすることもまだままならならないまま、
帰国からはや1ヶ月たってしまいました(^^;)。

唐突ですが、ハワイに来ています。

素敵なバケーション!・・・ではなく、父のサポートです。

フリーツアーを使ったとはいえ、79歳にして初めての海外ひとり旅。
ホテルのエレベーターから部屋までの間に見事に迷子になる様子を見ていると、
バッグに今入れた鍵やパスポートが見つけられない様子を見ていると、
バス停からホテルまで、迷子になりながら片言の英語で、よく一人で到着できたと感心します。
えらい!父様、よくやった。

そんなわけで、父に代わって用事を済ませるべく、足にマメができて潰れるほど、ワイキキの街を走り回ること3日。
明日はようやく、飛行機3回乗り継いで、家に帰ります。
ハワイはやはり、日本からの人で溢れてますね。


父の手助けの合間に、浜辺でアセンション。
たとえちょっとの間でも、気持ちいいものです。

*****

そしてその、アセンションのコース。
本当に素晴らしいコースでした。

新しく習って下さった方、再聴講に来て下さった方、
皆さんのおかげです。本当に感謝してます。

今回はmatureなコース・・・落ち着いたコースというのも、
大人なコースというのもちょっと違うんですが、なんというか、
参加者の成熟度が高めのコースでした。

私自身もそうでしたが、不思議なご縁で来てくださる方が多いんですよね。
面白い方が多くて、楽しかったです、とても。

なかなか頻繁に帰国することはできませんが、また日本でもアメリカでも、
再会できることを楽しみにしています。

*****

私の大好きな本が、日本語訳になったようです。
まだ読めていないので、日本語で読むとどんな感じかはわかりませんが、
それでも嬉しく思います。

2018年4月11日水曜日

成長のらせん5 〜夢見る力


”人というのはとても小さなものだ。実際それは合成物で、
それ自体で存在するとは言えない。気づかれていなければ、
それはそこにないのだ。
それはマインドの影、記憶の累計に過ぎない。
純粋な存在はマインドの鏡に、知っていることとして反映される。
知られたものが、記憶と習慣を元にして人の形を取る。
それはただの影、あるいはマインドのスクリーン上の、知
るものの射影に過ぎない。”

〜ニサルガダッタ・マハラジ
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間もなく日本に向けて出発。とても楽しみです。

イシャヤのアセンション、ファーストスフィアコースは引き続き受付中です。
ご参加お待ちしております。

情報、お申し込みはこちらから。

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私はもともと、超能力とかUFOとか、神秘的なものが大好きでした。
占いも大好き、珍しいもの大好き、特別そうなもの大好きで、どんなものにも
ワクワク飛びつき、集めていました。

物も、情報も、方法も。

アセンションを始めてから、なぜかそういう特別なことへの興奮が次第に、自然に
消えて行きました。

興味がどんどんなくなって、それでもあれこれ新しい”覚醒者”情報にはすぐに飛びつく
ようなところがあったし、
神秘体験、特殊体験をいつでも待ち焦がれて、目を見張らせていました。

”あ、なんか頭が変な感じ。これはもしかして何らかのシフト?!”
”ちょっと重心がずれて、めまいが続くわ。これはもしかして体が変換している?!”
”耳の奥で音がずっと聞こえてる。これは私の感覚が開いた?!”

やがてある時、マインドはとてつもなくパワフルで、
しようと思うなら、私の望む特別な体験を、いついかようにでも創ってくれてしまうのだ、ということが自分の中ではっきりとしました。

”私が望むなら、多少時間はかかっても、
私は必ず、私の目指した特殊体験を手にするだろう。”


あまりにはっきりわかってしまったので、そこで特殊体験への願望がすっかり終わりました。

創造できてしまうということは、できたものは自分の想像/創造であり、現実ではない。
そんな実存のないものに、何の価値もない。
少なくとも、私はそれには興味がない。

それは自分の中に突然訪れた認識、確信だけでしたが、のちにたまたま見たテレビ番組で、科学者たちが人間の、とてつもない”夢見る力”を語るのを、いくつも見るようになります。

