買い物に出かけ歩きながら、”本当のところ、自分が動いてないから体が動いていることがわかるんだよな”、なんて最近おなじみの思考がまたもや走ったと思ったら、突然それも消え去って、どすん、どすん、という身体の振動だけが存在するすべてとなりました。
どすん。。。どすん。。。
私は痩せてはいないかも知れませんが、太ってもいません。でも唐突に歩きの振動だけが世界のすべてになると、衝撃の大きさは結構なもので、このつかの間のおかしな体験から覚めた後、ガリバーの身体にしがみついた小人はこんな感じだったのだろうか、と思ったりしました。
***
家に帰ってあれこれの用事を片付け、寝る前に日課のヒロさんブログ&Tweeterチェック。そして・・・知らんモンは知らん、というブログの、”Wake Up Now”という記事を読み・・・笑い死ぬかと思いました。バーナデット好きの私には、たまらんものがありました。さらにヒロさんブログの色んな人のコメントなど読んで心がなごみ、寝る前にたくさんいいものに触れることができてありがたいなぁ、なんて感謝しながら床に着きました。
そして今日も、重たく回らない頭を抱えて用事にかけずり回った後、一息つこうとパソコンをあけ・・・この世界で知っておくべき、たった一つのこと。というブログの、”空想上の存在”という記事を読んで・・・笑ったこと、笑ったこと。ああもう、素晴らしすぎる。読者のコメントまでいかしてました。
しばらく前でしたが、どらっぐすのちゃんぶる〜日記。というブログの”思考に使う言葉が日本語なのって、考えてみたらおかしいよな”という記事を読んだときには、なにかがピタっとはまるものがありました。
そしてゆりさんのtweetを読んでうっとりしたり・・・
ヒロさんのブログ&Tweetをベースに、色んな人の表現に触れることができ、豊かな気持ちになっています。
んー ありがたいなぁ。
と、脈略のない羅列記事になってしまいましたが、たくさん笑えてあまりにありがたかったので。
今日はとうとう起きなかったペンキ塗り。明日は起きることを祈りつつ・・・。
2015年1月27日火曜日
2015年1月23日金曜日
ほんの少しも邪魔をしないで
”ほんのわずかにでも何かをしようとすることは、純粋さの邪魔をすることなんだ”と言ったのは、U.G.クリシュナムルティです。
集中しようとする、探そうとする、見ようとする、なんでもいいけれど、ほんのちょっとでも何かを試みることは、純粋さを妨げる。
純粋さ、と彼が言っているのは、起きて来るものすべて、のことです。すべてはそれ自体で完全であり、何一つ変える必要などない。そこにほんのちょっとでも、私の意図を加えることは、純粋なものの邪魔をすることになるのだ、と彼は言いました。
ときに、これ(起きてくることの邪魔をしないこと)は、自然に起きてくる願望だというのが私の経験です。
何が起きたときにも、じっと確認を繰り返すと―
怒りが起きる ― 怒っているときには、”それ”は減っているのだろうか?なくなってしまうのだろうか?
ネガティブで重い空気がある ― これは”それ”を変えるだろうか?
幸せ感を感じる ― 高揚しているときは、”それ”は増えているのだろうか?この高揚感は”それ”に影響しているのだろうか?
そこに座っている私の師、カーリーの元には、私のところよりもっと”それ”があるのだろうか?もっと深いのだろうか?もっと澄んでいるのだろうか?もっと拡大しているのだろうか?
