2020年1月13日月曜日

新年の抱負

箱根強羅の朝(1月2日)
私はスポーツジムにわりと通う方で、いろんな運動をやってきたのですが、最近はずっと、健康のためにヨガをやっています。
スポーツジムやヨガスタジオに通年通っていると、よく言われる人のパターンに気付きます。

サンクスギビングからクリスマス、新年は通う人が極端に減り、新年が明けたのちには、人がこぞってやってくる(^^)/

食べすぎて太った分をなんとかしよう、というのもありますが、なんと言っても
新しい年だ。今年は心機一転、頑張ろう!ーという、新年の抱負ですね。
英語ではnew year's resolutionといいます。

2月、3月になるとその効力はだんだん力を失って人が再度減り、4月くらいになるとまた、木の芽時で人が増えます。

面白いものでこのパターンはおおむね、毎年繰り返されます(^^;)。

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みなさんは”新年の抱負”を立てるタイプですか?

私は昔、目標とか計画が大好きで、壮大な計画を立てては途中で終わっていました。

今こうして思い出してみると、新春の抱負を抱く根底には、”新しい自分に生まれ変わりたい”という願望が、とても強くあったような気がします。

どうして生まれ変わりたかったのか。


2020年1月8日水曜日

明けましておめでとうございます

ケーブルカーから見た元旦の富士山
みなさん、遅ればせながら明けましておめでとうございます。
良いお正月を過ごされましたか?

今年は季節外れの暖かい冬だそうですね。天候が荒れたそうですが、みなさんは大丈夫でしたでしょうか。

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年末から年始を日本で過ごすことができました。
私にとっては19年振りの、旦那にとっては初めての日本のお正月でした。

素晴らしかったです!

その前に帰った時は1年半ほど前でしたが、その時よりさらに外国人が増えましたね。
街を歩いていて普通に振り返ると、外国人がたくさん・・・電車でも、店の開店待ちでも。驚きました。

そして英語を普通に話す店員さんの増えたこと。オリンピックへの準備は万全という感じを受けました。
でもこうして見ると、昔むかーしのオリンピックの時はどうしたんでしょうね?
文化の開きも遥かに大きく、英語を話せる人も圧倒的に少なかったあの時代。一体日本人にとっても、外国人にとっても、どんな体験だったのでしょう?興味が湧きます。

しかし日本というのは優秀な国、日本人は優秀な国民です。

2019年12月16日月曜日

You never know


私の家の近所には山があり、滝があります。
3年住んで初めて滝が実際にあることに気づき(名前だけだと思っていました)、探索してみました。写真は滝の始まる地点です。

下を見下ろすと・・・

うひょー!なかなかの高さ。
膝をついて覗き込んでも足がガクガクします。

滝が落ちる下の地点を目指しましたが、道がない。。。。
獣道を歩きながら、人の手がついていない森というのは、木のお墓でもあるんだということに今更気づきました。

・・・なんて、ハイキングとはまったく無縁に育った私が獣道を楽しく歩くようになるなんて、思ってもみませんでした。

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かつて私の人生はまとまっていました。

たくさんの嵐を経験した後、そういった嵐から抜け出して平凡・平和な毎日を過ごしたいと願いました。願いはかなってドラマは減って、ずいぶんまとまった人生になりました。

毎日が予想通りに過ぎていき、人生は固まっていて、どこかわからないけれどお決まりの先に向かって漫然と進んでいる、そんな感じがありました。

20代というのはこういうもので、25を過ぎたら女性の人生はこうで、30を過ぎたらこうで・・・

何かを成し遂げようと必死になって走っていた頃と違って安全な毎日になりましたが、自分の一部はすでに死んでしまっているかのような感覚があり、根底にくすぶる不幸感、不満足感を漫画やら友人とのお出かけやらで無理やり持ち上げているような、そんな感覚の毎日でした。


2019年12月12日木曜日

私たちの全体像


中田敦彦さんのYouTube大学を楽しんでいます。

金融からダビンチの話から・・・世界の3代宗教の話が、キリスト教が主体の国(アメリカ)に住んでいる身には、特に勉強になって面白かったです。

なんと言ったって、旧約聖書から新約聖書から、すべてをあの短時間にまとめて歴史と政治の繋がりまで解説してしまったのだから、凄すぎます。
物事の全体像を示そうとしてくれる、俯瞰図(ふかんず)を提示しようとしている、あの目線・立ち位置が好きです。

そしてこの禅動画では、妙に英語になりながら禅の教えを要約しているのも、おかしくて楽しかったです。

お勧めします!