”私たちは何も現実を見ていない。瞬時に予想で現実や未来を想定し、作り出している。”
というのが、科学者たちの発見。

色というものは存在しない。
直線が曲線に見える。
遠近感も視覚トリックで簡単に騙される。
記憶はまったくあてにならない。

もうわかってる、と思っていましたが、テレビを見ながら実際にゲームで体験してみると、どれくらい現実など見ていないかがわかって、さらにショックなものはありました。


”私たちは集団幻影の中で生きている”


と言ったのは、ニサルガダッタ・マハラジだけではありません。

そんな気づきの中から、”変わらないもの”にしっかりと目が向きました。

私たちの思考は、やってきては去ります。
感情も、起きては去ります。
体の感覚も同様です。
人生のすべての出来事も、同様です。

私たち自体が、生まれては死にます。

起きては去るもの、事、はすべて事象であり、事象は存在ではありません。
事象には存在(実存性)はありません。


ただの現象である”私”が、同じく現象である”私の感情”やら、あり方やら何やらを変えようとする。。。。不可能性ははっきりしています。

え・・・と、波が波を襲おうとしています、変えようとして(^^;)


夢見る力は私たちに与えられている贈り物だと思います。

でもまずは、実体が何なのかを知ってから。
遊ぶのはいくらでも、それからでいい。

というのが、私の中で湧いた思いでした。


そうして今も、日々、夢のまにまに現実が垣間見えるのを見つめています。

2018年4月9日月曜日

指針、あるいは支え


パワフルなので、迷いがある時、そうでなくても日常ついつい聞いてしまう、
読んでしまう人たちというのが何人かいます。

ジェッド・マッケナ
ニサルガダッタ・マハラジ
バーナデット・ロバーツ

この3名は私の定番。鉄板。

最近こそあまり読まない(聞かない)けど好きなのが、

U.G.クリシュナムルティ
バイロン・ケイティ
トニー・パーソンズ

ニサルガダッタ・マハラジの場合、クラシックとされている『I am THAT』は
ずーっと持っているのになぜかあまりはまったことがなく、
いつでも開いてしまうのは『Prior to Consciousness』。
あとはYouTubeのビデオに二つほどお気に入りがあって、
それをなんども見てしまう。ご飯食べたりしながら(笑)。
(キリスト教の僧院の一部では、食事のとき聖書や聖人の言葉とか読む人がいて、
皆、無言で食事しながらそれを聞くのが規則だそうです。ちょっとそんな気分。)

ジェッド・マッケナは本当に色々な意味で助けになってますが、未だ日本語訳が
出てないんですよね。
一生翻訳など許さないのでは、と思っていたら、最近数ヶ国語に訳されている
ことを発見。もしかしたら誰かが今、日本語に訳してる最中かも?!ーだったら
すごくいいんですけど。
是非とも上手に訳してもらいたい本です(トリロジーシリーズ、3冊あります)。

翻訳なんかは特にそうですが、誰かの会話や言葉を集めて監修した本とかいうのは、
紹介している方の視線を通して見ることになるので、紹介者の目線によって、
同じ人でもまったく違う印象を受ける、というのはありますよね。

例えばマイスター・エックハルト。

ヒロさんのこの記事で読んで、その深さにすごく打たれ、ブログページを携帯に開けたままにして、何度も何ども読んでいた時期があります。歯医者さんで、お店屋さんで、空港で、仕事場で。。。

アメリカ人と話すときのために、英語のものを一生懸命探したりもしたんですが(ヒロさんに”原文を探しています”とか言っちゃって。原文はドイツ語だってーの。英語も訳だってば!恥)

そうして見たら、マイスター・エックハルトは数々の美しい、有名な名言がたくさんあって、”ああ、この人だったんだぁ。” とても有名な方でした。
だけど正直、それらの有名な名言には、心惹かれたことがなかったんですね。

ところが今回、ヒロさんのブログの影響で探していたら、これでもか、これでもか、と心に深く響いてくるものが紹介されている。私のマイスター・エックハルトの印象がガラリと変わりました。
やっぱり紹介者の視線が、大きな違いを産むんだなぁ、と実感。

じゃ大好きな、もう何年もお気に入りのジェッドの本を訳してみたらいいんじゃないの、という発想もなかったわけではないのですが、、、

怠けもんなんでしょうね。
残念ながら、そういう風にcut outされていないようです。
(cut outはそんな形に切り抜かれていない、つまり向いてない、って意味です。)