すべての状況において、この限りなく透明なものは何にも一切影響されることなく、だた静かにあるのが見えます。しかしこの認識は、一度見たからわかった!と言って持ち運びすることはできません。わかった!―ものはすぐに、記憶としてさびていきます。毎瞬間、新鮮に発見するしかできないことです。
やがてこの”確認”すらも、去って行くものを引き戻すようで、することができなくなります。
そして起きることに逆らったり、検証したりすることができなくなると、”起きていること”と”見ているもの”という、隔たりが消えます。
起きていること、だけが残ります。
”悟り”という幻想 ― 色を変え形を変え、常にそこにあったそこはかとない感覚、何か違うことが起きるかも知れない、何かがあるかもしれない、という幻想も消えます。何か、への期待には、はっきりした違和感があります。
今ある、すべてには何一つ曇りがありません。変わる必要のあるものなど皆無です。
集中しようとする、探そうとする、見ようとする、なんでもいいけれど、ほんのちょっとでも何かを試みることは、純粋さを妨げる。
純粋さ、と彼が言っているのは、起きて来るものすべて、のことです。すべてはそれ自体で完全であり、何一つ変える必要などない。そこにほんのちょっとでも、私の意図を加えることは、純粋なものの邪魔をすることになるのだ、と彼は言いました。
ときに、これ(起きてくることの邪魔をしないこと)は、自然に起きてくる願望だというのが私の経験です。
何が起きたときにも、じっと確認を繰り返すと―
怒りが起きる ― 怒っているときには、”それ”は減っているのだろうか?なくなってしまうのだろうか?
ネガティブで重い空気がある ― これは”それ”を変えるだろうか?
幸せ感を感じる ― 高揚しているときは、”それ”は増えているのだろうか?この高揚感は”それ”に影響しているのだろうか?
そこに座っている私の師、カーリーの元には、私のところよりもっと”それ”があるのだろうか?もっと深いのだろうか?もっと澄んでいるのだろうか?もっと拡大しているのだろうか?
すべての状況において、この限りなく透明なものは何にも一切影響されることなく、だた静かにあるのが見えます。しかしこの認識は、一度見たからわかった!と言って持ち運びすることはできません。わかった!―ものはすぐに、記憶としてさびていきます。毎瞬間、新鮮に発見するしかできないことです。
やがてこの”確認”すらも、去って行くものを引き戻すようで、することができなくなります。
そして起きることに逆らったり、検証したりすることができなくなると、”起きていること”と”見ているもの”という、隔たりが消えます。
起きていること、だけが残ります。
”悟り”という幻想 ― 色を変え形を変え、常にそこにあったそこはかとない感覚、何か違うことが起きるかも知れない、何かがあるかもしれない、という幻想も消えます。何か、への期待には、はっきりした違和感があります。
今ある、すべてには何一つ曇りがありません。変わる必要のあるものなど皆無です。
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U.G.クリシュナムルティ,
悟り
2015年1月19日月曜日
自己とは何か:バーナデットのユニークな表現
バーナデット・ロバーツの最初の本、The Experience of No-Self (邦題『無我の体験』)は、あるとき突然自己という感覚が抜け落ちてしまった彼女の体験について綴った本です。彼女は自分に何がおきたのかわからず、助けを得ようにも同様の体験を持つ人、またはその事象に関する理解を持つ人を見つけることができませんでした。答えを求め、ありとあらゆる宗教的な文献を読みますが、求めていた説明を見つけることはできませんでした。
自分同様、突然このような体験に見舞われた人に、なんらかの理解の助け、道しるべを残してあげたい―そのような思いを持って書かれたのが最初の本です。その後彼女は、自己の喪失に至る過程について段階的に説明する本(The Path to No-Self、邦題『神はいずこに』)を書き、さらに”自己とは何か”をテーマにした本(What is Self?)を書きました。
その後も数冊の本を自費出版し、また非常に限られた形でですが、セミナーも行っています。私が彼女について知ったときには、最初の頃のテーマ、自己とは何か、自己が無くなるに至る過程について(より正確には、人が自己を通して神、もしくはすべてなるものを知り、そこへ帰る過程について)のセミナーは終了していましたが、その内容はビデオに収録され、今も販売されています。
