片道7時間のドライブの旅から帰り、一日空けてテキサスに飛んできました。ちょっとした旅続きです。
私はもともと旅行が好きです。トニー(パーソンズ)と雑談しているときに、運転中に起きた経験―運転している人と、運転することと、車がすべて同じものだった1瞬の経験―について話したら、”運転してるときに目覚めたって人、よくいるね。”なんて言っていましたが、飛行機に乗っているときにも似たような経験がよくあります。旅は瞑想に最適です。
身体は車や飛行機からの振動で疲れを覚え、思考がそれにつれて騒がしくなる瞬間も多々あります。ここで思考を信じると、それが個人化されて思考はストレスになります。旅の供と喧嘩になるのはこの瞬間です(笑)。でもその感覚をキャッチすると―身体の反応がそれ自体で勝手に起きていること、思考もそれにつられて勝手に起きていることが見え、”私”という感覚が崩れます。”私”はもとより、”人”という感覚もこぼれ落ちて、自分が何であるのかわからなくなったりします。
私が輪郭を持った個体から、すべてが起きる空間に変わってしまう瞬間です。
今回、旅の供にヒロさんお勧めのJ.C. Ambercheleの本の中から『The light that I am』を持ってきました。ここしばらく、目覚めた人たちの本やビデオへの興味が失せていて・・・これまで読み聞きしたことを一切忘れたら何が残るんだろう、ということに興味があって、買っても読まないんじゃないかなぁ・・・なんて迷いながら買った本なんですけど、これが・・・面白い!
興味が湧くとか知的に面白いとかではなくて、文の後ろから伝わって来るものが、なんとも言えない。書き手があまりに”それ”の中にあって、あまりに深く”それ”から書かれていて、読んでいて美味しいことこの上ない。私はハーディングには、たまたまどうも惹かれるものがなくて、そういう意味でも買うのを躊躇したのですが、今までのところ、とても味わい深い本です。目覚めることじゃなくて、”それをどう生きるのか”に焦点があるのもすごく響くものがあるし、著者の置かれた特殊な状況も手伝って、目覚めを通して何かを得ようとしていないのが、このなんとも言えない深さを生んでいるように感じます。
いつもながら、ヒロさんの貴重な情報に感謝です。
2014年12月1日月曜日
2014年11月28日金曜日
知っている、わかっている、私は正しい―”私”の幻想が崩れるとき
私はかつて、自分は色々なことを知っている、と思っていました。知識の収集に力を入れていましたし、自分の知識は”正しい”と思っていました。自分の直感力も、相当なもんだ、と思っていました(笑)。
この”私は知っている”、という思いこみと自信のもとに、見かけた人や出会った人を印象で判断したり、他人の考えているであろうことや、その人のするべきことまで、自分の方が本人よりよく知っていると思っていたんですから、怖いものです。
”あの人はこういう性格に違いない”
”あの人は腹の中でこう思ってるに違いない”
”あの人のやっていることは間違ってる、こうすべきだ” 等々・・・
その結果、たくさんの苦しみを生みました。自分の意見を守るためなら、自分が正しい、ということを押し通すためなら、人との諍いも厭わなかったからです。”愛を取るか、自分が正しくあることを選ぶか”(Do you want to be right or do you want love?)、という言い回しを、私の身の回りの人たちはよく使っていましたが、私は当然、正しくあるためなら、愛などかなぐり捨てる、という方でした。
やがてバイロン・ケイティに出会って、自分の中の思い込みを再検証してみる、ということを学びました。バイロン・ケイティは自分の思い込みに対して、4つの問いを投げかけることを提唱します。
1) それは本当ですか。
2) それが絶対に本当だと、あなたに分かるでしょうか。
3) その思考について考えるとき、あなたはどう反応するでしょう。
4)その思いがなければ、あなたは誰でしょうか。
