と、どこかのテレビドラマのような題名で始めてみましたが、バーナデットの続編です。よって格好いい内容でも、笑える話でもありません・・・。
バーナデットは、私たちが個人という認識からすべての本質に帰る過程の中で、二つの大きな転換地点がある、といいます。
一つ目はエゴが無くなること。
二つ目は自己が無くなること。
そしてこの二つはまったく別の事象であるのに関わらず、多くの人が混同している、というのが彼女のこだわりですが、どちらにおいても共通なのは”なくなってみてわかる”、ということだと言います。
エゴがなくなったとき、振り返ってみて、エゴとはなんだったのかわかる。
自己がなくなったとき、振り返ってみて、自己がなんだったのかわかる。
渦中にあるとき、それそのものとして自動的に作動しているときには、それが何であるのかはわからない。失ってみてはじめて、何がなくなったかわかる ― ふりかえるとそこに奴がいるわけです(^^)。
彼女の中で自己という感覚が喪失したとき、彼女はなにが自分に起きたかを知るべく、ありとあらゆる人、著作に助けを求めますが、答えを見つけることができませんでした。ただ、仏教の教えの中に、”人間とはこういうものである”という定義を見つけた後、”これを定義した人は、すでに自己という感覚を超えていたから定義できたのだ”、ということにはたと気がついたといいます。
さて、自分はどうかというと・・・
エゴというのはなんのことだかよくわかりません(^^)
自己という輪郭に気がつくことがありますが、だからどう?という感じです。
バーナデットに限りませんが、存在の本質の深みから湧いて来るものに触れると、あああああーーーと奥深くから共振が起こり、心がしびれます(^^)。昔のように”これは本物か偽物か”と、斜に構えてみることや、詳細を”採点”することができません。ただ純粋に、言葉の根底にあるものに打たれてしまいます。エゴが、過程が、などということを聞けば、”自分はどうなんだろう?”という想念が湧かないわけではありませんが、長続きできません。
こんな表現!すごい!―という味わいが湧くだけ。
そしてもし、エゴが、自己が、ということに興味があるなら・・・
”たった今、ここに存在しているといえるものは何だろう”というところへ返ります。
その瞬間、”私(中心)”という幻想が生む違和感が消え、ありとあらゆるところにある、捉えようのないものとしてのあり方に返り、全身がほっとします。
安心感の中、ふいとコーヒーを淹れる用意にかかったりして。