バーナデットの表現は非常にユニークです。セミナーでも手作りの教材をたくさん使いますが、もと小学校の先生だったのがよくわかる、かわいい教材がたくさんあります。
A Passage Through Selfと題されたこのビデオの中では、かわいい教材は使われていませんし、壁には十字架がかかっていますし、バーナデットの服装はまた独特で、多くの方はそれだけで引くかもしれませんが、内容は秀逸です(笑)。そのごくごく、ほんの一部をものすごくかいつまんだ形でご紹介しますと・・・
バーナデットは意識=自己である、と言います。彼女は意識を円という形で表現します。
自分同様、突然このような体験に見舞われた人に、なんらかの理解の助け、道しるべを残してあげたい―そのような思いを持って書かれたのが最初の本です。その後彼女は、自己の喪失に至る過程について段階的に説明する本(The Path to No-Self、邦題『神はいずこに』)を書き、さらに”自己とは何か”をテーマにした本(What is Self?)を書きました。
その後も数冊の本を自費出版し、また非常に限られた形でですが、セミナーも行っています。私が彼女について知ったときには、最初の頃のテーマ、自己とは何か、自己が無くなるに至る過程について(より正確には、人が自己を通して神、もしくはすべてなるものを知り、そこへ帰る過程について)のセミナーは終了していましたが、その内容はビデオに収録され、今も販売されています。
バーナデットの表現は非常にユニークです。セミナーでも手作りの教材をたくさん使いますが、もと小学校の先生だったのがよくわかる、かわいい教材がたくさんあります。
A Passage Through Selfと題されたこのビデオの中では、かわいい教材は使われていませんし、壁には十字架がかかっていますし、バーナデットの服装はまた独特で、多くの方はそれだけで引くかもしれませんが、内容は秀逸です(笑)。そのごくごく、ほんの一部をものすごくかいつまんだ形でご紹介しますと・・・
バーナデットは意識=自己である、と言います。彼女は意識を円という形で表現します。
意識には二つの次元があります。一つ目の次元は”知っている”という次元です。
意識は常に前屈みになって自分を見つめています。主体としての自己が、自らを客体として眺めています。それによって”自分”が存在することを知っています。自己、というのは人の最も直接的な体験です。
なるほどどおりで、私の興味はいつも”私〜 わたし〜”なわけだな、と思ったりもしますし、もうちょっと繊細なレベルで、常に自分の輪郭の認識がそこにあるのも、”自己”というものがある以上当然なのだな、と納得したりします。
意識の二つ目の次元は、”感じる”という次元です。そしてこれは反射的な機能です。
彼女は、意識は神(すべての存在の源、エネルギー、表現はなんでもいいですが、彼女は神という表現を使っています)の上に被せられた、薄いベールのようなものであると言います。
そしてこの意識には、中心点があります。
この中心点は実際には小さな穴で、ここを通してその向こう側=神を認識することができます。
神、あるいはすべての存在の源は、”すべて”なので、そのままでは認識することができません。あまりに壮大で、つかみようがないからです。しかしそれが覆われ、さらに小さな穴があることによって、”焦点”が作り出されます。この焦点に集中することで、神を認識することが可能になるわけです。
多くの人が最初は自分の内を見つめることで神なり、すべての本質なりを見つけ出すのはそのためで、やがてそれが本当に、あたり中にあること、すべてであることを見いだすまで、この自分の一番深い部分で神を認識するのだといいます。
というのは、本当にごく一部の、ものすごい短縮版の紹介ですが、興味のある方はこちらからビデオを購入できます(今見たら私が買ったものと長さが違う・・・作り直したのか聞いてみなくては!)。残念ながら英語のみとなります。
さて、長々とバーナデットの紹介をするに至ったのは、最近気づいたことについて書きたかったからなのですが、長くなったので今日はさすがにここまでとします。
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”私”,
ベルナデット・ロバーツ
2015年1月14日水曜日
視点のない視点
車のドアが壊れてしまったので、オンラインで部品を買い、修理屋さんに持って行って取り付けてもらいました。付けてみたら色が違う・・・部品が届いたところで確認しなかった自分にも、取り付けるときにそれに気づかなかった修理屋さんにも笑えます。そして家まで帰って来たら、車が内側から開かない・・・・(笑!!!)また行かなくては(^^;)