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俯瞰図、あるいは全体像と言えば・・・

アメリカで結婚してやっと労働許可を受けた後、日系企業に就職しましたが、6〜7年後に人員削減で会社を辞めなければならないことになりました。


2019年12月11日水曜日

J.M

『ニューエイジにおいては、”素晴らしい私になる”、というのが主題である。
どうやって願望実現ができるか、”光り輝く私”になるか、といった話が主眼である。

そのほとんどは非現実的なおとぎ話であり、子供の遊びである。

しかし真摯に人の本質を知りたいと思う人には、入り口がどんなものであろうとも、どこかで必ず”成熟”が訪れる。そして子供じみた遊びから卒業し、旅あるいは成長の次の地点に向かう。

次に多くの人がたどり着くのは”非二元”と呼ばれる概念である。
これも旅の終わりとはまったく関係ない、次のゲームではあるが、

”私”が人生の主役である、という感覚から、
”私”というのはただの幻想である、という気づきへの移行について興味を持つだけでも、多少の成熟はあるかもしれない。

しかしまだ、本当の意味での最初の一歩とは程遠い。
ほとんどの人が概念に埋もれることに終始し、実践には踏み出さずに終わる。

ここでいう実践とは、ヨガやマントラや瞑想やら修行やらのことではない。

連絡フォームについて

知り合いの方から、このブログの連絡フォームが機能していない、というご指摘をいただきました。確認してみたらその通りで、今改善策を模索中です。

ブログを再開した時点から機能していなかった可能性もあり、もし万が一ご連絡いただいていたら、そのようなわけでお返事ができておらず大変申し訳ありません。

ご迷惑をおかけして申し訳ありませんが、もしご連絡下さって返事がきてないよ、という場合には、こちらのフォームより再度ご連絡いただけたら幸いです。

よろしくお願いいたします。


2019年12月3日火曜日

観察


アイダホ州ボイジーのクリスマスライティング
火を噴く怪獣も皮の中にいたりして、寒かったけど
とても楽しかったです。

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起きてくることにイチャモンをつけなくなると、自分に起きていることを本当の意味で観察することができるようになります。

観察する、と言うのは凝視することや特定の物を見つけようとする見方とは違います。
一切邪魔をしないで、物事のありのままをみることです。

小学生の理科の時間に、皆さんは朝顔の観察をしましたか?
かつては誰もがやったと思いますが、今はどうなんでしょうね。

Image result for 朝顔の芽 画像

始めに花壇に行って朝顔の芽を観察した時、先生は私のスケッチを見て「よく見てる、鋭い観察眼だ」と褒めてくれました。「みんな見ろ、こいつはこんなことまでよく気づいてるぞ」と。褒められて嬉しいというより、ただ見たままを描いただけだったのでびくりしました。

さてさて、2回目の観察の時間では、前回褒められたことが頭にあり、どうやってまた同じ結果をもたらそうか、鋭い観察眼を褒めてもらおうかと自意識で一杯のマインドで、朝がおを凝視しました。


2019年11月20日水曜日

エゴの居場所、私という空間性

みなさんもきっと、自分の頭の中で、あのおなじみの声を毎日聞いていると思います。

ああするべきだった、こうするべきだった、ああなったらどうしよう、いやいやこうなったら・・・などと延々におしゃべりを続ける、あの声です。いろんなアドバイスをくれますが、あんまり役に立たないこともたくさん言います。

