2014年9月30日火曜日

マインドは経験を追い求める

マインド(物を認識したり、識別したり、思考や判断を下すといったことを可能にする機能・能力)の性質は”動”です。静寂を経験したときに、『・・・すごい静かだわ。』とつぶやいて、静寂の一部の振りをしながら静寂を破るのがマインドです(笑)。経験が起きると素早くやってきて、その分析、解析、説明、理由付けを行い、意義を説明してくれるのが、マインドです。未来予測もしてくれます。

そんなマインドには、”静”は管轄外です。

例えば静かな湖面に小石を落とすと、波紋が広がります。



波紋は小石が落ちることによっておきた余波です。マインドはこの小石と波紋について永遠にコメントを続けます。しかし、波紋が起きることを可能にしている静かな湖面には、一切興味がありません。動きのない静かな湖面は、マインドの理解がおよぶところではないからです。

スピリチュアリティ、と呼ばれるものを探索する中で、私はこれを何度も繰り返し体験しました。ちょっと不思議な体験や、神秘的な経験が起きると、もうその波紋をおいかけて大騒ぎ・・・その意味合いを探ったり、それについて語ったり、繰り返し頭の中で巻き戻し・再生したり(笑)。そして次の”小石”を求め、もっと大きな体験への期待と妄想を膨らませていました。経験というものが経験に過ぎないこと、起きたことにそれが起きた、という事実以上の意味合いなどない、とわかるまで、当分かかりました。

体験は波紋と同じく、湧いては消えて行きます。追いかけても追いかけても、きりがありません。

波紋が起きることを可能にしている湖面は、波紋が起きる前も、起きている最中も、消えた後も、そこに静かにただ、あります。

2014年9月29日月曜日

内にある空間:外も内もない?!

ヴィパッサナを習って、自分でもコツコツ続けて1年近くたったとき、当時付き合っていた人が頭蓋骨骨折で意識不明に陥る、ということが起きました。そのことを知ったのは病院の面会時間を過ぎた後で、私には何もできることがありませんでした。

意外にも冷静な自分がいました。そして他にできることはないんだから、と、いつも通り座って瞑想をはじめました。

極度のストレスにさらされたとき、人の意識が特別な状態に入り込むというのは珍しいことではありません。起きているのでもない、寝ているのでもない意識状態の中、自分の身体の中と外が、まったく同じであること―どちらも空っぽで、かすかな境のようなものが、二つを分けているにすぎないことを体感しました。

赤い点は空間に満ちているエネルギーを表すと思って下さい。内と外の分けているベールは、かろうじて”私”の形を保っているような、それはそれはかすかなものでした。

この経験は、”私の身体は空っぽであり、外も内も存在していない”という強烈な認識を残しました。

この後しばらくして、自然にヴィパッサナからは離れてしまいましたが、今でも感謝や尊敬の念を持っている瞑想法です。

ちなみに当時のパートナーは奇跡的に全快しました。


2014年9月28日日曜日

内にある空間(1)ヴィパッサナ瞑想法

私が大人になって初めて正式にならった瞑想法は、ヴィパッサナ瞑想でした。この瞑想法は、その厳格さ、ストイックさにおいて、当時私が求めていたものにピッタリでしたが、初心者にとって、10日間の厳しい修行は相当なチャレンジでした。

ヴィパッサナでは、10日間コースのうち、9日間(9日半?)は会話を許されません。この”会話”には、目線を交わすこと、ジェスチャーによる会話、筆談も含まれます。一切の外との交流を断って、自分の内側に向かうことを求められます。読書、日記や手紙を書く等といったこともしてはいけません。

これは思った以上に厳しいことでした。

私は、ちょっと気になることがあるとすぐ人に相談したり、暇を紛らわすために友人とのおしゃべりにいそしんだり、しゃべるということにかなりの依存がありました。言葉での会話を止めても、目線やジェスチャーを使ってのコミュニケーションはほとんど条件反射的におきて、それを避けるためには常に下を向いていなくてはなりませんでした。

人との会話を止められることにより、私が当時一番逃れたいと思っていた、自分の頭の中の会話を永遠に聞く羽目になり、自分の中に溜まっていた怒りがこみ上げて、まさに気が狂うかと思いました。

会話を許された後の半日間の経験は、驚くようなことがたくさんありました。まず、自分の声がまったく変わっていました。それから、それまで一切言葉を交わしていなかったにも関わらず、参加者の人全員に、深いつながりを覚えました。

コースを終えて帰宅したとき、親しくしていた友人の一人は、私の声の変化にすぐに気づき、とても驚いていました。もちろん、この”素敵な変化”は日を追うごとに薄れて行き、1週間もたったときには、私の声はコース前のものに戻ったわけですが。

この初めての瞑想コースは、私にとって相当なインパクトがありました。帰宅後も指示された通り毎日朝夕1時間ずつ、ヴィッパサナ瞑想を行い、上級者クラスにも一度参加しました。

・・・と、いうのが話の前座ですが、続きは明日・・・


2014年9月27日土曜日

瞑想:周囲のものにいつも気づいているのがゴール?

気づく能力、というのは、私たちに生来備わっているもので、特別な能力ではありません。私たちはごく自然に自分の思考に、身体の感覚に、周囲の出来事に気づいています。もし私たちにこの能力がなかったら・・・世界は存在していません。すごく簡単な例でいうと、夜熟睡しているときには、世界は存在していません。

もし興味があったら、今ここで、少しの間目を閉じて、すべてが起きるまんまにしてみて下さい。

頭に色んな考えがわきましたか?家族の声が他の部屋から聞こえましたか?隣人の部屋から食べ物の匂いがしてるのに気づきましたか?