これがアメリカな日常です(笑)。
私が頼みにしている修理屋は、車で40分ほど離れたところにあります。なので運転時間に”自分確認”を楽しむことができます。車を運転しているときは、視界が広くなりやすいです。ダグラス言うところの、「小さい二つの穴から見ているんじゃなくて、一つの大きな目で見ている」ということを自分で調べてみるのが、すごく自然に起きます。それ以前にも自然に起きていたことですが、彼の本を読んで、漠然と経験していたことが意識的に確認できるようになったのは、とても助けになっているというか・・・楽しいです。
”一つの目”と言っても、時折イラストで見るような、大きな目、という感じとはまったく違います。この目には、枠がありません。特定の位置がありません。視点のない目です。実際、目という言葉は特定の部位、その形や機能や位置を連想させるので、大分違うな、と感じますが、この”見ることそのもの”を、他に表す言葉が見つかりません。
顔の前からではなく、頭の後ろから見る、というような表現も何度か聞いたことがありますが、それよりももっと広いというのが私の経験です。むしろ、空間中に”見ること”が溢れているような、満ちているような。それでいて、すべてはまったく透明です。
前を見ながら視点をこちら(自分)に向けると、ぱたっと蓋が開くみたいに中と外が一緒になります。こちら側にあるものと、目の前にあるものはまったく同じ”それ”で、中を見るのと外を見るのには違いがありません。そこでアセンションのテクニックを思い浮かべると、最後の緊張―見る、確認することに伴っていたわずかな緊張―がぐしゃん、と潰れ、突然”それ”だけになります。それが起きるとちょっとした恐怖が湧いて、慌てて普通の機能が戻ってきたりします。
一個一個、毎瞬毎瞬確認してみる。ただ、見て見る。
それに無上の喜びを感じます。やってもやってもやり飽きない。これ自体がご褒美です。
変な感じです。
これがアメリカな日常です(笑)。
私が頼みにしている修理屋は、車で40分ほど離れたところにあります。なので運転時間に”自分確認”を楽しむことができます。車を運転しているときは、視界が広くなりやすいです。ダグラス言うところの、「小さい二つの穴から見ているんじゃなくて、一つの大きな目で見ている」ということを自分で調べてみるのが、すごく自然に起きます。それ以前にも自然に起きていたことですが、彼の本を読んで、漠然と経験していたことが意識的に確認できるようになったのは、とても助けになっているというか・・・楽しいです。
”一つの目”と言っても、時折イラストで見るような、大きな目、という感じとはまったく違います。この目には、枠がありません。特定の位置がありません。視点のない目です。実際、目という言葉は特定の部位、その形や機能や位置を連想させるので、大分違うな、と感じますが、この”見ることそのもの”を、他に表す言葉が見つかりません。
顔の前からではなく、頭の後ろから見る、というような表現も何度か聞いたことがありますが、それよりももっと広いというのが私の経験です。むしろ、空間中に”見ること”が溢れているような、満ちているような。それでいて、すべてはまったく透明です。
前を見ながら視点をこちら(自分)に向けると、ぱたっと蓋が開くみたいに中と外が一緒になります。こちら側にあるものと、目の前にあるものはまったく同じ”それ”で、中を見るのと外を見るのには違いがありません。そこでアセンションのテクニックを思い浮かべると、最後の緊張―見る、確認することに伴っていたわずかな緊張―がぐしゃん、と潰れ、突然”それ”だけになります。それが起きるとちょっとした恐怖が湧いて、慌てて普通の機能が戻ってきたりします。
一個一個、毎瞬毎瞬確認してみる。ただ、見て見る。
それに無上の喜びを感じます。やってもやってもやり飽きない。これ自体がご褒美です。
変な感じです。
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ダグラス・ハーディング,
私の旅
2015年1月11日日曜日
ゼロ地点から眺めたら
先々週、リチャード・ラングによる、ダグラス・ハーディングの『天と地の階層』講演ビデオを見ました。見られる距離によって自分が人であったり星になったりする、という話が最初はピンとこなかったのですが、数時間後、歯を磨こうとしたときにそれがピンときて、その当たり前の事実のすごさにびっくりし、またそれをすっかり見過ごしていたことにも驚きを感じました。
実際は歯ブラシだったんですけど・・・
目の前にあるメジャーは、25cm程度の距離からは、こんな風に見えます。