*参照 http://www.thework.com/downloads/little_book/Japanese_LB.pdf
*英語 http://thework.com/thework-4questions.php
この問いは頭で処理して「本当に決まってるじゃん!」と終わることもできますし、問いと共にどこまでも深く沈んで行くこともできます。また「本当ではない」というのが正しい答え、ということでもありません。
最初は自分が間違っているかも、と考えることすら言語道断、という感じがしましたが、4つの問いと、それに続く”ひっくり返し”をやるうちに、やがて反対側の真実を見る目ができて、はっとしました。一度この、はっとする経験をすると、他の思い込みもばらばらと崩れ始め、再検証は楽になりました。
私にとって私の信じていることが絶対に本当のことと思えるように、他の人にはその人の信じていることが絶対の真実である。だから真実は、人の数だけ存在し得る―そんな単純な事実に心が開かれました。
自分がいかに素早く物事すべてを決めつけるか、ということに気づくとともに、自分が間違っていることに気づくたび、それを嬉しくすら感じるようになりました。
そうするとさらに、自分の思考を疑うのは楽になります。そうやって物事のペースを落としてみて見ると、これまで自動的に白黒判断していたことが、実はグレーであったり、果てはピンクだったりすることに気づいて、本当に驚きました。
スローダウンして見ると、自分が物事をいかにちゃんと見ていないか、聞いていないか、ということにどんどん、どんどん気づきます。やがてその、自分の頭の悪さをシンプルな機能的欠陥として自覚するようになり、何かを見て腹がたったりしたときにも、怒りの思考を信じてより怒りだす代わりに、待てよ、と、すぐに同じ物を見直す癖ができました。
そして自分を盲信すること、物事を誰かのせいと信じるのが難しくなりました。正しくあることも大事ではないというか、今はそれより、この検証の機会を逃すまい、という興味が先にきます。相手に腹が立つとき、”自分の中の何を相手に見ているんだろう?”とすぐに問いがこちらに向きます。相手に関しての批評は、自分の中の自分への批評、思い込みでしかないことが、自分の中で真に事実として自覚されたからです。
ちょっとの間の痛み、プライドの傷やエゴの痛みなんか、物事のありのままを知る自由に比べたら屁でもありません。
自分の信念、思い込みを疑ってみることは、私にとっては本当に価値がありました。そしてもちろん、これは今も続いています。
この”私は知っている”、という思いこみと自信のもとに、見かけた人や出会った人を印象で判断したり、他人の考えているであろうことや、その人のするべきことまで、自分の方が本人よりよく知っていると思っていたんですから、怖いものです。
”あの人はこういう性格に違いない”
”あの人は腹の中でこう思ってるに違いない”
”あの人のやっていることは間違ってる、こうすべきだ” 等々・・・
その結果、たくさんの苦しみを生みました。自分の意見を守るためなら、自分が正しい、ということを押し通すためなら、人との諍いも厭わなかったからです。”愛を取るか、自分が正しくあることを選ぶか”(Do you want to be right or do you want love?)、という言い回しを、私の身の回りの人たちはよく使っていましたが、私は当然、正しくあるためなら、愛などかなぐり捨てる、という方でした。
やがてバイロン・ケイティに出会って、自分の中の思い込みを再検証してみる、ということを学びました。バイロン・ケイティは自分の思い込みに対して、4つの問いを投げかけることを提唱します。
1) それは本当ですか。
2) それが絶対に本当だと、あなたに分かるでしょうか。
3) その思考について考えるとき、あなたはどう反応するでしょう。
4)その思いがなければ、あなたは誰でしょうか。
*参照 http://www.thework.com/downloads/little_book/Japanese_LB.pdf
*英語 http://thework.com/thework-4questions.php