”目覚めた人間の多くは、ただそのまま人生を生きていく。
それを表現すべく、労を尽くす者は稀だ。
鋭い表現力を持つものはさらに稀だ。
僕は今でも時々に、そんな表現が現れていないかと下界を覗く。”

というようなことを言ったのはジェッド・マッケナです。(上記は要約)

言葉にできないものを言葉にすべく労を費やしてくれた方々に、そしてそれを集めたり翻訳したりして紹介して下さった(下さる)方々に、深い感謝を感じています。


***********



2018年4月3日火曜日

成長のらせん4 〜わたしたちの実年齢


先週末はイースターだったので、卵にペイントしてみたりしました。

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教師養成コースに行くたびに、いつも驚いていたのは、

”参加者が全員どんどん若返る”
ということでした。

実際これは、教師養成コースでなくとも、アセンションのコースを教えていると、
ほぼ毎回気がつきます(宣伝じゃないので、安心して先をお読みください(笑)。
宣伝は最後に別途で設けています(^^)。)

たった3日間の間に、みんなの顔が子供に返る。

深い休息や、安心感がもたらす効果の一つです。

心身が休まって身体が若返る、というのは当然ありますが、
”あれをしてはいけない”、”こうあってはいけない”
と信じてきたことの数々を捨てて、あるがまんまの反応を自分に許すことが増えると、
子供のようなあどけなさや自由さが自然に顔に現れてくる、というのもあります。

さて、ここ2年は、それにちょっとした違和感を感じてもいました。
参加者はともかく、ボランティアをしている教師たちもみんな子供のよう。
60歳を超えている人も、22歳の人も、みんな実年齢10歳〜13歳くらいに感じられました。

いい、とか悪い、とかは一切ないのですが、何かが引っかかる。
なんなんだろう?
なにが引っかかっているんだろう?

そしてある時、ふいに腑に落ちました。

実年齢。


年齢と成熟度は同じじゃありません。
”大人”の振りをしているその皮を脱いでみると、仮面を取ってみると、私たちほとんどが実際、それくらいの年齢から成長していない。

気づいてからずっとあたりを見回していましたが、私の目に実年齢的に成熟して映った人は、たった一人しかいませんでした。

改めて言いますが、良い悪い、ではありません。
ただ本当にびっくりしました。

その後も日常の中で、友人の悩みを聞いたりしていて、私たちは実際は12歳どころか、
あの赤ちゃんのとき、”んばぁ!”と大人の注意を引いて喜ぶ、安心する、あの地点から、
ほとんど成長していないんだなぁ、と実感しました。

外界から注意を引いて、自分の存在を確認して安心する、その方法こそ、
赤ちゃんの時より巧みになっていったかもしれませんが、根本は同じです。
ただ、それを繰り返している。

外界に確認しなかったら、フィードバックがなかったら、”私”は存在してるか
わからない、いなくなっちゃう。
よくても悪くても、フィードバックがあれば、私が存在してることが確認できる。
”私”の何らかの価値が確認できる。

だから、存在を肯定されないかも、されなかったらどうしよう、という恐怖は、
私たちの中にとても大きくあります。

私たち、表面上大人の多くが、日々その恐怖と戦いながら、その恐れに駆られながら、
その恐れ主導の元で生きています。


成熟、というのは、その時々の必要性が十分に満たされると、自然におとづれるものです。

ここで、ああ、子供時代に満たされなかったことがたくさんあるから、インナーチャイルドをまず満たしてあげないと、というアイデアが出てきます。

インナーチャイルドというアイデアに悪いことなど何もありません。
適切な表現です。

ただインナーチャイルドはアイデア、架空のものなので、満たしようがないんですね。
乾いた砂のように、水を撒いても撒いても吸い上げる。
一瞬は満たされたようでも、すぐ次の必要性が出てくる。

今度は私のああいう面が出てきた、こういう面が出てきた、
それはきっとあの時のあれが傷になってたからだ。
それを癒さないと、あれを癒さないと・・・

底なしのブラックホールのように、エネルギーをつぎ込んでもつぎ込んでも、
終わりはない、満たされることはない。

架空のイメージを満たすことなどできるわけがありませんから、
”本体”を見つけない限り、何も変化は起こりません。

本体。

本体って何だろう?
自分の本体って何だろう?