実際は歯ブラシだったんですけど・・・
目の前にあるメジャーは、25cm程度の距離からは、こんな風に見えます。
そして10cmくらいからだとこんな感じ。
もっと近づくと上のロゴしか見えなくなって・・・。
さらに近づくとロゴの一部しか見えなくなります。
もう写真は取れませんが、これよりもっと近づくと、青い線の一部がクローズアップになります。もう私に見えているのはそれだけです。ロゴでもなければメジャーだなんてとんでもない!という感じです。
そしてそのとき私にclickしたのは(ピンときたのは)、このメジャーに(実際には歯ブラシ)近づくのには限界がある、ということです。目の上に押し付けてもいいけれど、それ以上その中に入って行くことはもちろんできません。だからどうやっても、メジャーや歯ブラシの実際の生身の経験を身を以て知る、ということはできないわけです。
ところが。
唯一それができるところがある。
それが自分。
自分をゼロ距離から眺めてみる―なんて天才的なんだろう!と思いました。そして自分についてのゼロ地点からの生身の現実がわかるのは、自分だけなのだという事実、そのすごさに打たれました。
でもこれは、”私の気持ちは私にしかわからない”というのとはまったく違います。”私の気持ち”は対象物で、ゼロ距離にあるものではありません。
すごい。天才的。
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”私”,
ダグラス・ハーディング
2015年1月7日水曜日
今頃ダグラス・ハーディング
年末のポストと前回のポスト・・・それぞれ翌日読み直して、そのひどさに我ながら仰天しました。気持ちはあっても頭が働いてなかったのがよくわかる。他のポストの文章がきちんとしている、というわけではありませんが、それにしても・・・読んで下さった皆様、大変失礼いたしましたm(_ _)m。(どちらも微妙に修正しましたが、もう一度読んで下さい、とお願いするほどの内容ではございません。)引き続き、家の修繕、引っ越し準備等々に明け暮れておりますので、疲れがにじむ文になるかもしれませんが、よろしくお付き合い下さい。
*************
J. C.アンバーシェルのせいで(おかげで(^^;))、ダグラス・ハーディングを今頃再発見してしまいました。ダグラス・ハーディングについては12-3年前から知っていたのですが、何度手に取ってみてもピンとくるものがなく、読まずに棚に戻す、ビデオも途中でやめる、といったことを繰り返していました。なぜカーリーの推薦図書にダグラスの本がいつも含まれているのか、まったくわかりませんでした。
今見て思うのは、ダグラスが”特別な雰囲気”を醸してなかったためだと思います。前にちょっと書きましたが、私は目覚めた人というのは特別な雰囲気を持っているものだと思い込んでいました。神秘的な沈黙であるとか、カリスマ性とかいうものと、本当の現実を知っている、ということを混同していたので、ごく普通の風貌で、ひょうひょうとおかしな”実験”について語る彼には、興味を引かれなかったわけです。
もちろん、ビデオでは伝わらないものがたくさんありますから(私はトニー・パーソンズは、ビデオと実物では随分感じが違うと思いました)、実際に会う機会があったら、また印象が全然変わっていたかもしれません。
また彼のdetermination―突き詰め方が、悟りを雰囲気として捉え、なんとなくそれを追っかけていただけの私には入って行けなかったんだな、と思います。早く特別な人になりたかっただけで、本当のことを突き詰めたい、などとは思ってなかったので。
今見ると、その突き詰め方にとてつもない尊敬の念が湧きます。どこもかしこも、周り中の何もかも、どれ一つ人から聞いたこと、教わったことを当たり前とせず、確かめまくったその集中力と情熱、純粋さに頭が下がります。
自分とは何かを知るのに、神秘的な要素など一切必要ないのだ、ということをこれだけ明らかに示してくれているのは、本当にありがたいことだなぁ、と深い感謝がわきます。
*************
J. C.アンバーシェルのせいで(おかげで(^^;))、ダグラス・ハーディングを今頃再発見してしまいました。ダグラス・ハーディングについては12-3年前から知っていたのですが、何度手に取ってみてもピンとくるものがなく、読まずに棚に戻す、ビデオも途中でやめる、といったことを繰り返していました。なぜカーリーの推薦図書にダグラスの本がいつも含まれているのか、まったくわかりませんでした。