一つのことに気づいて、そこから他へ、また次のものへと、意識が常に自由にあちこち動いているのに気づきましたか?

特定の気になることがあると、注意がそこに縛られてしまうように感じますが、そんなときでも、実は他の出来事に気づいています。ただ、意識が素早く同じ事柄に戻って行く、というだけです。

ストレスにさらされたときに、感覚が研ぎすまされ、通常以上に周囲で起きる事柄を敏感に知覚する、という経験をしたことはありますか?

私たちの現代の生活においては、考えることを過剰に信奉する傾向があるため、私たちの多くが、必要以上に思考に注意を注ぐ癖をつけています。周囲で起きていること、五感・六感が自然に知覚している情報を遮断して、自分の思考にのみ注意を払おうとしているのです。

瞑想を通して、この思考への執着がゆるむと、意識は自由に、広く情報を知覚する状態に戻ります。

ただし、意識を”私”の思うように飼いならす、などということは、間違っても不可能です。次に何に気づくか、どれだけの間そこに注意が向くか、予測することができますか?これから何秒間は音にのみ注意を払う、なんてコントロールが可能だと思いますか?実験してみればすぐにわかることですが、これは不可能です。

意識は奔放です。常に物事に鋭敏に気づいていようとすることは、重複した努力であり、意識の自由な活動を逆に狭めます。”見よう”、”気づこう”とする行為者、無意味な視点、緊張が、そこに保たれるからです。

私にとっての瞑想は、『何もしなかったら、私は何なんだろう』、『すべてのアイデアを捨てたら、人に聞いた話を捨てたら、私は何なんだろう』という問いを、実験的に調べてみる時間です。深い実験の中で、質問も、答えを求める声も消えていきます。ゴールはどこにもありません。


2014年9月26日金曜日

心の休憩 アナ・ヤング シャボン玉ショー

とても夢のあるショーです。心の休憩にお楽しみ下さい。

https://www.youtube.com/watch?v=KMrvR836TFI


空間ー私にとってのヒント

私にとっては空間が、”それ”を一番思い出させてくれます。


こんな写真を見たとき、あるいはその場所に立ったとき、昔は木であるとか、川であるとか、”物”にばかり気がいっていました。それ以上に注意を奪われていたのは、見ているものに関する頭の中のうるさいコメントでしたが、それがわりと静かになった後も、意識は”対象物”に止まっていました。

”それ”に気づいてからは、空間に目がいくようになりました。そこにある物以上に不思議なのは、すごいのは、これらの物が存在するのを可能にしている、その空間そのものだと思うようになりました。

実際のところは”思う”というより、単に目を奪われてしまう、吸い込まれてしまう、といった感じです。

空間は、不思議です。知覚的には、そこには何もない。なんにもない―のに、じっと見ていると、不思議に何かに満ちている。空っぽというより、命に満ちている。

今もし、核兵器が使用されて、地球上のあらゆるものが一掃されても、空間は一切影響されません。核兵器を存在可能にしているのも、この空間です。

私たちが息を吸うとき、空間から10の22乗の分子を吸い込むといいます。この分子は臓器や骨、肉等、人体組織の一部となります。同様に、私たちが息を吐く時、私たちは身体の組織、臓器の一部を空間に吐き出しています。

宇宙のあの深淵な空間と、私たちの目の前にある空間は、一続きの同じものです。
恐竜の呼吸していたのと、同じ空間から、私たちは分子を取り込んだり、そこへ吐き出したりしているんです。

すごいことだと思いませんか。それとも、当たり前すぎますか?笑

2014年9月25日木曜日

”これだよ、これ!”

さて、今日は”それ”、の代わりに”これ”、です(笑)。つまらない言葉遊びをしているようですが・・・一応真面目です。

トニー・パーソンズをはじめとして、リチャード・シルベスタ、ジョーイ・ロット・・・様々な人が、”So....this is it!"とよく口にします。トニーはよく、トークの開口一番でこの言葉を使います。

”これ”・・・目の前にあるもの、今現実として体験しているもの、それだけがすべてなんだよ、どこかにあるかもしれない高次元の星での未来でもない、ナポレオンとして生きた過去生の話でもない、誰かが作り上げた理想の社会や人間像でもない、今、ここにある現実がすべてなんだよ。

椅子に触れてるお尻の感触、外から聞こえる車の音、頭のじんわりとした痛み・・・
そしてそのすべてを構成しているもの。

これがすべてなのに、すでにここにあるものを発見しなきゃいけない、なんてあるだろうか?そのために浄化をしないといけない、何段階もの悟りを得ないといけないなんてあるだろうか?すでに手にしているものを得るために、自分を変えないといけない、なんて馬鹿げた話があるだろうか?師をみつけなくてはならない、高名なグルに自分を捧げないといけない、なんてことがあるだろうか?

