2014年9月19日金曜日

瞑想とはなにか、どうして瞑想をするのか

先日、瞑想中の意識状態の経験について書きましたが、瞑想とは何か、どうして瞑想をするのか、について書きたいと思います。

瞑想というのは日常の条件思考から自分を解放することです。条件づけられた思考パターンから解放されると、人は自然に存在の本質としてのあり方に戻ります。それが自然な状態だからです。

瞑想=自然で自由なあり方に戻る時間、行為なので、禅をするとか、特定の瞑想方法を練習することであるとは限りません。むしろ、不自然な瞑想法を行うことで、自然なあり方と到底かけ離れた状態を経験することもあります。

それよりも、サーフィンをして波にゆられているときとか、好きな料理に没頭しているときとか、単に目的もなく散歩してるときの方が、真の意味での瞑想に近いと言えます。自然で自由な状態を経験するのに、新しいルールを作ったら、本末転倒です。

集中力を鍛えることを目標とした瞑想法もあります。
神秘体験を作り出すことを目標とした瞑想法もあります。
超能力開発を唄う瞑想法もあります。

私は学生時代、規律とか修行とかに憧れてた時期があって、自分を律するために瞑想する、というのが格好いいと思っていました。

今の私にとっての瞑想とは、前に挙げたように、本来の自然なあり方に戻る行為・時間、それ以外のなにものでもありません。自分の条件づけられた思考パターンから自由になり、自分の存在に関する誤ったイメージから解放されること、これ以上の喜びはありません。

2014年9月18日木曜日

何のために瞑想するのか―アディヤシャンティから学んだこと

アディヤシャンティから学んだことを書きたいと思います。

私は何年も、ただ盲目的に瞑想したり、目覚めに関する様々な教えの本を読んだり、セミナーに参加したりしていました。常に”最上のもの”に目を光らせ、”良い”とか”効果がある”とされるものがあると飛びつく習性があったので、新たなものを取り込んでは盲信する、ということを繰り返していました。その結果、自分の中で様々なアイデアがごっちゃになり、わけもわからないまま架空のゴールに向かって努力を続けていました。自分では自分のやっていることがわかっているつもりでいましたが、実際は相当な迷走状態でした。

アディヤのThe End of Your Worldは、そんな私の目を覚ましてくれた本です。”一体いつになったら、私たちはただいい気分になりたいために瞑想するのをやめるんだろう。”というメッセージにひどく打たれました。怒りの不快感から楽になりたい、嫉妬から楽になりたい、あの愛情に満ち足りた感覚、高揚・恍惚感にいつも浸っていたい・・・私はまさにそのために瞑想や他のワークをしていました。

”一度ここで正直になって、自分がスピリチュアリティから何を得られると思ってやっているのか、本当は何が欲しいのか、自問してみてはどうだろうか”とアディヤは言います。そこで初めて私は立ち止まり、自分が何を欲しがっているのか、自問してみました。

私が欲しかったのは、”私”の幸せです。それはお金が適度にあって(過剰にあるとお金目的の人を周囲に引き寄せる、という恐怖があるので、億万長者にはなりたくありません。適度なお金持ち、です)、人にいつも好かれて、嫌なことが一生起きなくなること、でした(^^;) 

しょうもない答えですが、本音であって、いい、悪いではありません。ただ、自分が何を欲しいと思っているのか、きちんと直視するのだけが目的です。本当に欲しいのは”私”が幸せになることなのに、”真実を知ること”が目的の振りをしていたんだな、と正直になることで、心が解放されました。

じゃ、これが本音だから引き寄せの法則とか、別の方向へ行ったかというと・・・それは起きませんでした。

2014年9月17日水曜日

瞑想:条件反射とエネルギーの浪費に気づく

数ヶ月の集中瞑想をしていたときに、気がついて”ほぉ〜”と思ったことの一つです。

数ヶ月、一日に10時間以上も瞑想していると、否が応でも神経・意識が精妙になっていきます。寝ているのでもない、起きているのでもない、その中間の微妙な意識状態もたくさん経験します。そうすると、通常の生活の中で、私達の意識が、いかに条件付けられた思考パターンやそこから起きる衝動に縛られているかに気がつきます。

寝ているのでも、起きているのでもない微妙な意識状態を、こんな風に表してみます。
それに対し、私たちの注意を引く思考が暴れている状態は、下の絵のように感じられました。
 
普通、静かな部屋にいて、大きな音がしたら自然と注意を奪われますよね?人の話を聞いていても、誰かが部屋にドタバタと入ってきたら、注意がそちらにいきますよね?私たちの注意は通常、自然と目立つ方、インパクトの強い方へ向かいます。

私たちの中に条件づけられた”頭の中の声”は、すごくボリュームが大きいんです。存在の質が粗く、粒が大きいとでもいいましょうか。だから注意がそっちに奪われる。また、私たちの中には、”思考が湧いたらそれに対して何かをしなくてはならない”という条件反射が強く根付いています。

また私たちは、”ボリュームの大きい音=大切なこと、緊急性があること”と勘違いしやすいんです。だから即反応する。そしていちいち反応していると、注意がすべてそちらに縛られてしまうので、意識の精妙なバックグラウンドに気づくチャンスは減ってしまいます。これが通常の生活における、私たちの状態です。(続く)