この頭の中のおしゃべり=思考パターンは、デフォルトモード・ネットワークと呼ばれます。現在では神経科学や脳医学の分野で脳内の位置も特定されており、”エゴの居場所”などとも呼ばれています。頭の中の独り言が盛んなときに脳の特定の部位が活性化するのです。

この思考パターンの中には、日常役に立つ情報もあるのですが(車の運転、コンピューターの操作等、習い覚えたことを自動的に行える)、不毛な心配事、人のあらぬ腹を探って心配する、起きていないことについて思い悩むなどといった、不健康なものもたくさんあります。不毛な考えを囁く声に同一化すると自滅的な行動に走りやすい、同じ不健康な行動パターンを何度も繰り返す、ということもあります。

2019年11月13日水曜日

自己探求 サイケデリック療法

昨年クリスマスを過ごした修道院の修道士のイメージ・・・気持ちは(^^;)

ここ10年くらいの間に、アメリカでは人の意識の研究が科学者や技術者の間でとても盛んに行われています。

神経医学の観点から、脳医学の観点から、はたまた心理学の、薬療法の・・・さらにテクノロジーの研究・開発が加わって、とても面白い話をYouTube始め、あちこちで聞くこと・読むことができます。
学会で”悟り”という言葉をテーマに使用した研究が、数年前から普通に発表されるようになったというのですから、びっくりです。

そんな中で最近、薬物療法を復活させようという動きも再燃しています。
60年代、ヒッピーの時代に盛んだったサイケデリック(幻覚剤)のポジティブな効能を見直そう、という動きです。

私が面白いと思ったのは、マイケル・ポーランというジャーナリストのレポートです。


2019年11月1日金曜日

テスラ君と秋。近況など


テスラ君が我が家にやってきて一年になります。テスラ君は電気自動車で、我が家が買ったのはモデル3です。

注文した車を引き取りに行った時、テスラのお姉さんに、
"Congratulations on getting your Tesla! Your life will never be the same!"
(テスラ取得おめでとう!あなたの人生はまったく違うものになりますよ!)
と言われ、セールストークと軽く聞き流したのですが・・・

いやはや、実際変わりました(^^)。
いろんなすごいことができる車、高い技術が搭載された車、というよりは、
まったく違うコンセプトで作られた乗り物。Completely different beastといった感じです。

想像力が豊かで、いつも一人で別世界に遊びに行っちゃってるような知り合いの若者に、
”どう?車に話しかけてる自分に気付いたりする?”
と聞かれて、一瞬その彼らしい質問に笑いがもれたのですが・・・

ええ、ごく自然にしっかり話しかけています。
”おっ!上手な車線変更だ!よくやった” とか、
”おいおいおい、どこいくつもりだよ?!” とか。

窓が大きいので、車窓から見える秋の景色はきれいです。
天井を見上げると、雲とお日様が、ゆったり広がっています。

でも、完全自動運転までの道のりは、まだまだ遠いというのが実感です。
これで年内に完全運転なんかリリースしたら危険すぎだよ、イーロン君。

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ずいぶん前になりますが、エゴの基盤が弱まっていくにつれ、書けることがどんどんなくなっていったのに気づきました。

私たちのほとんどが、最初に聖なるもの、すべての源であるもの、神、エネルギー、大いなるもの、そういったものをエゴという基盤を通して経験します。


2019年3月13日水曜日

うーん、、、


”ウェブサイトのお引越しします”、
と言ってからはや2ヶ月がすぎ、いまだに引越し完了の気配もありません。

というか、忙しすぎて何もできず。

こんな調子では、引越しどころか自然消滅に繋がるかも、
と思っているところです。

ちなみに、初めてエジプトに行ってきました。

2019年1月30日水曜日

お引越し

近々ウェブサイトのお引越しをします。
完了後、新しいサイトへのリンクを貼ります。

諸々ご面倒をおかけしますが、
どうか今後ともよろしくお願いします。m(_ _)m

2019年1月14日月曜日

あけましておめでとうございます / トラピスト修道院でのリトリート



すっかり遅れましたが、あけましておめでとうございます。\(^_^ )( ^_^)/ 
みなさん、よい新年を迎えられましたか?

