2014年10月30日木曜日

スピリチュアリティという幻想

私たちの世の中は相反するアイデア、概念で構築されていて、私たちは二極の間で常に揺れている、葛藤を繰り返している ―というようなことは、スピリチュアリティに興味のある方なら、大抵はどこかで聞いたことがあると思います。

黒があるから白がある、
低次元があるから高次元がある、
良いとされることがあるから悪いとされることがある、
好きがあるから嫌いがある、

といったようなことです。何かが高いと決められることによって、他のものが低い、と定義される。

ちょっと前ですが、これがスピリチュアリティそのものに当てはまる、ということに今更気づいて驚きました。

私が最初にスピリチュアリティと呼ばれるものに足を突っ込んだとき、”世の中にはスピリチュアルな人とそうでない人がいて、スピリチュアルに目覚めていない人のエネルギーは周波数が低いことが多く、影響を受けないようにしなくてはならない”、といった考えがあちこちで聞かれました。

そして低次元のエネルギーから自分を守るテクニックとか、果てはシールまで販売している人たちがいて、私もせっせとあれこれ習ったり、買ったりしたものです(^^;)

その考えは卒業したかのように思っていましたが、意外にも洗脳は深かったということに気づいて驚きました。

ちなみに気づいたきっかけは、このトレッドミルの上から見たジムの光景です。


私の通うジムにはテレビモニターが何台も据え付けられ、爆音でロックやポップミュージックがかかっています。

私はトレッドミルを使用するとき、このスピリチュアルでない環境を遮断し、高尚なものに注意を向け続けるために、非二次元教師のビデオやオーディオを見たり聞いたりしている自分、というものに気づいて、”あれ?”と思いました。

”すべては一つのものからできている”、”そこにあるのはたった一つのものでしかない”、というメッセージを聞きながら、私はスピリチュアルなものと、そうでなもの、といった区別をつけている。

おやおや・・・

これはスピリチュアルで、

これは違う、と。

スピリチュアルってそもそも何?そんなもの存在するの?

スピリチュアルというのは、概念以外の何物でもないんだ、と今更再認識しました。