2018年11月18日日曜日
夢を見ている主はいるのか
もし私たちが正直に、じっくりと、ありのままを観察するなら、
私たちは刻々と変化するものの複合体・集合体であり、
身体も、感覚も、思考も、環境も、
私たちにまつわるものはすべて、常に変化していることに気づきます。
刻々と変化するものは現象であり、実体がある、とは言えません。
かろうじて言えるのは、”今起きている”、ということだけ。
私たちが私、と呼ぶものは、
それが身体でも、感覚でも、思考でも、感情でも、
今起きている状況について、かろうじて、
”こういう感じがしてる”
と言えるだけ。
しかもそれは、捉えた時にはすでに過ぎ去っており、
ましてや口に出す時にはとっくの昔に終わっています。
だから実際には、その曖昧さといったら例えようもないもので、
”今こう思った(・・・と、思う)”
”今こう考えた(・・・と、思う)”
”今こう感じた(・・・と思う /思ったんだけどね・・・)”
ぐらいの頼りなさです。
もし、自分をしっかりと、はっきりと観察するなら。
意識、気づきですら、現象であることに気づきます。
ある瞬間は思考に気づいており、
次の瞬間には思考の中に巻き込まれており、
さらに次の瞬間には、通りかかった人に注意が向かっている。
しかもその動きのどこにも、
いついかなる瞬間に無意識から意識に返ってくるかも、
一切コントロール下にありません。
そんな有様を、本当にしっかりと認識できた時、
それにしっかりと直面で来た時、
果たして、本当に存在していると言えるものはあるのか、
実在していると、絶対的な確信を持って言えるものはあるのか、
という本当の問いが湧きます。
状況に関係なく、いついかなる時も、誰にとっても、何にとっても、
変わりなく、絶対的に存在している、と言えるものはあるのか。
誰かに聞いたから、有名なみんなが言ってるから、本に書いてあるから、
ではなく。
揺れ続ける現象は、すべて”対象物”であることに気づくとき、
ではその対象物を知覚している主観は、”主”はあるのか、
を問うことになります。
なんども、なんども。
限りなく冷静な、平坦なマインドで。
どこにも力の入っていない、感情の力を無用とする情熱を持って。
万華鏡のような、この鮮やかな夢を、
夢見ている主はいるのか。