目を覚ましなさい、”こうしたらあなたも私みたいに、人生の秘密を知ることができる!”、なんて誰かの戯れ言を信じてもいいけれど、すでに持っているものを、誰があなたにあげることができるんだい?スピリチュアル・セールスマンに、お金を吸い取られるだけだよ。

・・・こんなメッセージを何年も聞きながら、それでも”目を覚ます”ことができなかったのは、目の前の”これ”、”それ”を認めることができなかったからです。

神様はかくれんぼが上手です。


2014年9月24日水曜日

”それ”に最初に気づいたとき

すでに亡くなられましたが、ニサルガダッタ・マハラジ、というとても有名なグルがインドにいました。彼の叡智を表現した、I am THAT『私はそれである』という言葉は、彼の教えを集めた本の題名ともなっており、その教えを集約する表現となっています。

”それ”、というのは、この五感、もしくは六感でも捉えられないものを表現するのにぴったりだと私は思っています。また”それ”はそこいら中に溢れていて、なんら特別なものではありません。その素晴らしい平凡さも表していて、しっくりきます。

私の中で、”それ”がようやく意識にはっきりとまったのは、去年のことです。ただし、これは表面意識でも自覚でき、忘れることのないレベルで思い出した、というだけで、その前にも数えきれないくらい”それ”を思い出すことはありました。誰でもそうです。

最初は、寝ているのでもない、起きているのでもないという中間意識の中で、認識が起こりました。横になって、自分に関するアイデアを一つ一つ放り出していきました。「もう佐藤花子(仮名・笑)しなくていい」、「”私”しなくていい」、「人間しなくていい」・・・といった具合です。自分についてのアイデアを捨てるたび、深い安堵感を覚え、空っぽになると同時に、沈み込んでいくような感覚がありました。

やがて自分が、名前をもらう前にも、”私”という自覚を持つ前にもちゃんと存在していたんだよなぁ、という当たり前のことに、深い意識状態で気づきました。自分に関するすべてのラベルが剥がれても、まだ、私は存在している・・・ただし、この場合の私は、佐藤花子という私とは全く違う・・・

そしてさらに、赤ちゃんとしてお腹に入る前にも、何かが存在していた、その何かが赤ちゃんの身体を形成したこと(赤ちゃんの身体に何かが入ってきた、というのではありません)、この身体が老いて死んでも、同じものが存在し続ける、ということが突然はっきりしました。

その認識は、はっとするもの、まさに一瞬のひらめきで深い光明を得るような感じであったとともに、それがいかに普通のことであるかが明白、という不思議な感じでした。これを飾り立てて、大げさな神秘体験や悟り体験として捉えることは不可能な感じがしました。

2014年9月23日火曜日

瞑想を通して起こりえること:誤った同一化から自由になる

私たちのマインド(物を認識したり、識別したり、思考や判断を下すといったことを可能にする機能・能力)は、本来、とても無垢です。だから教わったことをどんどん吸収します。

空が空という名前だということを覚え、自分の名前は佐藤花子だということを覚え、右というのはこっちの方角だ、といったことを覚えます。社会生活を営む上で便利な能力です。

ただ、マインドは無垢なため、教わったことを鵜呑みにして信じる、という欠点があります。”お前はダメな奴だ”、と言われたら、それを信じ込んでしまったりするのです。”あなたは天才だわっ”というのを信じ込む場合もあります。”ボクは人の言うことを簡単に信じない人間だ”、というのを信じることもあります(笑)。

頭に浮かぶ思考についても、現実とそうでないものの区別がつけられません。誰かに対して、”あの人は私を嫌ってるかもしれない”、という思考がわいたとします。それを何度か頭の中で聞くうちに、それが事実であるかのように信じてしまうのです。そして次に他の誰かとその人の話をするときに、”いやぁ、私はあの人に嫌われてるから。”と発言するような結果になったりします。

思考が自分であると信じ込んでいる状態、思考と自分を同一化している状態は、こんな風に表せます。

ある思考を一点凝視した結果、それが世界のすべてのように見えてしまっている状態です。頭のスクリーン一杯に大声でこんな言葉が聞こえていたら・・・そしてそれが一日中頻繁に起きていたら、本当に辛いですよね。

瞑想、すなわち条件付けられた思考パターンからの解放が起きると、そのような思い込みがゆるみます。すると、こんな感じになります。

スクリーンとそれを知覚している意識の間に距離ができ、もっと大きな全体像が見えます。他にも色んな声が存在していて、”どうせ私なんか”、という声は、たくさんある中の一つであることに気づきます。私=どうせ私なんか、ではないこと、それが単なる思考であることを思い出すのです。物事の本来の姿に気がつく、と言ってもいいでしょう。

これはかなり心の負担を軽くします。そして、前にも言いましたが、これは型にはまった瞑想を通してのみ起こることではありません。野原の真ん中でただ風にふかれているとき、波間に揺られて空を見つめているときに、それまで死にたいくらい悩んでいたことが、急にバカバカしく思えた、という経験は、多くの人がしていると思います。

余計な力が抜ければ、本来の自然なあり方を思い出します。それが私たちに備わっている、自然な生き物としての本能だからです。そのような”ゆるみの機会”、”条件思考から自由になる時間”を与えてくれる瞑想は、どんな形のものであれ、有益です。

逆に私が中学生のときにしていた、ロウソクの炎に集中する、などという瞑想法では、このような”ゆるみ”は起きづらいかと思います(笑)。

ただしこれは、”傍観者”、”観察者”になることがゴールと言っているのではありませんが、それはまた別の機会に書きたいと思います。

2014年9月21日日曜日

”それ”に気がつくこと

中国、唐の時代に黄檗希运(おうばく けうん)という禅僧がいたそうです。彼の教えを伝える『伝心法要』は、Transmission of the Mindというタイトルで英語訳が出版されており、アメリカでも禅のクラシックとして多くの人が高い評価をしています。私は2年ほど前、デービッド・ホーキンズ(『パワーか、フォースか』の著者)のリストで非常に高く評価されていたのを見て買ってみました。

簡潔な言葉で頭をストップさせてしまう、素晴らしい力がある教えだというのが、私の個人的な感想です。強く打たれたことの一つに、”一瞬の閃光によって真実を垣間みることがなければ、どんなに修練を積んでも無駄である”というのがありました。