と、書き始めたのは先週、まだ新年の挨拶が許される時期でしたが、
なんやかんやで書き終えることができないまま、月も半ばとなってしまいました。

今年もぼちぼちやっていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。m(_ _)m

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新年については、いつもながらアメリカの正月は呆気なく、味気ない、
という以外には何もコメントできることはありません。( - - ;)

が、


クリスマスの1週間、ケンタッキーにあるトラピスト修道院でサイレントリトリートに参加してきました。

通年の異常なギフトショッピングや、異常なギフトオープニング(旦那の実家は丸二日に渡ってこれを行うのです (- -;))から解放されただけでも、ありがたいことこの上なかったですが、

リトリートの素晴らしさは言葉ではとても表わせないものでした。

グーグルのイメージ検索からお借りした写真

2018年12月20日木曜日

祈り

一番最初のポストに書きましたが、私は小さい頃から神様が好きでした。
いろんな神様がいることを知って、知っている限りの神様をカバーすべくお祈りしたので、毎晩とても忙しかったです(笑)。

子供の頃の祈りは、もっぱらお願い事、頼みごとでした。
『神様、これください。』
『明日晴れますように』
『これこれがママにバレませんように』←めっちゃ大事でした(笑)

やがて”後ろの百太郎”の入れ知恵で、お願い事は一方通行ではいけない、ということを学び、お祈りは交渉の色合いを帯びていきました。

『ちゃんと勉強しますので、これこれを叶えてください』
『もっと真面目になりますから、これこれが起きないようにしてください』

交渉はうまくいくときもありましたが、とても大事なことが叶わなかったので、私は神様に怒りを抱えるようになりました。

2018年12月17日月曜日

ヒロさんへの感謝

アメリカ時間の昨晩、resonanz360のヒロさんが、ブログ更新停止という案内を出されました。

ヒロさんと、ヒロさんのブログには本当にお世話になったので、おっしゃっていることはとてもよく理解できるながら、残念な気持ちは否めません。

もう5年前になりますか、トニー・パーソンズが縁でヒロさんのブログを発見したのは。

ヒロさんの旅を読むのも、いろんな人について知るのも、読書やコーヒーの話も好きで、
毎回更新を楽しみにしていました。

ブログから伺える人柄がとても好ましくて(実際にお会いしても、とても楽しかったです)、探求の旅も読み応えもあり、楽しい限りだったんですけどね。

背後霊とか先祖霊とか関連ではない、ハードコアなスピリチュアルブログとしては、日本語では初めて見つけたもので、本当に嬉しかった、ワクワクしたのを覚えています。


2018年11月20日火曜日

目覚めの報酬はない

目覚めることには実際のところ、ご褒美はありません。

確かに、かつて”私”中心で生きていた(エゴ主体で生きてきた)時に比べると、
人生は自然に流れ、格段に楽だと言えます。

ただしそれは、辛い思いをしないのではなく、
不快なことが起きないのでもなく、
むしろただ、不快なままでいられる、というに過ぎません。

私、私の感じること、私の満足感、といったものの重要性が
限りなくゼロに近くなっていくことで、
自分の体験の質やら、感覚やらが大事じゃない、
よくても悪くても大事なことと思えなくなる、というだけです。


2018年11月18日日曜日

夢を見ている主はいるのか


もし私たちが正直に、じっくりと、ありのままを観察するなら、

私たちは刻々と変化するものの複合体・集合体であり、
身体も、感覚も、思考も、環境も、
私たちにまつわるものはすべて、常に変化していることに気づきます。

刻々と変化するものは現象であり、実体がある、とは言えません。

かろうじて言えるのは、”今起きている”、ということだけ。
私たちが私、と呼ぶものは、
それが身体でも、感覚でも、思考でも、感情でも、
今起きている状況について、かろうじて、

”こういう感じがしてる”

