最近、バーナデット・ロバーツの”The Path to No-Self"(邦題:『神はいずこに』)を読み終えました。
チラチラとほぼ全体を読んではいましたが、これまではつまみ食いで、初めから終わりまで通して読んだのは、今回が初めてです。
改めて、素晴らしい本でした。
バーナデットは、Silence(静けさ、静寂、沈黙)を表現し続けます。
その表現は非常に的確で、彼女の最初の本、"The Experience of No-Self"(邦題:『無我の経験』)の冒頭で彼女が言ったように、様々な種類・レベルの静寂に、深く馴染んでいるのが伝わります。
これにはもちろん、彼女がカルメル会の修道女であったことも、彼女の子供の頃からの体験に加えて大きく関係します。カルメル会は祈りと観想(あるいは念祷)に、重きを置いています。
”もし私の観想の経験を軌跡とする道があったとしたら、それはこの、限りなく広がり、深まり続ける沈黙(静けさ)の道であったでしょう。”
わかりづらいかと思いますが、
献身を通して目覚めに至る道、
ハートを通して目覚めに至る道、
知恵を通しての道、
聖者の道、
云々、というのを、きっとどれか一度は聞いたことありますよね?
自分が目覚めに至った歩みを表現する道があるとしたら、それは限りなく広がり、かつ深まっていく静寂(沈黙)の道であった、と言っているわけです。
はぁ・・・美しい。
すべてのものの背後にある、”それ”を表す表現を思うとき、
学生時代に遠藤周作の『沈黙』にとても強いインパクトを受けたので、
私は沈黙、という言葉は好きです。
状況によっては、重たい印象も浮かび得る言葉ですが、私にとっては’沈黙’、という言葉に連動して、小石を静かな池や湖に落とした時のような静けさが、自分の内に波紋のように広がります。
外に広がるというよりは、内に沈むような動きです。
’静寂’という言葉に比べると、’沈黙’は誰かが黙っている、誰かが口を閉ざしている、
という、背後に行為者の印象を与えますが、
言葉をきっかけに、それが指してくれている先に、限りない、深い静寂に身を任せると、
’沈黙’、という言葉の後ろに暗示されている’行為者’が、即座に消え去ります。
内に向かった動きも、方向性や焦点を失って何も残りません。
’静けさ’とか’静寂’はどうでしょう。
何か音を立てていたもの、音を立て得るものが静まっている印象を受けます。
静けさや静寂には’動’や’音’の予感を感じます。
”それ”が孕んでいる生を匂わせる表現です。
沈黙、あるいは静寂には、環境的なものもあります。
なかなか気づきづらいのは、”音(動き)の中にある静寂・沈黙”です。
音や動きがあると、私たちの注意はそこにいくのが普通ですから、その周囲に変わらずあるーまたは、音を可能にしている静けさは、見過ごしがちです。
これは環境的な音でも、頭の声でも一緒です。
瞑想を始めたての頃は、周囲がうるさいくて集中できなかった、思考が湧いて集中できなかった、瞑想できなかった、
なんてよく考えますよね。
でもほんのひとたび、音を可能にしている静けさの存在を指摘されると・・・
簡単にその静寂に、”視線が合って”しまう。
この沈黙は人工的なものではなく、すべての生命を孕んでいるから、
どんな嵐の真っ只中でも消えることはないんですね。
一度思い出すと、視線は簡単に戻る。
それが本来、自然なことだから。
限りなく深まる沈黙・静寂に彼女と共に身を浸していくような、本当に贅沢な時間でした。