年末から年始にかけて、旦那さんの転勤準備で大忙しでした。数時間前にやっと送り出して一息ついたところです。
忙しい最中に、しつこく”自己確認”を繰り返していました。
荷造りをしているのは何か(誰、でもいいんですが、私は”誰”という問いは人を前提にしてしまうので、”何”がしっくりきます)。
運転しているのは何か。
これを持ち上げているのは何か。
呼吸しているのは何か。
思考しているのは何か。
目が見ているのか。耳が聞いているのか。
何が感じているのか。
人に言われたことは一切、スピリチュアリティという名のもとに学んだことも一切なしにして見てみたときに、一体自分とはなんなのか。
チェックすればするほど、謎が深まります。
謎は正体に関するものというより、これまで当然のこととして受け止めて来たこと、確かめもせずに事実として受け入れて来たことの多さに驚き、どうしてそんなことができたんだろう、という謎が次々浮かび上がる、という感じです。
一度”それ”を垣間みたからと言って、すべては終わりません。それどころか、ほんの始まりに過ぎず、何百回、何千回見たところで、すぐに”私”の視点に帰ってしまうことは可能です。
そうして”私”の視点の中で、ふとまた”調べてみる”ことが起き、さらにout of grace―自分の意図や努力とはまったく関係のないところで、ある瞬間にあたり中の壁がばたっと落ちて、無限の真実が唐突に広がります。疑う余地がまったくない現実の中で、一切の問いが消えます。
これまで現実を見る度に、素早く”私”の視点が戻って来て、それを自分の手柄にしていたのが、この数日よく見えました。
”それ”がわかった自分、”それ”にもっと目を向けている自分、”それ”に定着できない自分、自分はいないとわかっている自分、自分で起こせることはないと知っている自分・・・。
”私”の視点からは、わかったのは功績だし、定着できないのは由々しき問題です。
だけど現実の中では、わかっていようがいまいが、定着できようができまいが、一切関係ありません。わかったのは何か、定着できないのは何かに目を向けた瞬間に、またすべてが終わります。flip―コインかなんかのようにパタッと視点がひっくり返る―転換します。
頭がうるさくても、静かでも、感情が波だっていても穏やかでも、幸せであろうと不幸であろうと、元気でも疲れていても、一切関係ない。まったく関係ない。前に知っていた瞬間があって、今は忘れていようが、はっきりわかっていると思っていようが、それも一切関係ない。
それをただ、機会がある限り調べてみる、チェックしてみる。
そしてそれは、本当に、何一つ特別なことではありません。見れば見るほど、素朴な興味がわいていくだけです。自分で調べて、比べてみる以外に、人の言葉で事実・現実を知ることはできません。とんでもないしつこさが湧いています。