私たちが真に求めているもの・・・表面意識ではわからなくても、存在の一番深いところで求めているものは何か。この、目で見ることも、耳で聞くことも、肌で触れることも、舌で味わうことも絶対不可能なもの。頭で理解することが不可能で、”感じる”ことすらできないもの。それなのに、常に、あたり中に、すべてに満ち満ちているもの・・・”それ”を垣間みること。”それ”についてひらめきを得ること。

この一瞬の閃光は、努力で起こすことはできません。厳しい修行をしたご褒美に得られるものではありません。善行を積んだら起きることでもありません。ただ、いつもそこいら中にあるものです。すべてがそれでできています。”それ”しか存在していないのです。

ブッダをはじめ、多くの先人が、努力に疲れ果てた末に”それ”に気づく、という経験をしています。そして多くが、それまでいかに無用な努力をしていたかに気づき、”修行の利点は、せいぜい自分の力で物事を成せる、という我の意識を疲労困憊させることくらいだ”、と言っています。

修行なんか一切しなくたって、スピリチュアルの”ス”の字も聞いたことがなくたって、自然と”それ”に気がつく人も多くいるのは、当然のことだと思います。だって私たちは、”それ”以外の何物でもないのですから・・・頭と心がゆるんだ瞬間に、それが突然自明のこととなる。忘れていた事実を単に思い出す・・・ごく自然なことです。

私は初めて”それ”が、忘れることのできないレベルで意識にとまったとき、懐かしい気がしました。ああ、子供の頃に当たり前に知ってたことだ、と思い出しました。私は長年瞑想をしていますが、瞑想の結果起きたことではないことは明白でした。

2014年9月19日金曜日

瞑想とはなにか、どうして瞑想をするのか

先日、瞑想中の意識状態の経験について書きましたが、瞑想とは何か、どうして瞑想をするのか、について書きたいと思います。

瞑想というのは日常の条件思考から自分を解放することです。条件づけられた思考パターンから解放されると、人は自然に存在の本質としてのあり方に戻ります。それが自然な状態だからです。

瞑想=自然で自由なあり方に戻る時間、行為なので、禅をするとか、特定の瞑想方法を練習することであるとは限りません。むしろ、不自然な瞑想法を行うことで、自然なあり方と到底かけ離れた状態を経験することもあります。

それよりも、サーフィンをして波にゆられているときとか、好きな料理に没頭しているときとか、単に目的もなく散歩してるときの方が、真の意味での瞑想に近いと言えます。自然で自由な状態を経験するのに、新しいルールを作ったら、本末転倒です。

集中力を鍛えることを目標とした瞑想法もあります。
神秘体験を作り出すことを目標とした瞑想法もあります。
超能力開発を唄う瞑想法もあります。

私は学生時代、規律とか修行とかに憧れてた時期があって、自分を律するために瞑想する、というのが格好いいと思っていました。

今の私にとっての瞑想とは、前に挙げたように、本来の自然なあり方に戻る行為・時間、それ以外のなにものでもありません。自分の条件づけられた思考パターンから自由になり、自分の存在に関する誤ったイメージから解放されること、これ以上の喜びはありません。

2014年9月18日木曜日

何のために瞑想するのか―アディヤシャンティから学んだこと

アディヤシャンティから学んだことを書きたいと思います。

私は何年も、ただ盲目的に瞑想したり、目覚めに関する様々な教えの本を読んだり、セミナーに参加したりしていました。常に”最上のもの”に目を光らせ、”良い”とか”効果がある”とされるものがあると飛びつく習性があったので、新たなものを取り込んでは盲信する、ということを繰り返していました。その結果、自分の中で様々なアイデアがごっちゃになり、わけもわからないまま架空のゴールに向かって努力を続けていました。自分では自分のやっていることがわかっているつもりでいましたが、実際は相当な迷走状態でした。

アディヤのThe End of Your Worldは、そんな私の目を覚ましてくれた本です。”一体いつになったら、私たちはただいい気分になりたいために瞑想するのをやめるんだろう。”というメッセージにひどく打たれました。怒りの不快感から楽になりたい、嫉妬から楽になりたい、あの愛情に満ち足りた感覚、高揚・恍惚感にいつも浸っていたい・・・私はまさにそのために瞑想や他のワークをしていました。

”一度ここで正直になって、自分がスピリチュアリティから何を得られると思ってやっているのか、本当は何が欲しいのか、自問してみてはどうだろうか”とアディヤは言います。そこで初めて私は立ち止まり、自分が何を欲しがっているのか、自問してみました。

私が欲しかったのは、”私”の幸せです。それはお金が適度にあって(過剰にあるとお金目的の人を周囲に引き寄せる、という恐怖があるので、億万長者にはなりたくありません。適度なお金持ち、です)、人にいつも好かれて、嫌なことが一生起きなくなること、でした(^^;) 

しょうもない答えですが、本音であって、いい、悪いではありません。ただ、自分が何を欲しいと思っているのか、きちんと直視するのだけが目的です。本当に欲しいのは”私”が幸せになることなのに、”真実を知ること”が目的の振りをしていたんだな、と正直になることで、心が解放されました。

じゃ、これが本音だから引き寄せの法則とか、別の方向へ行ったかというと・・・それは起きませんでした。

2014年9月17日水曜日

瞑想:条件反射とエネルギーの浪費に気づく

数ヶ月の集中瞑想をしていたときに、気がついて”ほぉ〜”と思ったことの一つです。

数ヶ月、一日に10時間以上も瞑想していると、否が応でも神経・意識が精妙になっていきます。寝ているのでもない、起きているのでもない、その中間の微妙な意識状態もたくさん経験します。そうすると、通常の生活の中で、私達の意識が、いかに条件付けられた思考パターンやそこから起きる衝動に縛られているかに気がつきます。