と言えるだけ。

しかもそれは、捉えた時にはすでに過ぎ去っており、
ましてや口に出す時にはとっくの昔に終わっています。

だから実際には、その曖昧さといったら例えようもないもので、
”今こう思った(・・・と、思う)”
”今こう考えた(・・・と、思う)”
”今こう感じた(・・・と思う /思ったんだけどね・・・)”

ぐらいの頼りなさです。
もし、自分をしっかりと、はっきりと観察するなら。

意識、気づきですら、現象であることに気づきます。


2018年10月30日火曜日

変わるものの話じゃなく


”私”たちはたゆみなく変化する要素の複合物です。
体、
感情、
感覚、
気分、
意見、
思考、

等、諸々を含めた”私”の経験は、日々刻々と、瞬間瞬間変化します。

常に変わりゆくのが性質であるものを変えようとすること、ある種の状態や形にとどめようとすることには、一切意味がありません。

・・・が、私たちのほとんどが、どれほどの時間とエネルギー、労力をそれに費やしてきたでしょう。
あるいは今も費やしていることに気づくかもしれません。

”こんな私になりたい”
”こんな癖を直したい”
”こうあるべきだ”
”こうあるべきじゃない”
”人間関係を改善したい”
”生活環境を改善したい”

でももし、私たちの興味が存在としての本質を知ることであるなら、

あるいはすべてのものの変化する性質と、変化するものを操作しようとする努力の無意味さに、賢く本当の意味で気づいたら、

あるいは単純に、”私”のゲームに十分に疲れたら、

変えることへの努力を一切捨てて、これまでのあらゆる努力の間、まったく変わらないでいたものは何か、というところに目を向けます。

色々な人が、どうやったら”私”を変えられるか、”経験”を変えられるか、様々なアイデアやテクニック、思想を教えてくれますが、

時間を無駄にしたくなかったら、
エネルギーを無駄遣いしたくなかったら、

変化ではなく、不変のものを指差してくれているものだけを探します。


だって実際のところ、いつまでも生きている保証はないんですから。


この限られた体としての存在、経験の中で、
あなたがたった一つ求めているものはなんでしょうか。

たった一つだけ、知っておくべきことはなんでしょうか。
たった一つだけ、実現したいことはなんでしょう?

それを突き詰めよう、と思っても、
じっとそれと向き合うことができないのはなぜでしょうか。

どんな言葉や経験に深く心を打たれても、
そこからどんな強い決意をしても、
次の瞬間に、数時間後に、数日後にー
いとも簡単にまったく違う方向に流れてしまうのはなぜでしょう?

”私”は変化する媒体でしかないからです。

その変化と経験を、いつも認識しているもの、に興味があったら、
動くものへの興味を諦めます。


2018年10月4日木曜日

静寂、あるいは沈黙の軌跡

最近、バーナデット・ロバーツの”The Path to No-Self"(邦題:『神はいずこに』)を読み終えました。

チラチラとほぼ全体を読んではいましたが、これまではつまみ食いで、初めから終わりまで通して読んだのは、今回が初めてです。

改めて、素晴らしい本でした。

バーナデットは、Silence(静けさ、静寂、沈黙)を表現し続けます。

その表現は非常に的確で、彼女の最初の本、"The Experience of No-Self"(邦題:『無我の経験』)の冒頭で彼女が言ったように、様々な種類・レベルの静寂に、深く馴染んでいるのが伝わります。

これにはもちろん、彼女がカルメル会の修道女であったことも、彼女の子供の頃からの体験に加えて大きく関係します。カルメル会は祈りと観想(あるいは念祷)に、重きを置いています。

”もし私の観想の経験を軌跡とする道があったとしたら、それはこの、限りなく広がり、深まり続ける沈黙(静けさ)の道であったでしょう。”

わかりづらいかと思いますが、

献身を通して目覚めに至る道、
ハートを通して目覚めに至る道、
知恵を通しての道、
聖者の道、

云々、というのを、きっとどれか一度は聞いたことありますよね?
自分が目覚めに至った歩みを表現する道があるとしたら、それは限りなく広がり、かつ深まっていく静寂(沈黙)の道であった、と言っているわけです。

