2014年8月31日日曜日

トラップ

疲れやストレスを感じると、人はなぜか、間違ったことが起きているかのように思いがちです。私はそうでしたし、友人を見ていても、アメリカ人、日本人に関わらず、同じような反応をしているのをよく見聞きします。

「これくらいで疲れるべきではない。平気であるべきだ。他の人は平気なのに、どうして私はこれくらいで動揺するんだろう、疲れるんだろう、パニックになるんだろう。」

精神世界では、特にこの傾向が強まるように思います。悟りを開いた人はいつも心が清らかで、何が起きても動揺しないのだ、ということ伝えるメッセージがちまたにあふれかえっているし、そのアイデアは私達の多くにとってとても理にかなっているように思えます。イライラするべきではない。この不出来な自分をなんとかしたい、と思っているのに、目覚めることとイライラはまったく関係ない、などと言われても、受け入れられるわけがありません。だったらなんのために瞑想やら、色んな教えやらがあるのよ?する価値ないじゃん!ーという話になります。

目覚める、悟る、というのは、自然でありのままの現実に還ること、それしか存在していない、ということに目覚めることですから、ほとんどありとあらゆる点で、私達が頭で求めることに反しています。

ありのままの現実は、疲れることも、イライラすることも、パニックすることも含みます。

苦しみの原因は、起きていることを拒否すること、すでに起きたことを起きるべきではない、と考えることにありますが、概念として受け入れるのは、ほとんど100%不可能です。

ただ、"疲れるべきではない"と思いがよぎるとき、『すでに疲れているのに、"〜べきではない"と思う価値はどこにあるのか』自問してみる価値はあります。


2014年8月29日金曜日

私たちが一番好きなこと

”人は自分について知るのが好きなのよ”とカーリーは言います。誰もが心の底で、自分の本当の姿を知りたいと思っている。そして同時に、何よりもそれを恐れている、と。

また、私たちがストレスに集中しているとき―何かが起きて、頭が”これは問題だ!なんとかしなくちゃならない”というモードに突入し、そこに意識が固定されてしまうとき、私たちは自分の一番好きなことを忘れてしまう、と言います。

自分の一番好きなこととは、存在の本質としての自分を思い出すこと、見つめること、です。本質にかえっている瞬間には、”私”という意識は消えていますから、好きも嫌いもありません。が、”私”という意識が戻っている時、その状態で本来一番喜びを感じるのは、自分の本質について聞き、それを思い出すことです。だから多くの人が、目覚めている人の話を聞きに、高いお金を払ってでかけます。

自分の大嫌いなことが起きたとき、無抵抗でいると固定されていた意識がゆるみ、自然に周りの音、景色、匂いといったものに移ります。そしてまた嫌いなことを思い出し、体の緊張を体験し、その状態にどこかではっと気づく。するとまた意識がゆるむ。意識は自分の大嫌いなことと、大好きなことの間を行ったり来たりします。

今朝は、大嫌いなことと、大好きなことは、どう違うんだろう?という疑問がふとわき、チェックしてみました。大嫌いなことと、大好きなことには、違いがありませんでした。探したとたんに好き、嫌い、というラベルが剥がれて、みんな一緒になり、嫌いなものと、それに気づいている自分の境界も見つけられませんでした。

大嫌いなことに集中するのは中毒性があります。今朝は、『問題だぁ、問題だぁ、なんとかするべきだぁ〜』 と頭が騒いでいますが、引き続き、大好きなことを思い出し、大嫌いなことを思い出し、その境をチェックし続けたいと思います。

2014年8月28日木曜日

ナマケモノ

ジョーイ・ロットのメッセージで共鳴したことの一つに、”抵抗しないこと”というのがあります。

なにも新しいことではありません。surrender, non-resistance, let go...精神世界では繰り返し使われてきた言葉・概念です。ただ、言葉は同じでも、それを発する人によって、また自分が受け取るタイミングによって、伝わる内容がやや(だいぶ?)違う気がします。

私がはじめにsurrender、自分を明け渡す、という概念や教えに出会ったときは、”行うべき努力の方向”として受け取りました。”私”に与えられた新たな進むべき方向、前向きに取り組むべき課題、達成すべきゴール・・・あるいは悟りにいたるための条件。

力を抜こうとする状態から、いつしか力が抜けていく状態に変わっていったとき、抵抗しないということの意味が変わりました。
・抵抗しない、というのは、いつでも穏やかで平安という意味ではない。
・抵抗しない、というのは、努力で起きる(または起こせる)ことではない。

あるときから、嫌なこと、嫌いな感情が起きて全身に不快感を感じているときが、最高の実験のチャンスであると気づきました。嫌い、という想いを変えようとせずに、そのまんまでいたらどうなるんだろう?それが癖になってしばらくたってからジョーイに出会いましたが、ジョーイはそれを、”ただナマケモノになるんだ”と表現していました。言葉の裏から、彼が極限まで疲れ果て、もはや抵抗することも努力することも完全に不可能であったときの、その脱力感の経験が伝わるような気がして、さらに抵抗する習慣が緩まり続けました。