起きてくることはすべて現象ですから、現象は存在ではありません。
現象に存在はありません。
現象は存在から起きます。存在の中でのみ起きることができます。

じゃぁ、存在しているのは何なのか。

それをただ見つめる時に、それが自ずとあらわになって行く中で、
私たちは自らを知ることになります。

そして知るたびに、それが深まるたびに、

自分の中の真の充足度が増していきます。

さらに安心して、架空の自分を捨て、存在を眺めるようになります。

ごく自然に、成熟が起き始めます。

成熟というのは、真の存在を知ることでのみ、もたらされます。

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イシャヤのアセンションコース、4月開催の情報は下記から。



2018年3月28日水曜日

成長のらせん3 〜繰り返し見る風景



”となると、人生において変化するのは私たちの神との合一ではなく、その経験の様態、その気づきのレベルである。従って、人は神との一体性により深く目覚める、始まりから不変で安定しており、最後までそうであるところの一体性に、より完全な形で気づいていく過程にあるのである。”
バーナデット・ロバーツ「The Path to No-Self」


神、でもエネルギーでも、生命の根元でも、永遠なるものでも、なんでもいいのですが・・・

すべての現象を可能にしているものと私たちの一体性は不変であり、そうでなかったことも、そうでなくなることもありえない。それは子供時代からの幾多の神との統合の経験が実証している。

私たちに起きているのは、この変わりようのない事実を、様々な形で、あらゆる場面で、あらゆる瞬間に、より深く、より完全に気づいていく目覚めの過程である。


↑バーナデットの言葉の繰り返しです。

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私がアセンションに出会ったのは18年ちょっと前ですが、私の場合はアセンションを通して、いわば玉ねぎの皮が剥けていくような経験をしました。

これは人によっては日常の中で何のきっかけもなくただ起きたり、
離婚や、大病や、愛する人の死や、
あるいは結婚や、出産や、出会いや、旅や、仕事を通して起きたりもすることです。

たまたま、私の場合はアセンション。

人間関係、価値観、習慣、物、ものの見方、すべてを含め、人生において大切なものの順番が、あるとき(ある事)はゆったりと、あるとき(ある事)は盛大に入れ替わりました。

アセンションを通して何かを得たり、達成したりというのはありませんでした(中途では何度も、前よりこうなった、ああなった、と達成したように思ったけど)。
むしろ、一生懸命貯めて、必死になって抱えてきたものを、気づいたらどんどん捨て、忘れてる、といった結果になりました。

一番大事なことまで。

”それ(神、すべての根本、唯一のもの、エトセトラ)”がしっかり意識に止まった(と思った)とき、最初にしようとしたのは、
この状態なり、認識なりなんなりを、自分の中にしっかりと握りしめ、止めようとする事でした。

きっと繰り返していけば、定着する。安定する。
疑いようもなく、いつでもわかってる人になる時がくる。

キャリアとか、私をよくすることへの執着とか、そういったことはもはや手放したようである。残りのすべてを捧げてそこへ向かう・・・

と思い込んでいたのに。

”最終終着点”も、ただの仮想であったことが繰り返し示されて、
他と何も変わらないただ一枚の皮として、容赦なく、シュワっと剥がれてしまいました。



この間、同じ風景を何度も何度も眺めました。

”目覚め”の経験は、最初の頃の方がうんと華やかでした(^^)/。
だからそれについて話せることもたくさんあったように思います。

こんな経験起きちゃったの〜
あれがこんな風に見えちゃったの〜

反対側の経験も、それに比例して強烈でした。

また私、こんなことに怒ってるっっ
”それ”の感覚がなくなっちゃった、どうぢで?!

人生のおなじみのシナリオも、時を変え、登場人物を変え、何度も何度も繰り返されました。
だけどそれらの濃度が薄れていったというか。
あたかもそれぞれのことが、起きるたびにそれ自体をこすり落としていったような。
気にすることもなくなるに連れ、視界がだんだんひらけて行きました。

”決定的で揺るぎない結論”を持って、色々間違いのない判断ができるようになるのだと思ってたら、まったく意見なく、
”ただ見る”ということが起き出しました。

経験に対する興味が減って、それに連れてだんだん語れることが少なくなっていって、
”わかった度”よりは”わからない度”が増して行き・・・

でも、語ることは起きます。現にこうやって。長々と(^^;)


皆さんの景色はどんなでしょう?