寝ているのでも、起きているのでもない微妙な意識状態を、こんな風に表してみます。
それに対し、私たちの注意を引く思考が暴れている状態は、下の絵のように感じられました。
 
普通、静かな部屋にいて、大きな音がしたら自然と注意を奪われますよね?人の話を聞いていても、誰かが部屋にドタバタと入ってきたら、注意がそちらにいきますよね?私たちの注意は通常、自然と目立つ方、インパクトの強い方へ向かいます。

私たちの中に条件づけられた”頭の中の声”は、すごくボリュームが大きいんです。存在の質が粗く、粒が大きいとでもいいましょうか。だから注意がそっちに奪われる。また、私たちの中には、”思考が湧いたらそれに対して何かをしなくてはならない”という条件反射が強く根付いています。

また私たちは、”ボリュームの大きい音=大切なこと、緊急性があること”と勘違いしやすいんです。だから即反応する。そしていちいち反応していると、注意がすべてそちらに縛られてしまうので、意識の精妙なバックグラウンドに気づくチャンスは減ってしまいます。これが通常の生活における、私たちの状態です。(続く)


2014年9月16日火曜日

Trust: 信頼すること、身を委ねること

”私”、”私”、”私”中心の生き方から、存在の本質、生命の根源としてのあり方へと意識が転換したとき、一番変化したのは信頼感がもたらされたことでしょうか。

”私”中心で生きていたときには、何もしないでいるのは耐えられませんでした。予定、用事、目標、何でもいいからするべきことを突っ込んで、”忙しい自分”を維持していました。誰かと電話で永遠に無駄話をすることも、”私”には意義がありました。何もしないでいることは、不安でたまりませんでした。

”私”との距離が空いて、何もない空間が広がるにつれ、体中の力が抜けていきました。

そうしたら、ただ空間にぽつんとあること、何もしないでただあることが、自然に起きるようになりました。何かをして、自分の価値を証明しなくてはいけない、という思いがなくなってしまったからです。まったくそういう思いが湧かないわけではないので、その思考が留守になる時間が増えた、とでも言えばいいでしょうか。その思考を信じる能力が薄れたというのが近いかも知れません。

窓の外で木々が揺れているのを、ただ眺めているだけ。空っぽの頭と、えも言われぬ静かな至福感がそこにあります。

必要なことは自然に起きて来ることを知っていると、今起きていることに、逆らう意義が見つかりません。起きるかもしれないことを予想して、先回りしようとすることの無用さは明白です。

次の行動が起きて来るまで、休憩です。


2014年9月15日月曜日

アディヤシャンティ

数日前、アディヤシャンティが体調不良のため、教師としての活動を減らさざるを得なくなったとメール配信がありました。

前にちょっと書きましたが(過去記事)、私は一時期、アディヤのトークCDを朝から晩まで聞いていた時期があります。彼のセミナーにも二度ほど参加しました。

最初に参加したセミナーでは、若くてさわやかな印象とともに、半袖のシャツから出ていた腕が筋肉で隆々としていたのが印象的でした(笑)。びっくりして、旦那に気づいたか聞いたのを覚えています。意識しなくても気づくほど太かったんです。彼の経歴についてほとんど知らず、勝手に大工さんとか思っていたので、仕事柄かな〜とか思ったりしていました。

二回目のセミナーは、彼が大病をした直後でした。大病をした後だと知らなかったので、あまりに突然老けてしまったように見えて、びっくりしました。

さらに数年後、オンライン・ライブトークを見て、またしても年とってしまったというか、病気なのではないか、という印象を受けて心配になったのを覚えています。

オンライン・ライブトークの後、CD等でトークを聞き、彼の個人的な経験を少し知りました。彼が長年サイクリングの選手であったこと、アスリートとしてのアイデンティティが非常に深く根付いていて、競技をやめた後でも、あたかもオリンピックに挑むかのような訓練を続けていたこと、病気でやめざるを得なかったけれど、治ったとたんにまた猛烈な訓練をはじめたこと・・・、深い目覚めを経験した後も、コントロール不能な、身体を鍛えたいという衝動が続いたそうです。病気がいかに、彼のアスリートとしての古いアイデンティティを捨てざるを得ない状況を作ったか、ということを話していました。

通常のコースに加えてオンライン・ライブトーク、オンライン・セミナーと、時間を惜しんで教師活動をしていたようですが、今後はペースを落とし、しばらくオンライン活動のみ予定しているようです。

命に関わる病気ではないそうですが、よく休んで回復してほしいな、と思います。


2014年9月14日日曜日

”私”という名の宇宙の中心

Source: National Geographic, Photograph by ESO

昨夜、チェンジング・レーンという映画を見ました。好きな俳優が多数出演していましたが、いやはや・・・人々の思惑や思い込みやらが交錯して、単純なことがどんどん複雑になり、弱虫な私は、どうなることやらと神経すり減らしました(_ _;)。きれいごとでまとめず今後のチャレンジを示唆しつつも、ある程度いい結果を見せてくれたエンディングに満足しています。

映画は私たちがいかに、自分が世の中の中心であると思って生きているか、をよく表現していると思いました。

上の写真(本来このトピックとは関連のない写真ですが)で大きく光り輝いている部分は、宇宙の中心でしょうか?この写真ではそんな印象を与えます。が、もし大きな光が写真の片隅にあったら、それでも宇宙の中心に見えるでしょうか。