この一年、繰り返し繰り返し気づくのは、”私”がいかに落ち着かない存在であるか、ということです。”私”は行動することを求めます。”私”は何かをしてないと、存在を感じられません。”私”は、怠け者であることはとても悪いことだと教わって育ちました。”私”は、油断するとすぐに何かをしようとします。この”私”に、静けさを達成することは不可能です。”私”というのは”動”そのものだからです。

つんのめりに生きるていることに気づくだけ。それだけで、はっと力が抜けました。そしてまたつんのめりになって、またはっと気づく。繰り返しの中で、だんだんと緩んだ状態が長引いて、この自然な状態を取り戻していきます。もっと気づこう、とするのは無用。気づくというのは自然に起きることで、起こせることではないからです。

そうしてどんどんナマケモノな生き方が当たり前になったら、生き方というより、存在の仕方が変わってしまったような気がするのですが、こればかりはどうにも表現不可能です。

関連記事:となりのグル ジョーイ・ロット


2014年8月25日月曜日

彼女のそばにいて思うこと

短いリトリートに行ってきました。私は現在、時間にしばられないとても贅沢な生活をしています。それをわかっているカーリーは、機会があるとリトリートやコースに私を呼び出してくれます。今回は1週間のコースの途中で帰った人がいたので、その空いたスポットに入れてもらい、片付けや次のリトリートへの準備を手伝ってきました。

カーリーのオペレーションは、365日24時間サービス体系です(笑)。参加費を安くして、多くの人が繰り返し参加できるようにするために、ホテルを使わず、個人が提供する自宅や別荘でリトリートを行います。自分の自宅や別荘でコースを開催したい、という希望者が結構いるので、その要望に応える形でコースが開催されます。食材の買い出しから、掃除、簡易ベッドを持ちこんでセットアップしたりと手作り的要素が多く、参加者の指導と合わせて相当な重労働です。一緒に行動するたび、疲れ知らずに働き続ける様を見て、自分には到底できないことだなぁ、と思います。

実際、彼女のアシスタントとして日本に行ったときは、彼女が働く限り通訳である私も働かねばならず、悲鳴をあげる寸前だったのを覚えています。あれから12年たちますが、そのペースは緩むことなく、彼女は呼ばれればすべてに応じて出かけていきます。

予定外のことが起きるのは日常ですから(会場が約束と違ってひどく汚れていたり、あてにしていた手助けが来れなくなったり)、疲労困憊している彼女の姿を見るのは珍しくありません。しかし腰の骨がずれてひどいびっこを引いていても、原因不明の極度の吐き気に襲われていても、自分の状態を気にする様子なく、奉仕し続けます。精神力、体力ともに超人的な気がしますが、そのどちらも意志の力に支えられたものではありません。

また、”今は掃除する時間だからそれに集中して、それ以外のことはしない”というようなコントロールも一切ありません。どんなに忙しい最中でも、誰かが彼女を必要とすれば、すべての手をとめて話を聞きます。

自分、私と私に必要なこと、私の考え、物事のあるべき姿等々、そういった条件付けが剥がれ落ちると、エネルギーはまっすぐに、ふんだんに必要なことに向かって流れるのだなぁと、彼女のそばにいるたび気がつきます。

関連記事:私の師カーリー・イシャヤイシャヤのアセンションとは


2014年8月20日水曜日

2014年8月19日火曜日

変化

私は子供の頃から”不思議大好き”で、幽霊やら、UFOやら、超能力やらといったものにいつも興味がありました。感覚が鋭敏な面があり、人の体のエネルギー状態を見るとか、オーラを見るとかいうことも、自然とできたりしていました。でも若い時は、どちらかと言うと興味がオカルト系に寄っていて、ある時点でこんなのもういや、こういうことには一切縁がなくていい、怖いものを見るくらいなら、特別な能力は一切欲しくない、と思うようになりました。

数年たって、ニューエイジの世界に出会ったわけですが、ここでも色んな神秘体験をしました。昔のオカルトよりはずっと奇麗な世界でしたが、高次元が存在するには低次元が存在しないといけないわけで、低次元への恐怖というのは、ここでも常に存在しました。

ずっとずっと、神秘体験=スピリッチュアルな向上の証、と思ってきたのですが、長年瞑想していくうちに、気がつくと、そういった体験への興味がどんどん薄れていました。昔はとても意味あることと思ってしがみついていた、数々の体験の記憶が薄れて行き、重要性も感じられなくなっていきました。

しかし一方で、覚醒=悟りの証明となる、決定的な体験を追い求め、夢見ていました。これまであちこちに分散していた興味が、この一点に集中したような感じでした。トニー・パーソンズのリトリートで人の話を聞いていて、忘れていたいくつもの、目覚め体験が思い起こされました。”ああ、目覚めなら何度も体験してきたんだ。でもどうして未だに、最後の覚醒が起きないのだろう。” 心の中のもがきは、結構な痛みを伴いました(というか、もがくから痛みが生まれていただけなんですけど・・・)。