はぁ・・・美しい。


すべてのものの背後にある、”それ”を表す表現を思うとき、

学生時代に遠藤周作の『沈黙』にとても強いインパクトを受けたので、
私は沈黙、という言葉は好きです。

状況によっては、重たい印象も浮かび得る言葉ですが、私にとっては’沈黙’、という言葉に連動して、小石を静かな池や湖に落とした時のような静けさが、自分の内に波紋のように広がります。

外に広がるというよりは、内に沈むような動きです。


’静寂’という言葉に比べると、’沈黙’は誰かが黙っている、誰かが口を閉ざしている、
という、背後に行為者の印象を与えますが、

言葉をきっかけに、それが指してくれている先に、限りない、深い静寂に身を任せると、
’沈黙’、という言葉の後ろに暗示されている’行為者’が、即座に消え去ります。

内に向かった動きも、方向性や焦点を失って何も残りません。


’静けさ’とか’静寂’はどうでしょう。


何か音を立てていたもの、音を立て得るものが静まっている印象を受けます。
静けさや静寂には’動’や’音’の予感を感じます。

”それ”が孕んでいる生を匂わせる表現です。


沈黙、あるいは静寂には、環境的なものもあります。

なかなか気づきづらいのは、”音(動き)の中にある静寂・沈黙”です。

音や動きがあると、私たちの注意はそこにいくのが普通ですから、その周囲に変わらずあるーまたは、音を可能にしている静けさは、見過ごしがちです。

これは環境的な音でも、頭の声でも一緒です。

瞑想を始めたての頃は、周囲がうるさいくて集中できなかった、思考が湧いて集中できなかった、瞑想できなかった、

なんてよく考えますよね。

でもほんのひとたび、音を可能にしている静けさの存在を指摘されると・・・

簡単にその静寂に、”視線が合って”しまう。

この沈黙は人工的なものではなく、すべての生命を孕んでいるから、
どんな嵐の真っ只中でも消えることはないんですね。

一度思い出すと、視線は簡単に戻る。
それが本来、自然なことだから。



限りなく深まる沈黙・静寂に彼女と共に身を浸していくような、本当に贅沢な時間でした。

2018年9月6日木曜日

当たり前の発見

教師養成コースの会場だった場所からのある日の眺め。


”ここで私たちにあるのは、成功の物語ではありません。統合意識で生きる人生には、なんの栄光もないでしょう。”
バーナデット・ロバーツ


”それ”を思っても見なかった形で認識して、衝撃を受けたのですが、
その衝撃を表現する言葉もなく、すべもなく、なにに衝撃を受けたと言うこともできず、ポツンと取り残されていました。

衝撃、というのさえ、正確とは感じられず。

しばらくして、なにかの拍子に道教にちょっと触れる機会があって、
(英語でTaoとは散々目にしてきましたが、これまで惹かれなかったので、まったく調べたことがなかったのです。)

見てみたら・・・あれ?私が中学の時、せっせと小遣いで買って読んでいたのは、道教の本だったのね、とちょっと驚きました。(ええ、そりゃあもう、マニアックな中学生でした(_ _;)。)

そしてかの有名な老子の本には、私の体験をはっきり描写してくれている箇所がありました。表現も、ぴったり。

なるほど、、、、そうだったのね。自分には結構深い道教の影響があったのね。

なんて思いつつベルナデット・ロバーツの本に戻ったら、やはり同じく私が経験したことが、ものの見事な明晰さで表現されていました。

ああ、さすがバーナデット、すごい。

と感謝の気持ちに包まれ、久しぶりにニサルガダッタを手に取ってみたら、
ものすごいパワフルさで、私が経験したことが描写されていました。

ウォッ・・・


・・・・・・・あれ?



そうだよね、みんな同じものを表現してるんだから、共通で見つかるの、当たり前だよね、

と、当たり前すぎることに気が付いて、自分で自分を笑ってしまいました。