そんなマインドには、”静”は管轄外です。
例えば静かな湖面に小石を落とすと、波紋が広がります。
波紋は小石が落ちることによっておきた余波です。マインドはこの小石と波紋について永遠にコメントを続けます。しかし、波紋が起きることを可能にしている静かな湖面には、一切興味がありません。動きのない静かな湖面は、マインドの理解がおよぶところではないからです。
スピリチュアリティ、と呼ばれるものを探索する中で、私はこれを何度も繰り返し体験しました。ちょっと不思議な体験や、神秘的な経験が起きると、もうその波紋をおいかけて大騒ぎ・・・その意味合いを探ったり、それについて語ったり、繰り返し頭の中で巻き戻し・再生したり(笑)。そして次の”小石”を求め、もっと大きな体験への期待と妄想を膨らませていました。経験というものが経験に過ぎないこと、起きたことにそれが起きた、という事実以上の意味合いなどない、とわかるまで、当分かかりました。
体験は波紋と同じく、湧いては消えて行きます。追いかけても追いかけても、きりがありません。
波紋が起きることを可能にしている湖面は、波紋が起きる前も、起きている最中も、消えた後も、そこに静かにただ、あります。