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2018年3月16日金曜日

イシャヤのアセンションコース開催のお知らせ



以前にここでお話しさせて頂きましたが、イシャヤのアセンション瞑想のコースを、4月に横浜みなとみらいで開催することになりました。


・イシャヤのアセンションについては、このウェブサイトをご参照ください。
・コース料金等の詳細につきましては、このページをご参照ください。 

このブログでもアセンションに関して度々書いてはいますが、こちらの方でもちょっとした説明等書いています。今後私の経験も少し書こうと思っていますので、興味がありましたらご一読ください。

座ってても、寝転んでも、立っていても、人と話しながらでも(それこそ通訳しながらでも)できる瞑想法です(という様子はここで伺えるかも知れません)。


これまでも色々な方々が参加くださり、皆さんの真摯な思いにふれることができました。
今年はどんな方達に出会えるのか、とても楽しみにしています。

興味ありましたら、ぜひご参加ください。


またご質問等ありましたら、このブログの連絡フォーム、またはこちらから遠慮なく
お問い合わせください。

2018年3月13日火曜日

成長のらせん2 〜投影、参照

春です。


一見桜っぽいですが、ここいらの春の花はドッグウッド=ハナミズキです。

これは同じ木じゃないんですが・・・こちらも定番。


道の両脇を囲む緑、そして立ち並ぶ家や建物の合間にピンクや白がたくさん突き出し始めると、春の到来です。

ただし、そこからまた突然寒くなったりするのが、この辺りの典型的な陽気なんですが。^^;
昨日は雪がちらついていましたし!

日本は今はどんな様子でしょう?今年は帰国の時に、桜見れるかな?

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投影、参照。。。。

”私”の根本的な機能は、”自己投影”、そして絶え間ない”自己参照(自己言及)”です。
外にものを見るときは、”私”を元に意味、価値を決めたり、解釈したりします。

自分の記憶、蓄積してきた印象や知識を、外からのきっかけに応じて素早く組み立て、
”私が見ているのはこういうもの”、という風に瞬時に解釈し、外界を素早く構築します。
そしてそれが”私”にどういう影響をもたらすのか、どういう意味があるのか、
”私”にとってどうなのか、
”私”と比べてどうなのか、
めんめんとあらゆる想像をします。

いわゆる保身機能ですね。それが性質なので、それしかできません。

これが”私”の宇宙です。
よって、物事をありのままに見ることはほとんど不可能です。



そんな”私”には、自分を超えたものを想像することができません。
なので神でも、マスターでも、グルでもいいですが、

自分のスーパー良い版”としてのイメージを投影することになります。

・・・・はい、相変わらず稚拙な描写ですが(^^;)。

で、それが”私”にどんな素晴らしい人生や喜びをもたらすかと、想像をたくましくするわけです。
スーパー私”がくれるご褒美を、
それが素晴らしい瞑想の経験であれ、
人生が楽になることであれ、
”すごい変わったねー、何かあったの?”と人に認められることであれ、
よだれを垂らして待つことになります。



一方、私たちが”見つけようとしている”と主張する”それ”には・・・

”対象”というものが存在しません。



皆無です。



投影のしようもなければ、自分側にたぐり寄せるべきものもありません。

投影する先も、可能性もあまりにもないので、投影という動き自体が完全に消滅してしまいます。


(絵にもできない。)



”理解する(わかる)ことに満足するなら、対象なき状態に届くことは決してないだろう”
〜ニサルガダッタ・マハラジ

2018年2月21日水曜日

成長のらせん 1 〜悟りの利点、欠点って?

前回書いたアメリカ人の研究者(ジェフリー・マーティン)のビデオに、”悟りによる恩恵とはなにか”、また、”悟りの欠点とはなにか?”というテーマのものがあります。

悟り、目覚め、ってみんな言うけど、悟ったら何が一体よくなるの?
どんな得があるの?

悟りの副作用、欠点、難点は?

