テレビを見ていたら、突然何かがびゅっと、下から突き上げられたような形で視界に飛び込んできました。
”ええっっ、何?!?!”
マインドが軽いパニック状態となり、”落ち着かなくては!”、”何が起きたか見定めるのだ!”などなどと慌てふためくこと数秒―。
ようやくマインドの焦点があってみたら、視界に飛び込んできたそれは、バレリーナのごとくまっすぐ伸ばして突き上げられた、自分の足でした(^^;)。
・・・えーっと・・・
と、その行動の引き金となったはずの思考を探しても、まったく記憶にない。そしてすぐ、”でも、実際のところ、すべてこういうもんだよなぁ”という思考が来て、あっさり納得してしまいました。
大人になってからは、マインドがこんな強烈な不意打ちを喰らったことはほとんどなかったような気がするけど、子供の頃は結構何度もあったような・・・と不確かな記憶の波が押し寄せます。
「自分でやった癖に何とぼけてんのっ」
「お前が今、言っただろう!」
なんて家族や周囲の人に言われても、”私がやった”というよりは、”そんな言動が起きてしまった”というのが自分にとっては本当のところで、ひどく戸惑ったあの感覚。
何か言う前に考えるのだ、
何かする前に結果を考えるのだ、
自分の考えに責任を持つのだ、
自分のしたことを自分に問い直すのだ、
等々・・・
一生懸命自分に言い聞かせて覚えてきた”私”という責任者が、何もしないでも怒られないとわかって、どんどんどんどん、緩み続けています。
まずご飯を食べてからあれをしよう。
これを片付けてから買い物に行って、帰って来たらメールを書こう。
などなどといった計画案や行動指南の思考が、どんどん自然な行動の速度に追いつかなくなっています。
何を食べ・・・(ようかな?)
思考が終わらないうちに、身体は冷凍庫からパンを取り出し、トースターに入れています。
パン・・・(を焼いているうちにコーヒーを淹れよう)
身体はすでにコップに水を汲んで口に持っていっています。
くるくると動き回り、効率よくどんどん用事を片付けたり―かと思うと、思考が嵐のように押し寄せ、せめぎ立てても、じっとすわって動かなかったりします。
現場監督=”私”が、”何かが間違ってる!”と抗議して、焦燥感や不安感が湧きます。慌てて監督に従い、何かをなんとかしなくては、という思いが湧きます。不安感を抱いて動き回り、そしてまた、はた、と止まります。
”何が間違っているんだろう?”
ああ、監督が頑張ろうとしてたんだな、という気づきが起きて、監督が消え、すべてが終わります。また自然主導の命の流れが戻ってきます。
命が、あるものすべてが、ただ、脈動しています。