この問いは頭で処理して「本当に決まってるじゃん!」と終わることもできますし、問いと共にどこまでも深く沈んで行くこともできます。また「本当ではない」というのが正しい答え、ということでもありません。
最初は自分が間違っているかも、と考えることすら言語道断、という感じがしましたが、4つの問いと、それに続く”ひっくり返し”をやるうちに、やがて反対側の真実を見る目ができて、はっとしました。一度この、はっとする経験をすると、他の思い込みもばらばらと崩れ始め、再検証は楽になりました。
私にとって私の信じていることが絶対に本当のことと思えるように、他の人にはその人の信じていることが絶対の真実である。だから真実は、人の数だけ存在し得る―そんな単純な事実に心が開かれました。
自分がいかに素早く物事すべてを決めつけるか、ということに気づくとともに、自分が間違っていることに気づくたび、それを嬉しくすら感じるようになりました。
そうするとさらに、自分の思考を疑うのは楽になります。そうやって物事のペースを落としてみて見ると、これまで自動的に白黒判断していたことが、実はグレーであったり、果てはピンクだったりすることに気づいて、本当に驚きました。
スローダウンして見ると、自分が物事をいかにちゃんと見ていないか、聞いていないか、ということにどんどん、どんどん気づきます。やがてその、自分の頭の悪さをシンプルな機能的欠陥として自覚するようになり、何かを見て腹がたったりしたときにも、怒りの思考を信じてより怒りだす代わりに、待てよ、と、すぐに同じ物を見直す癖ができました。
そして自分を盲信すること、物事を誰かのせいと信じるのが難しくなりました。正しくあることも大事ではないというか、今はそれより、この検証の機会を逃すまい、という興味が先にきます。相手に腹が立つとき、”自分の中の何を相手に見ているんだろう?”とすぐに問いがこちらに向きます。相手に関しての批評は、自分の中の自分への批評、思い込みでしかないことが、自分の中で真に事実として自覚されたからです。
ちょっとの間の痛み、プライドの傷やエゴの痛みなんか、物事のありのままを知る自由に比べたら屁でもありません。
自分の信念、思い込みを疑ってみることは、私にとっては本当に価値がありました。そしてもちろん、これは今も続いています。
2014年11月26日水曜日
祈り
私は子供の頃からずっと毎晩、寝る前にお祈りをする習慣がありました。特に何かの宗教に属していたわけではなく、むしろ世の中にあまりたくさんの神様がいて、誰が本物かわからず困惑していたので、誰も怒らせないように知ってるだけの神様全部にお祈りせねばならず、なかなか大変なお仕事でした(笑)。
20代半ばで一度この習慣はやめたのですが、その後10年くらいたって瞑想のコミュニティに参加したときに、自然と祈っている自分に気がつきました。自分の環境、先行き、すべてがあまりにわからない状態で、怖くて不安だったから、というのがあったと思います。
子供の頃のお祈りは、”神様との交渉”でした(笑)。「これこれして下さい、その代わり、一生懸命勉強します。」とかいったものです。確か『後ろの百太郎』かなんかで、守護霊と交信するときに自分の側の約束事を提供して実行するのが有効、と読んだので、それを応用したんだと思います。
コミュニティでの祈りは、最初は「神様助けて下さい」というものでした。深い不安の中で、方向性を与えられることを求めていました。恋愛関係のパートナーについてオーダーしたようにも思います(笑)。
やがて祈りの質がどんどん変わっていきました。
最初は助けを求める切実さから、祈りへ傾ける思いが深まっていったのですが、やがて交渉するのでも、求めるのでもなく、「好きなように使って下さい」という祈りに変わって行きました。「私が求める人生ではなく、あなたが私に求める人生を歩めますように」
神様と呼ばれる、白ヒゲのおじいさんが、どこかの雲の上に座っていると思っていたわけではありませんが、コミュニティで”自分を明け渡す”という概念について学んでいた、その影響も大きかったと思います。