ジェフリーは、目覚めの恩恵・メリットは、意識の主体的基盤が”何かがおかしい、見張っていないと、、、”という人間の条件付けの問題である、恐れ、欠乏感から、”人生は実際、OKだよな”というものに移行することだ、といいます。

また自分に関する思考(主にネガティブな傾向にある)が減る、もしくはその思考の影響力が減ることによって、気分の揺れ動きが減る、ネガティブな感情が起きたとき、それが早く過ぎるようになる、ネガティブな思考に縛られない結果、マインドがより効率よく働くようになる、人生がよりスムーズに流れるようになる、といったことも挙げています。

これらは他でもよく言われていることで、色々なスピリッチュアルメソッドの売り文句にもなっていることですから(アセンションでも言います)、特に新しいことではありませんが、ちょっと笑えたのは、

”誰も悟りの前の状態に戻るために努力している人がいない”

という彼の指摘です。

移行の経験が辛かった、という話は聞いても、その後”こんなんじゃ割に合わないよ〜。なんとかして元に戻れないかな?”とか、

”こんなん、最悪”とか

”必死に頑張って僕の元の苦しみや、うつ状態に戻れた!よかったよ〜!”

という話は聞かない、少なくとも聞いたことがない、
というんですね。

笑。確かに私も聞いたことはないです。

だから安心して、その一歩を踏み出していいんだよ、というのが彼のメッセージでした。

*****

自分にとってはどうだったかなぁ、とちょっと考えてみました。

悟りの利点はなんだろう、悟りに向かって努力する価値はあるのか、やたらと考えていた時期があったのを思い出します。
”向こうに渡る価値はあるのだろうか?”
”ここより絶対、数十倍いい、という保証”を得よう、そうしたら渡る事を考えてもいい。

色んなキラキラした話は聞いたけど、いざ渡ることを考えると、向こうに何があるのかさっぱりわからなかったからです。

”そんな風に行くもんじゃないわ。まず決意が先にあって、すべては後から付いてくるのよ”、と我が師に言われましたが、それはこれまで習って身につけた、”賢い生き方”に見合ったものとは思われませんでした。

実際はどうだったのか?

そもそも、”渡る”ということは起きませんでした。
  
押されたり
蹴つまずいたり

自分は渡ってるのか、今どこにいるのか、どれくらい上手に渡れているのか、

等々という考えが大事じゃなくなり、
さらにほとんど起きなくなって、
すっかり意味を失いました。

でもこうやってきっかけがあった今、あたりを見回して、振り返って見るなら、
”悟り”なんて言葉を知らなかった時、
”悟り”を追いかけていた時、と
今は、まったく違う人生だと言えます。

”あーよかった、前とは違ってすごく人生がよくなったわ”
という思考がわかないくらい、それが当たり前になっている、
そのこと自体、すごいことかも知れません。

比べる、という感覚がかなり落ちてしまって、後ろ(過去)や前(未来)を見張っていないので、
”あー、そう言われて見れば、昔は人生大変で辛かったんだっけ”
が近い感覚です。

これは人生にチャレンジ(いわゆる嫌なこと)が起きないのとは、まったく違います。
好みに合わないこと、厳しい状況は起きます。
ただそれを思いづつける、考え続け、対策を取り、結果を見張る、という習慣が落ちてしまった。

どこで落ちたのか、さっぱりわかりませんし、それが二度と返ってこない保証もありません。
ただ、それを心配する能力がありません。
心配が起きても、不安が起きても、長続きしません。
喜びも同様です。
素敵な出来事をなんども反芻して味わい、いつまでも浸るということがなくなりました。

こんなことをいうと、ひどくドライで無感情なイメージを与えるかも知れませんが、
日常の経験はむしろ逆です。

買い物に行くと、例えば目に入る人すべての美しさにハッとします。
”なんて綺麗な髪なの”
”すごい綺麗な肌〜”から、存在そのものの美しさに打たれたりして圧倒されそうになります。そして次の瞬間に、
”あ、そうそう、ものの美しさがやたらと引き立って見えちゃうんだったね”、とはたと我に返ったりします。