”私”というものが実在していると思っているときには、”私”が宇宙の中心に思えます。”私”の決断が、行動が、人にどういう風に影響するか、周囲で起きていることは”私”にどういう影響をもたらすか、もたらしたか。”私”の感心ごとは常に”私の人生”という名の映画、物語であり、主役は私、周りの人はすべて脇役です。そうして物事が思い通りにいかないとき、相手が思い通りの反応を示さない時、”なんで??”となります。

”私”という概念が消え、すべての概念の外側に飛び出すとき、すべてのものが空間から現れて、空間へ消えていくことに気づきます。自分が世の中を回しているのでもなければ、世の中が私を中心に旋回しているのでもないことが明白になります。中心が存在しないのです。深淵な空間に、様々なものがいっせいに起きては消え、現れては消えているだけ。規律のない、天然のダンスが踊られているだけ。

上の写真をただ眺めたら―何か意義を見つけようとしたり、分析しようとしたり、特徴を探そうとしたりしないでただ見たら、何が見えるでしょう。


2014年9月12日金曜日

宇宙と量子エネルギー


またもや宇宙についてです。しばらく前から宇宙の写真をよく眺めるようになりました。”私”のささやかな悩みに何年も集中して、ずっとこんな広大な、美しい現実を見過ごしてきたんだな、と感慨にふけっています。

宇宙の写真を眺めると、思考が止まります。言葉や概念では表すことが不可能なものを目の前にして、マインドが機能停止します。
銀河の美しさもさることながら、私は、すべてを満たしている広大で無限な空間に心を奪われます。この美しい銀河、星々の存在を可能にしている黒い空間―ラニアケアのポストで紹介したビデオでは、黒ではなく、”深い青”と表現されていました。

この空間は、私たちの目の前にあります。そこから途切れることなく、空へ、宇宙へと同じ空間が続いています。反対に辿っても同じです。宇宙に見える空間が、そこから私たちに見える空へ、私たちの目の前へ、身体全体へと途切れることなく続いています。私とラップトップの間にも、私と壁の間にも、私と通りを歩いている人との間にも続いています。境は一切ありません。すべてに満ち満ちています。

宇宙の空間をみるとき、私は自分の身体が空っぽになったような気がします。正確には、その瞬間、思考がとまって無になります―次の瞬間、”私”という意識が帰ってきて、その体験を描写・解説するまで―。

科学者達は日々、新しい発見に驚かされ、悩まされています。どんな仮説も、常に覆されてしまうからです。どんな明晰な頭脳をもってしても、宇宙の量子的なエネルギーの動きを、体系化する、すなわち箱に閉じ込めることができないからです。

”幸せとはこういうもの”、という概念に基づいて、人生になんとか安定をもたらそうとしてもあっという間に崩されてしまう・・・これが存在の本質なんだ、ということを、宇宙を見るたび思い出されます。

2014年9月10日水曜日

宇宙〜私たちの拡大図〜

一昨日?ラニアケアという銀河団が発見されたという記事を読みました。私たちの住む地球を含む太陽系銀河を含む(笑)天の川銀河は、このラニアケアのはじっこに小さく存在します。

そこからさらにズームアウトしたのが、下の写真です。

”宇宙は何億という銀河団と、何もない深いブルーの空間とでできている”
宇宙の写真を見ていると、人の細胞の写真などを思い出して、私たちの体は宇宙と同じ構造でできているんだな、体は一つの宇宙なんだ・・・と、気が遠くなるような感慨を覚えます。

”私が自分の意志で物事を決め、コントロールしている”、”人生は私の決断によって動いている”、などという考えが軽くふっとんでしまう瞬間です。


元の記事(英語)はこちら (他の写真やビデオが楽しめます。)
日本語の記事は、こちらから 

2014年9月9日火曜日

概念の外側へ

悟り、と呼ばれるものを追いかけて18年たちます。18年というのは、私が大人になってニューエイジに出会ったところから数えての年数ですが、実際には、形を変えて子供の頃からずっと追いかけてきたと思います。

悟り、という到達点などない、ということに気づくのに、それだけかかりました。ずっといつか、悟りに到達して、苦しみ一般から自由になるのだと思っていました。特別な精神状態に達して、超能力を得るのだと思っていた時期もありますし、超能力への興味がなくなった後でも、この特別な精神状態というか、レベルというかに達して”完成品”になるのだと思っていました。

完成品になって、完璧になって、あとは永遠に幸福が続く・・・

カーリー、トニー・パーソンズ、U.G.クリシュナムルティ、ジョーイ・ロット、その他色々な人が口を揃えて『それは幻想だ、ただのおとぎ話だ』というのを聞いても、『ほんと、そうよね!』とかいいながら、彼らの言うことをわかっているつもりになっていながら、実際にはまったくその幻想をあきらめていなかったのがわかります。悟ったらこういう風になる!という願望・イメージが強くあって、誰の話を聞いていても、読んでいても、自分のイメージへの到達にどう応用できるか、という視点から内容を微妙に”編集”して解釈していました。

目覚める、というのは、すべての概念の外側に飛び出すということです。 

すべて、というのはすべてを含みます。これまで生まれて習ってきたすべてです。その中で気に入った一部はとっておいて、というわけにはいきません。それが間違いなく、足かせになるからです。

目覚める(私は悟り、という言葉より、こちらの方が好きです)というのは、『型をなくして生きる』ということです。ある完成型を作って、そこにはまって生きるのとはまったく正反対です。

そんな生き方には、安定感がありません。次に何が起こるのか、過去に基づいて予想をたてることもない、それに従って行動することもないわけですから、、、、自分はこれを知っている、などという確たる信念も一切持てない、どこかへ向かっているという安心感も、守れるものもありません。