そしてやがて、祈りは沈黙になりました。深く、深く祈り続けるうち、言葉を失ってしまいました。適切な言葉が存在しなかったんです。
それからまた、祈ることが起きない時期が長く続きました。
何年もたったある時、バーナデット・ロバーツの自伝で、『contemplationとは神をみつめることである』とお父さんから教わったいうのを読みました。contemplationというのは黙想、などと訳されますが、カソリックの特定の宗派では、祈りをそのように呼ぶようです。自伝の表紙は彼女が子供の時からお気に入りだった絵画で、カソリックの僧が窓辺にたたずみ、どこかを見ています(ちなみにその絵画は戦時中に失われたもので、彼女の家にあったのは絵画の写真だったそうです。)
ただ、見つめること。
神と呼んでもエネルギーと呼んでもなんでもいいけれど、すべてが存在することを可能にしているものを、ただ見つめること。
本当にそれを見つめる時、それから何かを得ようとすること、それに何かを求めることは不可能な気がします。真の沈黙だけが、それに似合うから―ゆいいつそれと同調できるように思うからです。それにまつわるどんな言葉も努力も、うるさい騒音に感じられます。
そして同時に、その静けさの中では、どんな嵐も可能な気がします。身体に走る痛みも、周囲に起きる出来事と、それに関連してわきあがる思考も、感情も、その根底にある静けさと完全に共にあります。
世の中で一番嫌い、大嫌い、と思っていた出来事も、ただそれ自体の寿命を生きて、消えて行きます。嵐と、とてつもない静けさは、同じ一つのものであるようです。
*バーナデットの自伝は自費出版のみで、彼女のサイトから直接購入となります。リンクはこちら。
20代半ばで一度この習慣はやめたのですが、その後10年くらいたって瞑想のコミュニティに参加したときに、自然と祈っている自分に気がつきました。自分の環境、先行き、すべてがあまりにわからない状態で、怖くて不安だったから、というのがあったと思います。
子供の頃のお祈りは、”神様との交渉”でした(笑)。「これこれして下さい、その代わり、一生懸命勉強します。」とかいったものです。確か『後ろの百太郎』かなんかで、守護霊と交信するときに自分の側の約束事を提供して実行するのが有効、と読んだので、それを応用したんだと思います。
コミュニティでの祈りは、最初は「神様助けて下さい」というものでした。深い不安の中で、方向性を与えられることを求めていました。恋愛関係のパートナーについてオーダーしたようにも思います(笑)。
やがて祈りの質がどんどん変わっていきました。
最初は助けを求める切実さから、祈りへ傾ける思いが深まっていったのですが、やがて交渉するのでも、求めるのでもなく、「好きなように使って下さい」という祈りに変わって行きました。「私が求める人生ではなく、あなたが私に求める人生を歩めますように」
神様と呼ばれる、白ヒゲのおじいさんが、どこかの雲の上に座っていると思っていたわけではありませんが、コミュニティで”自分を明け渡す”という概念について学んでいた、その影響も大きかったと思います。
そしてやがて、祈りは沈黙になりました。深く、深く祈り続けるうち、言葉を失ってしまいました。適切な言葉が存在しなかったんです。
それからまた、祈ることが起きない時期が長く続きました。
何年もたったある時、バーナデット・ロバーツの自伝で、『contemplationとは神をみつめることである』とお父さんから教わったいうのを読みました。contemplationというのは黙想、などと訳されますが、カソリックの特定の宗派では、祈りをそのように呼ぶようです。自伝の表紙は彼女が子供の時からお気に入りだった絵画で、カソリックの僧が窓辺にたたずみ、どこかを見ています(ちなみにその絵画は戦時中に失われたもので、彼女の家にあったのは絵画の写真だったそうです。)
ただ、見つめること。
神と呼んでもエネルギーと呼んでもなんでもいいけれど、すべてが存在することを可能にしているものを、ただ見つめること。
