私がすべてを選んで動かしている。 周囲の物事が私に向かって起きる。
私に決定権があり、責任がある。 人や物のせい/おかげで、不幸/幸福になる。
個人的には、自分を犠牲者のように感じていた頃は、右側が強く感じられました。調子がよく、自分が物事を管理できているように感じていたときは、左の感覚が強く感じられました。でもいずれにしても、世界観は基本的に同じですね。
”私の内側”も、ある意味、外側のすべての物と同じです。
”私”が”私の内側”を見つめている・・・別の物のように。
”私”という感覚がないとき、世界が・・・というか、力の流れがひっくりかえります。
赤い線は、すべてに満ち満ちている、生命のエネルギー・・・のつもりです(- - ;)。生命のエネルギーには無限の可能性があり、そこから”私”とか、すべてのものが現われては消えます。”私”は大きな海に浮かぶあぶくの一つで、それが他や、ましてや全体をコントロールする、などというのはあり得ません。
初めてこれをはっきり”見た”時は、びっくりしました。今年の春にトニー・パーソンズに会いに行ったときだったと思います。なるほどエクハルト・トールとか、色んな人が、「”私”は神様の振りをしたがる」「”私”は自分が神だと思っている」と言っていたなぁ、と思いました。
気づきは”起きる”のに、”私”は”起こせる”と思っている。
”私”をなくすことすらできると思ってる。すごい・・・・
でもそんな”私”を問題視している間は、視点が最初の絵、”私”という世界の中心に逆戻りしていて、生命のエネルギーはたまに訪れる場所とか、戻りたい場所、いつか永続的なものとして達成される状態、などといったもののように考えていました。
やがて”私”を問題視するばかばかしさが見えて。
さらにあまりにすべてがOKに感じられるようになって。
そうしたらある意味、こんな感じなんですが・・・
同時にすべては個々に違いが際立っている感じでもあります。
そして何よりも、そういった識別をすることが、どうでもいい感じがします。
物事の理解が高まるというよりは、どんどんどうでもよくなり、わからなくなる一方です。物事はあまりにすごいスピードで生まれては消え、来ては去って行くので、”わかろう”とすることは、それを止める―生きているものを檻に閉じ込めるようで、そうする気が起きない、といった感じです。