創造性は、そんな『場所なき場所』に存在しています。

2014年9月8日月曜日

自然の法則

拡大と収縮は、自然の営みに欠かせない動きです。私たちの命は、心臓、呼吸をはじめとする様々な機能の、機械的な、たゆみない拡大と縮小運動によって生かされています。息を吸ってばかりでいたら、死んでしまいます。心臓が拡大だけを繰り返したら、破裂してしまいます。拡大と縮小はどちらも等しく重要な動きです。美しく広大な宇宙も、拡大と収縮を繰り返して成長しています。

馬鹿げた話ですが、私はスピリチュアリティにおいては、自然の法則はすべて超越され、例外が設けられるものと勝手に幻想を抱いていました。瞑想なりなんなりを通して、上り調子一方のみで成長していくと思っていました。だから拡大意識を経験した後に、古い癖や悪いと決めてる感情が湧いたときには、それはそれはがっかりし、疑いや自責の念といったもので一杯になりました。

”疑いや自責の念”というとまだ格好いい気がしますが、現実にはただの癇癪です。思い通りにいかなくて、欲しいものが手に入らなくて癇癪を起こしているに過ぎません。過去には一度、集中的なアセンションをしたのに古い癖がなくならないと癇癪を起こして、私の師カーリーに怒鳴られたことがあります。

意識が拡大しているときと収縮しているときでは、存在の仕方がまるで違うように”感じられ”ます。自分と周りのすべて、人、動物、椅子、すべての経験との境が存在しないことが明白な状態、すべての物を存在させている、静かなエネルギーが空間に満ち満ちているのを実感し、さらには自分がそのエネルギーそのものであることを自明のこととして”知っている”状態。その認識すらも消えてしまう瞬間―そこから、何をどうやっても、誰かに対する怒りや妄想が止まらない状態、体を駆け巡る不快な感覚や痛みを経験し、解決策を求めて頭が混沌とする状態、その状態を拒否し、静けさに返りたいと全身が叫ぶ状態を経験すると、自分が別の人間か、二重人格であるかのような気すらします。

意識が拡大・解放されている状態では、無抵抗、自分をゆだねることはごく自然に起きます。意識が収縮・縛られている状態では、すべてのものに抵抗感を感じ(抵抗感への抵抗まで感じ)、出口のない苦しみを経験します。

意識が収縮を経験しているからといって、拡大の瞬間がまったくないわけではありません。ただ収縮が”主要な経験”として注目されている時、隙間隙間に起きる素朴な現実の認識は見過ごされがちになります。

マインドはいつも、拡大だけを経験したい、と言います。収縮は間違っている、と言います。命は、自然の法則は、マインドの意見なぞ気にもかけません。

数億の銀河のつらなりが、収縮と拡大を行っている美しい画像を見る時、自分の体の中で、まったく同じ動きが起きているのだということが思い出され、気が遠くなるような感慨に満たされます。

自然の法則に例外はありません。見回す限り、命は拡大と縮小、生と死を繰り返しています。

2014年9月5日金曜日

永遠にこない未来

瞑想、自己観察、自己を受け入れる、今に生きる、、、何をどうやっても、精神世界というものは、未来への努力であると気づいたところです。トニー・パーソンズが口をすっぱくして言っていることですが、正直、なかなか認められなかったというか、未来への努力が好きなので、自分の中で何かと例外を設けていました。

トニーは、「お茶を飲んでいる時、”あ、二階へ行って瞑想しなくちゃ”という思考がわく。お茶を飲む行為は瞑想ではなく、瞑想は未来、二階へ言って座ったところに存在する。」という例をあげ、その発想が馬鹿げたものであることを指摘します。まさに自分のやっていたことで、はっとしましたが、さらに辛いのは、トニーが言うように、未来への努力をしているとき、それを止める手だてなど一切ない、という現実です。

〜になったら〜になれる、と思い込んでいる時、目の前の現実は見過ごされます。

瞑想をして思考が静かになったら、悟りを体験できる。
イライラするのがとまったら、理想の私になれる。

早く大人になりたい、大人になれば好きなことができる。早く家に帰りたい、家にかえったらくつろぐことができる。いい仕事を見つけたい、そうしたら生活を楽しめる。痛みをどけたい、そうしたら幸せで明るい自分に返れる。

人生のほとんどを未来志向で生きてきたので、精神世界でもまったく同じ思考パターンを繰り返しています。本を読んでいても、人の話を聞いていても、いつも結論を探しています。結果に急いで向かうことに意識が集中しています。その習慣がゆるまったように思っても、まだ無意識にやっていることが山ほどあることに気づきます。

本当に欲しいものを手にすることより、永遠に来ない未来に向かって走るのが好きなだけ?

目の前にあるものに意識を戻す時、この気づきすらも単に思考にすぎないことに気がつきます。冷蔵庫の音、右足の親指が左足に触れている感覚、通りの車の音、窓の外の日の光・・・目の前には、ただタイプしている指が存在しているだけ。”永遠に来ない未来”と”私の葛藤”も意義を失って、”私”をがっかりさせます。

2014年9月4日木曜日

私の世界

世の中はすべて、自分の投影でしかない、ということをよく聞きます。私たちは物事を自分のフィルターを通してしか見ることができない。だから物事をありのままにみる、ということはできえないし、自分の一番身近な人すら、一生本当の意味で相手を知ることなどない―。

人を見て嫌悪感を覚えたり、批判的な気持ちになったときに、それは単に自分の鏡を見ているだけだよ、などと言われると、嫌みを言われているだけのようで、意地悪されてるようで、非常に腹が立ちました。程度の軽いことは、いい内容でも悪い内容でも、ああ、自分に同じ要素があるから気になるんだな、と余裕を持って見通すことができますが、自分が心底嫌いだと思ってる人に関して、それは自分の姿を映している鏡であるなどと言われても、腹立つ以外にはなんの役にも立ちませんでした。

