2014年11月21日金曜日

私の輪郭

前回、私が悟りに関して持っていた、”外にある場所”としてのイメージについてお話ししました。今日は”内側”に抱いていたイメージについてです。

ある時、私の中には、”私”の心理的なイメージ(優しい、意地悪、頭がいい、頭が悪い等々)とともに、身体の輪郭のイメージがあるのに気づきました。例えば足を伸ばした状態で座っていて目を閉じたときには、目の前に自分の足が伸びているイメージが心象風景としてありましたし、いつ目を閉じても、鏡で見た自分の姿のイメージがそこには保たれ、自分の外形、殻とでも呼ぶべきものの感覚が、常にはっきりと感じられるものとしてありました。

この”私”の輪郭のイメージは、自分とそうでないものの境界を作り、個人としての基本的な存在感を支えていました。これはスピリチュアリティとは関係なく持っていたものです。

これに加え、私はオカルト漫画の影響で、”オーラ”という概念を早くに学びました。(多分大抵の方は聞いたことがあると思いますが、オーラとは一般に、人体の周囲に発散されているエネルギー、気の場、電磁場、波動体などなどと説明されています。)そのイメージはこんなものです。

その人の健康状態や心理状態によって色や幅が違う、などといわれます。そしてスピリチュアルな世界では、神、聖人、目覚めた人、マスター達は皆、金色の後光を放っているものとして描かれています。こういう話をたくさん聞いたり、そのバックアップとなるイラストをたくさん見たりすると、マインドにどんなイメージが作られるか・・・簡単に想像つきますよね?


これが私版の、悟りを自分の内に手に入れ、それが外側に溢れ出ている、というイメージですが、見てのとおり、目新しいものではありません。あちこちで見た受け売りのイメージが、自分の中にしっかりと抱え込まれていただけです。そしてこのイメージこそ、”私がなるべき姿”だと信じていました。

私は芸能関係の仕事に縁があり、そこでも存在感=オーラ、というものがとても大切なこととして当たり前に、まことしやかに語られていましたから、ますます”存在感”の拡大を大切なことと信じ込んでいきました。そして自分のオーラの色や幅、存在感の大きさなどといった愚かなことを気にして、自意識を強めていきました。

”私は深い気づきを得たけど、それは外に現れているかしら?人は気づいているかしら?” 私は自分のオーラを雰囲気的に知覚し、それを強めたり、広げたりできているようにすら感じていました。
  ―(_ _;)やれやれやれやれ。

オーラが実際のものかどうか、というのとは関係ありません。ただ、自分の中に深く根付いていた無用なイメージに、また一つ気づいた、というだけです。悟りに関して抱いていた幻想と、”私”の存在について、確かめてみる機会でした。

リラックスした状態で目を閉じると、周囲や身体に起きている、様々なことに気づきます。音、匂い、身体に起きる感覚―そしてこの気づきは、次から次へと自由に飛び回って、一カ所にあまり長くじっとしていることがありません。

そんな中でやんわりと身体に注意を払って見ると、様々な感覚が湧くのに気づきます。それは胃の中のチリチリするような感覚だったり、肩の痛みだったり、顎の緊張だったり、頭の右側の圧迫感だったり、手足のしびれだったりします。

その一つにさらに優しく注意を向けると、大抵の場合、その感覚は素早く消えてしまいます。とどまっていても、どこからその感覚が始まって、どこで終わっているのか、その輪郭を特定することができないことがわかります。さらに、”肩”に痛みがあると思っていたのに、その”肩”すらも特定できないことに気がつきます。

私が持っていたイメージは”イメージ”であり、身体の外形、枠、殻を確認できないことに気づきます。そこにあるのは移ろいゆく感覚だけです。

実験の結果は、輪郭というイメージの自然な消滅でしたが、それによって、自分が常に周囲と一体であると感じているわけではなく、ただ、無用な架空の枠が一つ消えただけ、という感じです。ものすごい拡大を感じる、というよりは、無用な荷物を下ろした楽さ、という感じです。