少し前だと、”どうしてこんなに美しく見えるのか”、であるとか、恍惚感とかに陶酔する、ということがよくありましたが、そういう自己反芻はありません。

ささやかな日常のこと、
調子の落ちたエスプレッソ・マシーンを、ビデオを見ながら分解して掃除してみる、
とか、気が付いたところを掃除するとか、そんな些細なことを、上の空でなく、ごく自然に100パーセント注意を注いで行っている、そのすべての過程・動きに、止めようもない深い充足感がある。

これは確かに、昔とはまったく違う生き方です。

じゃぁ、私は悟ったのか。愚問です。

どういう風に問いを解釈したらいいのか、取り掛かりようもない気がするのが実感です。

自分に関しても、周りに関しても、名札はなくなるばかりだし。

いずれにしても、自らの自然な本質に返るのが目覚めであるなら、損とか不利とか、あるわけありませんよね。(^^)

2018年2月8日木曜日

科学+アメリカ人+テクノロジー+ビジネス+悟り


”唯一なるものは、これ以上単純でありえない。素晴らしく複雑なのはマヤだ。”
〜ジェッド・マッケナ

*****

この間の週末、神秘研究が大好きな友人が遊びに来て、彼の昨今の研究をたくさん話してくれました。
彼は今、ヒューマン・デザインというのに深く傾倒しているので、私と旦那にも
その研究材料になって欲しかったんですね(笑)。

誰がこんなものを作ったんだ?ーというような、すごい複雑さを伴うリーディングで、
作った人、これを学んでいる人に感嘆の念を覚えるばかりですが、
当たってるかどうか、というのに継続的な興味を持てないので、私たちは彼にとって、あまり楽しい研究素材ではなかったかと思います(^^;)。

私としては、

”個人などというものは存在しない。5要素(風・水・火・土・エーテル)がその仕事をしてるだけだ”

というニサルガダッタ・マハラジの言葉が思い浮かびました。
学びたい人がいないと教える人は存在できないですし、
みんな瞑想してたら社会は存在しないですよね。

そんな風なデザインが、誰かによってでなく、ごく自然に起きている。
すごいことですね。

*****

そしてその彼がしばし前に教えてくれたのが、ブッダ・ボーイと呼ばれるインドの
男の子(すでに大きくなって男の人ですが)。

何年も食事を一切取ることなく瞑想し続けた男の子で、人々が押しかけたので(インドですから!)一時は姿を隠していたようですが、今は聖人として活動しているようです。
彼を一目見ようと世界中から押しかける人の前で、世界平和についての話とかを
しているようです。

昔ながらのグルスタイル、彼を崇める群衆の顔が印象的でした。

*****

そしてそれと超対照的なのが・・・・(これも彼に教わったのですが・笑)

今時のエンライトメント(悟り)、とでも呼んだらいいでしょうか。。。。
悟りを今時の、めちゃくちゃ頭のいい科学者が研究し、その科学者=研究者が
テクノロジーとビジネスに長けていると、こんな感じに仕上がる、
というコースがアメリカにあります。
Finder's Courseと言います。

主催者は”私は悟ったグルです”、とは言いません。”研究者です”、と
はっきり名乗ります(笑)。
世界中で数多くの、悟りを開いたとされる人々(有名人から市井の人まで)を
アンケート調査し、さらに1200人と直接面談し、それぞれと12時間にも及ぶ
執拗な質疑応答を繰り返し、

”悟りの意識状態は、人の心身に素晴らしい影響をもたらす”
という結論に達しました。
対象者には仏教徒、キリスト教徒からデーパック・チョプラ、エクハルト・トーレ、
大企業の社長、貧しい市井の人、本当に様々な人が含まれるそうです。

さらに、世界中の悟りに至るメソッド(瞑想・祈り・ヨガ・その他)を
伝統・タイプ・その他の観点からマップ化し、より早く、適切に、
個人にあった手法で悟りの意識状態に届くことはできないか、
ということを研究し、体系化しています。
(この研究家になる為にハーバードに行き直しちゃったような人です。)

悟りはある特定の人に、生まれながらに与えられた特別な運命である、
悟りに至るには、厳しい修行をずっと積んでいかなくてはならない、
手法を学ぶには、その伝統・宗教的教義に従わなくてはならない、
悟るためには家族やお金、キャリアを諦めないといけない、
悟った人は特別なオーラがある、
悟った人には超能力がある、