本当にそれを見つめる時、それから何かを得ようとすること、それに何かを求めることは不可能な気がします。真の沈黙だけが、それに似合うから―ゆいいつそれと同調できるように思うからです。それにまつわるどんな言葉も努力も、うるさい騒音に感じられます。
そして同時に、その静けさの中では、どんな嵐も可能な気がします。身体に走る痛みも、周囲に起きる出来事と、それに関連してわきあがる思考も、感情も、その根底にある静けさと完全に共にあります。
世の中で一番嫌い、大嫌い、と思っていた出来事も、ただそれ自体の寿命を生きて、消えて行きます。嵐と、とてつもない静けさは、同じ一つのものであるようです。
*バーナデットの自伝は自費出版のみで、彼女のサイトから直接購入となります。リンクはこちら。
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瞑想
2014年11月23日日曜日
当たり前な奇跡
私が住んでいるのは、アメリカ南部のあまり大きくない街ですが、それでも人種がものすごく多様です。
ショッピングモールなどで立ち止まっていると、目の前をめちゃくちゃ背の高い人、ものすごく低い人、白人、黒人、ヒスパニック、アジア人、各種様々なミックスと、バラエティに富んだ人々が通過していきます。大人、子供、ティーン、老人、男性、女性、どっちともわからない人・・・膨らし粉を飲んだように太った人もいれば、骨と皮ばかりに痩せている人もいます。ファッションも誰一人として同じではありません。真冬にタンクトップを着ている人もいれば、厚手のコートに身を包んでいる人もいる、というのがアメリカです。
誰一人として同じ人はいません。
昔は目につく人すべてに、”あの人太りすぎ。どうやったらあんなに太れるの?”とか、”わー、肌が奇麗”とか、常に批評・批判が自動的に湧いて頭が忙しかったのが、今は誰一人として同じでないことの神秘と、そのすごさに静かに圧倒されながら立っていたりします。
昔はこういう美に気づくと、恍惚感に襲われ、他の何もが手につかないような気がすることがよくあって、それが起きたり消えたりした後の、日常の感覚との落差に戸惑ったりしたのですが、次第にそういう経験に慣れ、特別感も、落差もあまり感じません。ただ当たり前の奇跡に、静かに打たれながら立っています。
女性、男性、といった分類も頭から剥がれ落ち、自分が何を見ているのかすら、わからないような気がします。たくさんの、不思議なものが目の前をめまぐるしく通過していきます。
当たり前の奇跡が、目の前にあふれています。
ショッピングモールなどで立ち止まっていると、目の前をめちゃくちゃ背の高い人、ものすごく低い人、白人、黒人、ヒスパニック、アジア人、各種様々なミックスと、バラエティに富んだ人々が通過していきます。大人、子供、ティーン、老人、男性、女性、どっちともわからない人・・・膨らし粉を飲んだように太った人もいれば、骨と皮ばかりに痩せている人もいます。ファッションも誰一人として同じではありません。真冬にタンクトップを着ている人もいれば、厚手のコートに身を包んでいる人もいる、というのがアメリカです。
誰一人として同じ人はいません。
昔は目につく人すべてに、”あの人太りすぎ。どうやったらあんなに太れるの?”とか、”わー、肌が奇麗”とか、常に批評・批判が自動的に湧いて頭が忙しかったのが、今は誰一人として同じでないことの神秘と、そのすごさに静かに圧倒されながら立っていたりします。
昔はこういう美に気づくと、恍惚感に襲われ、他の何もが手につかないような気がすることがよくあって、それが起きたり消えたりした後の、日常の感覚との落差に戸惑ったりしたのですが、次第にそういう経験に慣れ、特別感も、落差もあまり感じません。ただ当たり前の奇跡に、静かに打たれながら立っています。
女性、男性、といった分類も頭から剥がれ落ち、自分が何を見ているのかすら、わからないような気がします。たくさんの、不思議なものが目の前をめまぐるしく通過していきます。
当たり前の奇跡が、目の前にあふれています。