今見て思うのは、ダグラスが”特別な雰囲気”を醸してなかったためだと思います。前にちょっと書きましたが、私は目覚めた人というのは特別な雰囲気を持っているものだと思い込んでいました。神秘的な沈黙であるとか、カリスマ性とかいうものと、本当の現実を知っている、ということを混同していたので、ごく普通の風貌で、ひょうひょうとおかしな”実験”について語る彼には、興味を引かれなかったわけです。
もちろん、ビデオでは伝わらないものがたくさんありますから(私はトニー・パーソンズは、ビデオと実物では随分感じが違うと思いました)、実際に会う機会があったら、また印象が全然変わっていたかもしれません。
また彼のdetermination―突き詰め方が、悟りを雰囲気として捉え、なんとなくそれを追っかけていただけの私には入って行けなかったんだな、と思います。早く特別な人になりたかっただけで、本当のことを突き詰めたい、などとは思ってなかったので。
今見ると、その突き詰め方にとてつもない尊敬の念が湧きます。どこもかしこも、周り中の何もかも、どれ一つ人から聞いたこと、教わったことを当たり前とせず、確かめまくったその集中力と情熱、純粋さに頭が下がります。
自分とは何かを知るのに、神秘的な要素など一切必要ないのだ、ということをこれだけ明らかに示してくれているのは、本当にありがたいことだなぁ、と深い感謝がわきます。
2015年1月4日日曜日
転換
年末から年始にかけて、旦那さんの転勤準備で大忙しでした。数時間前にやっと送り出して一息ついたところです。
忙しい最中に、しつこく”自己確認”を繰り返していました。
荷造りをしているのは何か(誰、でもいいんですが、私は”誰”という問いは人を前提にしてしまうので、”何”がしっくりきます)。
運転しているのは何か。
これを持ち上げているのは何か。
呼吸しているのは何か。
思考しているのは何か。
目が見ているのか。耳が聞いているのか。
何が感じているのか。
人に言われたことは一切、スピリチュアリティという名のもとに学んだことも一切なしにして見てみたときに、一体自分とはなんなのか。
チェックすればするほど、謎が深まります。
謎は正体に関するものというより、これまで当然のこととして受け止めて来たこと、確かめもせずに事実として受け入れて来たことの多さに驚き、どうしてそんなことができたんだろう、という謎が次々浮かび上がる、という感じです。
一度”それ”を垣間みたからと言って、すべては終わりません。それどころか、ほんの始まりに過ぎず、何百回、何千回見たところで、すぐに”私”の視点に帰ってしまうことは可能です。
そうして”私”の視点の中で、ふとまた”調べてみる”ことが起き、さらにout of grace―自分の意図や努力とはまったく関係のないところで、ある瞬間にあたり中の壁がばたっと落ちて、無限の真実が唐突に広がります。疑う余地がまったくない現実の中で、一切の問いが消えます。
これまで現実を見る度に、素早く”私”の視点が戻って来て、それを自分の手柄にしていたのが、この数日よく見えました。
”それ”がわかった自分、”それ”にもっと目を向けている自分、”それ”に定着できない自分、自分はいないとわかっている自分、自分で起こせることはないと知っている自分・・・。
”私”の視点からは、わかったのは功績だし、定着できないのは由々しき問題です。
だけど現実の中では、わかっていようがいまいが、定着できようができまいが、一切関係ありません。わかったのは何か、定着できないのは何かに目を向けた瞬間に、またすべてが終わります。flip―コインかなんかのようにパタッと視点がひっくり返る―転換します。
頭がうるさくても、静かでも、感情が波だっていても穏やかでも、幸せであろうと不幸であろうと、元気でも疲れていても、一切関係ない。まったく関係ない。前に知っていた瞬間があって、今は忘れていようが、はっきりわかっていると思っていようが、それも一切関係ない。
それをただ、機会がある限り調べてみる、チェックしてみる。
そしてそれは、本当に、何一つ特別なことではありません。見れば見るほど、素朴な興味がわいていくだけです。自分で調べて、比べてみる以外に、人の言葉で事実・現実を知ることはできません。とんでもないしつこさが湧いています。
忙しい最中に、しつこく”自己確認”を繰り返していました。
荷造りをしているのは何か(誰、でもいいんですが、私は”誰”という問いは人を前提にしてしまうので、”何”がしっくりきます)。
運転しているのは何か。
これを持ち上げているのは何か。
呼吸しているのは何か。
思考しているのは何か。
目が見ているのか。耳が聞いているのか。
何が感じているのか。
人に言われたことは一切、スピリチュアリティという名のもとに学んだことも一切なしにして見てみたときに、一体自分とはなんなのか。
