雪の降った翌日。
お隣の屋根を見たら、この日の空の色は雪の色とおんなじで、空と屋根の境がわからない。
それが妙にくすぐったい気がしたりして。
そしてはたと気づく。
もしお隣さんが眺めたら、自分の家の屋根もきっとこんな風に見えるんだろうなぁ、って。
だけど自分の家の中から、自分の家の屋根は見えないから、私はお隣さんの家を通してしか、これを発見することはできない。
普段は近すぎるように思えるお隣さん。でもお隣さんの家がいなかったら、このくすぐったい光景に気づくことは無い。
お隣さんも私の家なくして、これに気づくことはない。
写真元:Veterinaria, Facebook page |
フェイスブックで見かけた、目が覚めるように美しい鳥。
でもこの鳥は恐らく、自分がどんなに美しいか、一生知ることはない。
羽つくろいをするときに、羽の先端は見えても、自分の全身を見ることはできないから。
水に映った前身は見れても、後ろ姿は見れないから。
自分の全体としての美しさを知ることはない(鳥が気にかけることがあったとして、だけど)。
この美しさは他のもののために存在する。
それを見るもの、それに気づくもののために存在する。
”私の見かけは、私のためではなく、相手のために存在する”という、ダグラス・ハーディングの言葉を思い出す。
その理解が示す、世界の優しい造りに心が溶ける。
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