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宇宙・自然・あれこれ,
神様はここにいる
2014年11月21日金曜日
私の輪郭
前回、私が悟りに関して持っていた、”外にある場所”としてのイメージについてお話ししました。今日は”内側”に抱いていたイメージについてです。
ある時、私の中には、”私”の心理的なイメージ(優しい、意地悪、頭がいい、頭が悪い等々)とともに、身体の輪郭のイメージがあるのに気づきました。例えば足を伸ばした状態で座っていて目を閉じたときには、目の前に自分の足が伸びているイメージが心象風景としてありましたし、いつ目を閉じても、鏡で見た自分の姿のイメージがそこには保たれ、自分の外形、殻とでも呼ぶべきものの感覚が、常にはっきりと感じられるものとしてありました。
この”私”の輪郭のイメージは、自分とそうでないものの境界を作り、個人としての基本的な存在感を支えていました。これはスピリチュアリティとは関係なく持っていたものです。
これに加え、私はオカルト漫画の影響で、”オーラ”という概念を早くに学びました。(多分大抵の方は聞いたことがあると思いますが、オーラとは一般に、人体の周囲に発散されているエネルギー、気の場、電磁場、波動体などなどと説明されています。)そのイメージはこんなものです。
ある時、私の中には、”私”の心理的なイメージ(優しい、意地悪、頭がいい、頭が悪い等々)とともに、身体の輪郭のイメージがあるのに気づきました。例えば足を伸ばした状態で座っていて目を閉じたときには、目の前に自分の足が伸びているイメージが心象風景としてありましたし、いつ目を閉じても、鏡で見た自分の姿のイメージがそこには保たれ、自分の外形、殻とでも呼ぶべきものの感覚が、常にはっきりと感じられるものとしてありました。
この”私”の輪郭のイメージは、自分とそうでないものの境界を作り、個人としての基本的な存在感を支えていました。これはスピリチュアリティとは関係なく持っていたものです。
これに加え、私はオカルト漫画の影響で、”オーラ”という概念を早くに学びました。(多分大抵の方は聞いたことがあると思いますが、オーラとは一般に、人体の周囲に発散されているエネルギー、気の場、電磁場、波動体などなどと説明されています。)そのイメージはこんなものです。
その人の健康状態や心理状態によって色や幅が違う、などといわれます。そしてスピリチュアルな世界では、神、聖人、目覚めた人、マスター達は皆、金色の後光を放っているものとして描かれています。こういう話をたくさん聞いたり、そのバックアップとなるイラストをたくさん見たりすると、マインドにどんなイメージが作られるか・・・簡単に想像つきますよね?
これが私版の、悟りを自分の内に手に入れ、それが外側に溢れ出ている、というイメージですが、見てのとおり、目新しいものではありません。あちこちで見た受け売りのイメージが、自分の中にしっかりと抱え込まれていただけです。そしてこのイメージこそ、”私がなるべき姿”だと信じていました。
私は芸能関係の仕事に縁があり、そこでも存在感=オーラ、というものがとても大切なこととして当たり前に、まことしやかに語られていましたから、ますます”存在感”の拡大を大切なことと信じ込んでいきました。そして自分のオーラの色や幅、存在感の大きさなどといった愚かなことを気にして、自意識を強めていきました。
”私は深い気づきを得たけど、それは外に現れているかしら?人は気づいているかしら?” 私は自分のオーラを雰囲気的に知覚し、それを強めたり、広げたりできているようにすら感じていました。
―(_ _;)やれやれやれやれ。
オーラが実際のものかどうか、というのとは関係ありません。ただ、自分の中に深く根付いていた無用なイメージに、また一つ気づいた、というだけです。悟りに関して抱いていた幻想と、”私”の存在について、確かめてみる機会でした。
リラックスした状態で目を閉じると、周囲や身体に起きている、様々なことに気づきます。音、匂い、身体に起きる感覚―そしてこの気づきは、次から次へと自由に飛び回って、一カ所にあまり長くじっとしていることがありません。