チェックすればするほど、謎が深まります。
謎は正体に関するものというより、これまで当然のこととして受け止めて来たこと、確かめもせずに事実として受け入れて来たことの多さに驚き、どうしてそんなことができたんだろう、という謎が次々浮かび上がる、という感じです。
一度”それ”を垣間みたからと言って、すべては終わりません。それどころか、ほんの始まりに過ぎず、何百回、何千回見たところで、すぐに”私”の視点に帰ってしまうことは可能です。
そうして”私”の視点の中で、ふとまた”調べてみる”ことが起き、さらにout of grace―自分の意図や努力とはまったく関係のないところで、ある瞬間にあたり中の壁がばたっと落ちて、無限の真実が唐突に広がります。疑う余地がまったくない現実の中で、一切の問いが消えます。
これまで現実を見る度に、素早く”私”の視点が戻って来て、それを自分の手柄にしていたのが、この数日よく見えました。
”それ”がわかった自分、”それ”にもっと目を向けている自分、”それ”に定着できない自分、自分はいないとわかっている自分、自分で起こせることはないと知っている自分・・・。
”私”の視点からは、わかったのは功績だし、定着できないのは由々しき問題です。
だけど現実の中では、わかっていようがいまいが、定着できようができまいが、一切関係ありません。わかったのは何か、定着できないのは何かに目を向けた瞬間に、またすべてが終わります。flip―コインかなんかのようにパタッと視点がひっくり返る―転換します。
頭がうるさくても、静かでも、感情が波だっていても穏やかでも、幸せであろうと不幸であろうと、元気でも疲れていても、一切関係ない。まったく関係ない。前に知っていた瞬間があって、今は忘れていようが、はっきりわかっていると思っていようが、それも一切関係ない。
それをただ、機会がある限り調べてみる、チェックしてみる。
そしてそれは、本当に、何一つ特別なことではありません。見れば見るほど、素朴な興味がわいていくだけです。自分で調べて、比べてみる以外に、人の言葉で事実・現実を知ることはできません。とんでもないしつこさが湧いています。
2015年1月1日木曜日
明けましておめでとうございます
新年明けましておめでとうございます。
ここ、アメリカ南部の中堅都市では、新年というのはあってなきに等しいものです。アメリカ人は花火が大好きで、色んな休日に花火を上げます。当然、年の瀬のカウントダウンには花火です。そして元旦のみが休日で、2日からはすべてが通常となります。クリスマスの大騒ぎに比べると、正月は一日こっきり。日本の正月を知る者にとってはわびしいものです。
今年はまた、多くの店が新年早々から開いていて、すべてがほぼ通常通り、という感じです。とても素敵な日本食材店が1件だけあったのですが、それもなくなってしまったので、おせちのかわりにインド料理を食べました(^^)。
そんなわびしいお正月ですが、どんなお店に行っても、人々が明るく、「Have a happy new year!」などと挨拶してくれます。買った物の返品に行ってもです。心がこもっていて、深い感謝の気持ちがわきます。すごく満ち足りた気持ちになりました。
昨年このブログを読んで下さった皆様に、心からお礼申し上げます。
本年もどうぞ、よろしくお願いします。m(_ _)m
どうぞよいお正月をお過ごし下さい。
ここ、アメリカ南部の中堅都市では、新年というのはあってなきに等しいものです。アメリカ人は花火が大好きで、色んな休日に花火を上げます。当然、年の瀬のカウントダウンには花火です。そして元旦のみが休日で、2日からはすべてが通常となります。クリスマスの大騒ぎに比べると、正月は一日こっきり。日本の正月を知る者にとってはわびしいものです。
今年はまた、多くの店が新年早々から開いていて、すべてがほぼ通常通り、という感じです。とても素敵な日本食材店が1件だけあったのですが、それもなくなってしまったので、おせちのかわりにインド料理を食べました(^^)。
そんなわびしいお正月ですが、どんなお店に行っても、人々が明るく、「Have a happy new year!」などと挨拶してくれます。買った物の返品に行ってもです。心がこもっていて、深い感謝の気持ちがわきます。すごく満ち足りた気持ちになりました。
昨年このブログを読んで下さった皆様に、心からお礼申し上げます。
本年もどうぞ、よろしくお願いします。m(_ _)m
どうぞよいお正月をお過ごし下さい。
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