私は子供の頃からずっと毎晩、寝る前にお祈りをする習慣がありました。特に何かの宗教に属していたわけではなく、むしろ世の中にあまりたくさんの神様がいて、誰が本物かわからず困惑していたので、誰も怒らせないように知ってるだけの神様全部にお祈りせねばならず、なかなか大変なお仕事でした(笑)。
20代半ばで一度この習慣はやめたのですが、その後10年くらいたって瞑想のコミュニティに参加したときに、自然と祈っている自分に気がつきました。自分の環境、先行き、すべてがあまりにわからない状態で、怖くて不安だったから、というのがあったと思います。
子供の頃のお祈りは、”神様との交渉”でした(笑)。「これこれして下さい、その代わり、一生懸命勉強します。」とかいったものです。確か『後ろの百太郎』かなんかで、守護霊と交信するときに自分の側の約束事を提供して実行するのが有効、と読んだので、それを応用したんだと思います。
コミュニティでの祈りは、最初は「神様助けて下さい」というものでした。深い不安の中で、方向性を与えられることを求めていました。恋愛関係のパートナーについてオーダーしたようにも思います(笑)。
やがて祈りの質がどんどん変わっていきました。
最初は助けを求める切実さから、祈りへ傾ける思いが深まっていったのですが、やがて交渉するのでも、求めるのでもなく、「好きなように使って下さい」という祈りに変わって行きました。「私が求める人生ではなく、あなたが私に求める人生を歩めますように」
神様と呼ばれる、白ヒゲのおじいさんが、どこかの雲の上に座っていると思っていたわけではありませんが、コミュニティで”自分を明け渡す”という概念について学んでいた、その影響も大きかったと思います。
そしてやがて、祈りは沈黙になりました。深く、深く祈り続けるうち、言葉を失ってしまいました。適切な言葉が存在しなかったんです。
それからまた、祈ることが起きない時期が長く続きました。
何年もたったある時、バーナデット・ロバーツの自伝で、『contemplationとは神をみつめることである』とお父さんから教わったいうのを読みました。contemplationというのは黙想、などと訳されますが、カソリックの特定の宗派では、祈りをそのように呼ぶようです。自伝の表紙は彼女が子供の時からお気に入りだった絵画で、カソリックの僧が窓辺にたたずみ、どこかを見ています(ちなみにその絵画は戦時中に失われたもので、彼女の家にあったのは絵画の写真だったそうです。)
ただ、見つめること。
神と呼んでもエネルギーと呼んでもなんでもいいけれど、すべてが存在することを可能にしているものを、ただ見つめること。
本当にそれを見つめる時、それから何かを得ようとすること、それに何かを求めることは不可能な気がします。真の沈黙だけが、それに似合うから―ゆいいつそれと同調できるように思うからです。それにまつわるどんな言葉も努力も、うるさい騒音に感じられます。
そして同時に、その静けさの中では、どんな嵐も可能な気がします。身体に走る痛みも、周囲に起きる出来事と、それに関連してわきあがる思考も、感情も、その根底にある静けさと完全に共にあります。
世の中で一番嫌い、大嫌い、と思っていた出来事も、ただそれ自体の寿命を生きて、消えて行きます。嵐と、とてつもない静けさは、同じ一つのものであるようです。
*バーナデットの自伝は自費出版のみで、彼女のサイトから直接購入となります。リンクはこちら。