”ほんのわずかにでも何かをしようとすることは、純粋さの邪魔をすることなんだ”と言ったのは、U.G.クリシュナムルティです。
集中しようとする、探そうとする、見ようとする、なんでもいいけれど、ほんのちょっとでも何かを試みることは、純粋さを妨げる。
純粋さ、と彼が言っているのは、起きて来るものすべて、のことです。すべてはそれ自体で完全であり、何一つ変える必要などない。そこにほんのちょっとでも、私の意図を加えることは、純粋なものの邪魔をすることになるのだ、と彼は言いました。
ときに、これ(起きてくることの邪魔をしないこと)は、自然に起きてくる願望だというのが私の経験です。
何が起きたときにも、じっと確認を繰り返すと―
怒りが起きる ― 怒っているときには、”それ”は減っているのだろうか?なくなってしまうのだろうか?
ネガティブで重い空気がある ― これは”それ”を変えるだろうか?
幸せ感を感じる ― 高揚しているときは、”それ”は増えているのだろうか?この高揚感は”それ”に影響しているのだろうか?
そこに座っている私の師、カーリーの元には、私のところよりもっと”それ”があるのだろうか?もっと深いのだろうか?もっと澄んでいるのだろうか?もっと拡大しているのだろうか?
すべての状況において、この限りなく透明なものは何にも一切影響されることなく、だた静かにあるのが見えます。しかしこの認識は、一度見たからわかった!と言って持ち運びすることはできません。わかった!―ものはすぐに、記憶としてさびていきます。毎瞬間、新鮮に発見するしかできないことです。
やがてこの”確認”すらも、去って行くものを引き戻すようで、することができなくなります。
そして起きることに逆らったり、検証したりすることができなくなると、”起きていること”と”見ているもの”という、隔たりが消えます。
起きていること、だけが残ります。
”悟り”という幻想 ― 色を変え形を変え、常にそこにあったそこはかとない感覚、何か違うことが起きるかも知れない、何かがあるかもしれない、という幻想も消えます。何か、への期待には、はっきりした違和感があります。
今ある、すべてには何一つ曇りがありません。変わる必要のあるものなど皆無です。