2014年9月16日火曜日

Trust: 信頼すること、身を委ねること

”私”、”私”、”私”中心の生き方から、存在の本質、生命の根源としてのあり方へと意識が転換したとき、一番変化したのは信頼感がもたらされたことでしょうか。

”私”中心で生きていたときには、何もしないでいるのは耐えられませんでした。予定、用事、目標、何でもいいからするべきことを突っ込んで、”忙しい自分”を維持していました。誰かと電話で永遠に無駄話をすることも、”私”には意義がありました。何もしないでいることは、不安でたまりませんでした。

”私”との距離が空いて、何もない空間が広がるにつれ、体中の力が抜けていきました。

そうしたら、ただ空間にぽつんとあること、何もしないでただあることが、自然に起きるようになりました。何かをして、自分の価値を証明しなくてはいけない、という思いがなくなってしまったからです。まったくそういう思いが湧かないわけではないので、その思考が留守になる時間が増えた、とでも言えばいいでしょうか。その思考を信じる能力が薄れたというのが近いかも知れません。

窓の外で木々が揺れているのを、ただ眺めているだけ。空っぽの頭と、えも言われぬ静かな至福感がそこにあります。

必要なことは自然に起きて来ることを知っていると、今起きていることに、逆らう意義が見つかりません。起きるかもしれないことを予想して、先回りしようとすることの無用さは明白です。

次の行動が起きて来るまで、休憩です。


2014年9月15日月曜日

アディヤシャンティ

数日前、アディヤシャンティが体調不良のため、教師としての活動を減らさざるを得なくなったとメール配信がありました。

前にちょっと書きましたが(過去記事)、私は一時期、アディヤのトークCDを朝から晩まで聞いていた時期があります。彼のセミナーにも二度ほど参加しました。

最初に参加したセミナーでは、若くてさわやかな印象とともに、半袖のシャツから出ていた腕が筋肉で隆々としていたのが印象的でした(笑)。びっくりして、旦那に気づいたか聞いたのを覚えています。意識しなくても気づくほど太かったんです。彼の経歴についてほとんど知らず、勝手に大工さんとか思っていたので、仕事柄かな〜とか思ったりしていました。

二回目のセミナーは、彼が大病をした直後でした。大病をした後だと知らなかったので、あまりに突然老けてしまったように見えて、びっくりしました。

さらに数年後、オンライン・ライブトークを見て、またしても年とってしまったというか、病気なのではないか、という印象を受けて心配になったのを覚えています。

オンライン・ライブトークの後、CD等でトークを聞き、彼の個人的な経験を少し知りました。彼が長年サイクリングの選手であったこと、アスリートとしてのアイデンティティが非常に深く根付いていて、競技をやめた後でも、あたかもオリンピックに挑むかのような訓練を続けていたこと、病気でやめざるを得なかったけれど、治ったとたんにまた猛烈な訓練をはじめたこと・・・、深い目覚めを経験した後も、コントロール不能な、身体を鍛えたいという衝動が続いたそうです。病気がいかに、彼のアスリートとしての古いアイデンティティを捨てざるを得ない状況を作ったか、ということを話していました。

通常のコースに加えてオンライン・ライブトーク、オンライン・セミナーと、時間を惜しんで教師活動をしていたようですが、今後はペースを落とし、しばらくオンライン活動のみ予定しているようです。

命に関わる病気ではないそうですが、よく休んで回復してほしいな、と思います。


2014年9月14日日曜日

”私”という名の宇宙の中心

Source: National Geographic, Photograph by ESO

昨夜、チェンジング・レーンという映画を見ました。好きな俳優が多数出演していましたが、いやはや・・・人々の思惑や思い込みやらが交錯して、単純なことがどんどん複雑になり、弱虫な私は、どうなることやらと神経すり減らしました(_ _;)。きれいごとでまとめず今後のチャレンジを示唆しつつも、ある程度いい結果を見せてくれたエンディングに満足しています。

映画は私たちがいかに、自分が世の中の中心であると思って生きているか、をよく表現していると思いました。

上の写真(本来このトピックとは関連のない写真ですが)で大きく光り輝いている部分は、宇宙の中心でしょうか?この写真ではそんな印象を与えます。が、もし大きな光が写真の片隅にあったら、それでも宇宙の中心に見えるでしょうか。

”私”というものが実在していると思っているときには、”私”が宇宙の中心に思えます。”私”の決断が、行動が、人にどういう風に影響するか、周囲で起きていることは”私”にどういう影響をもたらすか、もたらしたか。”私”の感心ごとは常に”私の人生”という名の映画、物語であり、主役は私、周りの人はすべて脇役です。そうして物事が思い通りにいかないとき、相手が思い通りの反応を示さない時、”なんで??”となります。

”私”という概念が消え、すべての概念の外側に飛び出すとき、すべてのものが空間から現れて、空間へ消えていくことに気づきます。自分が世の中を回しているのでもなければ、世の中が私を中心に旋回しているのでもないことが明白になります。中心が存在しないのです。深淵な空間に、様々なものがいっせいに起きては消え、現れては消えているだけ。規律のない、天然のダンスが踊られているだけ。

上の写真をただ眺めたら―何か意義を見つけようとしたり、分析しようとしたり、特徴を探そうとしたりしないでただ見たら、何が見えるでしょう。