そういったことは全部嘘で、無駄だから省こうよ、と言います(笑)。

世界中の1000の手法から、カテゴリー別にもっとも効果的な26の手法を選び、
測定器でモニターして、個人にもっともあった手法をアドバイスする。
17週間、様々な手法を試していくようです。
この期間で安定した悟りの意識状態に到達する率は非常に高い、安定せずとも
なんらかの一時的な経験をする、とご本人は言います。

もう、アメリカなんだからっっ
最高です。

そもそもはこの26の手法の中に、アセンションが入っている、という話を聞いて
ちょっと嬉しく思っちゃったりしたんですが(しかもどうやら核として勧められる
ものの一つらしい・笑)、
その研究内容と結果に非常な興味が湧いて、しばらく彼のビデオを見ていました。

とにかく賢い人で、しかも又聞きでなく、自分が実際に出向いて行った研究結果を話しているのですから、とても楽しめます(残念ですがすべて英語です)。

コースは自宅で実践しつつ、グーグルハングアウトでセッションしたりするとか。
その17週の費用が25万円ですから、それが高いのか安いのかは、まったく人に
よりますね。
自身を研究材料として提供しながらお金を払う、
という風に考えるとなんかなぁ、という気がしますが、
どこかのグルに会いに旅する旅費を考えたら、あんまり変わらないとも言えます。

私個人としては、学会においてタブーであった悟りの研究が、ここまでオープンな正規の研究課題として認められるようになった、という彼の話に非常に興味を持ちました。
悟り、という言葉はタブーだから、新たな名前を考えついたり、様々な工夫をしてきたのが、今では悟りという言葉自体を使った研究発表があるそうです。

”意識は肉体に付属するものではない”
という認識が科学者の間で高まって、研究が進むこと、人の認識が変わることは、
社会の基盤を大きく変えていくことになるのかな、
なんて思ったり。

するとふと、
かつて存在し、滅亡したとされるアトランティスやレムリアは、そういう意識が基盤の社会だった、って言われてるなぁ。だからこれも、新しいことにはならないのかな、
なんて思考が浮かんだりして、

マヤ(幻想)の限りない、層の深さを感じます。

科学的アプローチ派の難点は、”私たちがどうやってこれを起こすか”
という行為者の視点から抜けえないことですが
(抜けたら研究終わっちゃうし・笑)、

これもただ、起きている一つの動きであるというのを見るとき、
こうやって個人が、科学が、グルが、ではなく、生命全体が未知のハーモニーの中で
動いているのに、その美しさ、すごさに、ただただ、感嘆するばかりです。

2018年1月22日月曜日

ご挨拶

ほんっとーに今頃ですが、明けましておめでとうございます。
みなさん、良い年末・年始を過ごされたでしょうか。

私は昨年のクリスマスをセドナで暖かめに過ごしました。




(ご存知の方も結構おられるかと思う)こんな感じの場所ですが、本当にくつろげる場所です。これで3回目ー行くたびに好きになるかも。日本人に人気で、私が行った時も結構おられました(私も初回は日本から^^/)。

年末はアッシュビルというところで年越したのですが、唐突に気温が落ちて雨も降っていないのに道が凍り、人も車も自転車も滑り出すというマイルドなスリルの中、ペンギン歩きで筋痛になりながらの楽しい年越となりました。

これを書いている今、東京は大雪に見舞われて大変みたいですね。
関連地区のみなさんどうか、お気をつけて。。。。

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今年はまた、日本に帰国してアセンション瞑想のコースを開く予定です。
4月20日(金)〜22(日)の週末、東京都内または近郊を予定しています。
まだ会場等の詳細は未定ですが、おいおい記載しますので、興味のある方はぜひ参加してください。

また、「家で開催してもいいよ〜」とか、「こんないい場所あるよ」とか、
そんな情報があったらぜひ、お知らせください。
参加者が好きに床に寝っ転がったりできる環境が理想です。


参加者を確保してから瞑想コースの設定をする、というのは私たちには難しいので、大抵は自分たちのバケーションと組み合わせて出かけて、一人でも参加希望者がいたらコースを開催します。

今回のバケーションは、初の沖縄の予定です。これも楽しみです♪


では、今年もどうぞ、よろしくお願いします。m(_ _)m