しかし最近、これは本当に本当であるとわかってしまいました。世の中で一番嫌いだ、と思っていた人に対して、自分のやってることは、彼女とまったく同じだということに、完全に気づいてしまいました。見えていなかったことが見えて、ショックでした。

でも本当に深く、はっきり見えたら、自分の中で後を引くもの(間違っていたとくよくよしたり、罪悪感に浸ったり)が何もありませんでした。

同時に、ほぼ神格化していた人のイメージも、完全に間違っていたことがわかりました。自分にとっての理想を相手に投影していただけのこと。そして自分の期待に合わない行動・発言があると、勝手に裏切られたと思ったり、深い怒りや憎しみまで湧く。。。。

世の中は私の投影でしかない、というのは本当だな、と思います。”私が世界を創造する”とは、何かを思い通りに変えられる、などということではなく、私の物の見方が私の世界を形作っている、ということに過ぎないと思います。

2014年9月3日水曜日

フィルター

癖や思い込みが剥がれ落ちると、同じものがまったく違って見えます。私の体験で強烈に印象に残っているのは、Eメールです。会社勤めをしていたとき、社内で受け取るメールから、いちいちドラマを生み出し、物事を大げさに捉え、上司にしょっちゅう多大な迷惑をかけていました(^^;)

ある朝、昨日大騒ぎした同じメールを読み直し、自分の解釈がまったく間違っていたことに気づきました。
『ええっ?!これ、本当に昨日と同じメール?・・・』別人から受け取った、まったく別のメールを読んでる気分になり、目を疑いました。間違いなく同じ人からの、同じメールを読んでいるのだということに納得いくまで、ちょっとかかりました。

自分の早とちり・・・早とちりというのはいい表現ですが、強烈な思い込みによる解釈が、どれほど内容をねじ曲げていたかに気づいたとき、自分の解釈がいかに現実と離れた、間違ったものであったか気づいたときはショックでした。そしてそれを認めるのに一瞬抵抗を感じました。

ありがたいことに、この時は自分の間違いを認めることができました。

”早い”=”偉い”という思い込みがあったのも、この悪い癖に拍車をかけていたと思います。メールを読んだら即返答、即対応が偉いと思っていたのです。でもこの一件以来、条件反射の癖が破れ、一瞬の隙間が生まれました。『本当にメールを読んだかな?また自分で内容を創作してないだろうか?』と自分を疑うようになりました。

それから色んな場面で、私は自分の思い込み・信念というフィルターを通してしか、物事を見てないのだ、ということを認識するようになりました。自分の意見、というものが信じられなくなりましたが、ある意味、これまでも信じていたわけではないような気がします。何かが間違ってる、自分の言っていることは絶対普遍の真実などではない、と深いところでわかっていたからこそ、”私は正しい!!”と不安をかき消すべく、大声で叫んでいいたのだと思います。

あたかも大声出したもんが勝ち、大声で語られたものが正義、みたいに(_ _;)

関連記事:私の世界


2014年9月2日火曜日

ぎょぎょっ

ふと目に入ったものに、はっとなることが増えています。このはっとするのがすごく変な感じで・・・例えばコーヒーを飲もうと手を伸ばしたときに、目に入ったコップ、そこへ伸びて行く手が妙にきれいでびっくりします。お風呂にはいっているときに、ふとお湯の表面が、風呂の蛇口が、浴槽が目に止まり、そのきれいさにはっとします。あまりに奇麗でぎょっとする、というか、照れるというか・・・

きれいな女性がすぐ目の前にきて、そのあまりのきれいさに、見つめるのが気恥ずかしくて目をそらした、なんてことを男性が小説に書いたりしますよね。ほとんどそんな感じです。

”当たり前のもの”として見過ごしてきたものが、突然本当の姿を現す、とでもいうのでしょうか。”浴槽”とか”蛇口”とかいう名前が消えて、ただ見る行為だけが起きている。観察しているのとはまったく違います。あらゆる思考が消えて、ただ見るという行為だけが純粋に起きている時、私には何かを見ているという意識もなければ、目の前にあるものがなんなのか、皆目見当もつかない、といった感じです。ただ言葉にできないきれいさと不思議さがあって、魅入られてしまいます。

そしてその状態にぎょっとして、目をそらします。”私”が大慌てで帰ってきます。

私、という感覚が自分の存在の核であると盲信していたときは、物事はすべて自動操縦状態でした。自分の信念であるとか、思い込みでしか物事を見ていないし、目に入るものすべてを光のようなスピードで名前付け、分類し、自分の思い込みに合わないものは却下していました。

人によっては大病をしたときとか、すべてを失って絶望したときとか、またはなんの前触れもなく同様の経験をすることがあるようですが、あるとき突然、この光速度で起きていた自動操縦が止まったり、停止寸前まで緩まることがあります。私の場合はたまたま、瞑想を通して自動操縦状態だった自分というものの、思考と活動速度が落ちました。一秒が十分くらいまで伸びるというか・・・時間がストレッチすると、一秒が突然永遠になるというか・・・

その瞬間には”私”という感覚はまったく存在していません。

そして次の瞬間、”私”というプログラムが帰ってきて、自分の不在、永遠を大急ぎで却下・除去します。はっとする時間が増えたとき、どれほど素早く私がそれを拒否するかにも気がつきましたが、これはまさに瞬時に起きる反応で、コントロールできるものではありません。

でも一度気がつくと、また気がついて、”美しさへの恐怖”にも気がついて・・・不思議な、不思議な感じです。