そんな中でやんわりと身体に注意を払って見ると、様々な感覚が湧くのに気づきます。それは胃の中のチリチリするような感覚だったり、肩の痛みだったり、顎の緊張だったり、頭の右側の圧迫感だったり、手足のしびれだったりします。
その一つにさらに優しく注意を向けると、大抵の場合、その感覚は素早く消えてしまいます。とどまっていても、どこからその感覚が始まって、どこで終わっているのか、その輪郭を特定することができないことがわかります。さらに、”肩”に痛みがあると思っていたのに、その”肩”すらも特定できないことに気がつきます。
私が持っていたイメージは”イメージ”であり、身体の外形、枠、殻を確認できないことに気づきます。そこにあるのは移ろいゆく感覚だけです。
実験の結果は、輪郭というイメージの自然な消滅でしたが、それによって、自分が常に周囲と一体であると感じているわけではなく、ただ、無用な架空の枠が一つ消えただけ、という感じです。ものすごい拡大を感じる、というよりは、無用な荷物を下ろした楽さ、という感じです。
2014年11月18日火曜日
真理の場所
マインドは見聞きしたものを、時間と空間の中で特定しようとします。私は自分の中で、真理というのをどこかにある、特定のスポットのようにイメージしていたのに気がつきました。
これは無意識に持っていたイメージです。”真理に目覚め、そこに定着する”なんていう言葉を聞くことによって、ある特定のスポットが空間にあり、それを見つけ、そこへたどり着き、その上に定着する、というような、こんなイメージ(↓)がマインドに形成されていたわけです。
実際にその上に座っているのかどうかというのは別にして(笑)、定着する、という概念からは、定着してない時という幻想が生まれます。このイメージとともに、スポットからこぼれ落ちた(=目覚めたと思たのに、あの感覚がなくなっちゃったわ)、片足だけ引っかかってる(=かすかにわかるような気がするけど・・・)、指先でかすかに触っているような(=そこにあるのはわかってるけど)、といったような、諸々の目覚めに関する架空の体験が生み出されました。
言うまでもなく最初の誤りは、真理を”どこかにあるもの”と捉え、果てはその場所にたどり着いた(=真理を見つけた)、と思うことなんですが・・・
マインドは自分の立ち位置をはっきりさせるのを好みます。時間と空間の中での位置づけを行うと同時に、意味合いも定義しようとします。
「自分なんて存在しない」
「すべては一つだ」
あるいは「マインドなんて存在しない」などといったような洞察、気づきが起きると、それを”真理の定義”として握っておこうとします。この二つが合わさると、真理に辿りついて定着するというのは、こんなイメージですか(↓)
私はこれを、何度も何度も繰り返しました。そのたび運良く、誰かに、あるいは何かの出来事にうまいこと頭を叩かれぺしゃんこになって、握っていたものを手放す結果になりました。本当にありがたいことです。そしてこの作業は今も続いています。
どこか架空の場所、あるいは状態にとどまろうとすること、一つの気づきを普遍のものとして持ち歩くこと、どちらも不可能なことなので、無意味なもがきを生みます。限定され、箱に入れられた真実は、すぐに湿気を帯びて古くカビ臭くなります。でも握れるものがあるほうが、嘘くさくても、つかの間は安心な気がしました。
すべてはわかりたい、という”私”の中に深く根付いた、どうしようもない衝動からきています。わかれば、それを管理、コントロールできると思うからです。そしてコントロールできれば・・・結局、”安心したい”という願望に返って行きます。
あきらめて手放すと、すべてがただ流れて行きます。なにも捕まえることができないのは不安ですが、不安感もふと目を向ける間に流れていきます。何もかもがどうしようもなく変化し続けています。
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