”外側でどんな危険なことがおきても、私はここにいるから平気。絶対に脅かされることはない”、という場所。求めていたのは究極の安心感と保証です。
瞑想したら、不動の自分、ゆるがない心の平安が手に入る。
真理を知ったら、二度と混乱せず、いつでも正しい最善の答えがわかるようになる。
要は、傷つくのが嫌、不快な感覚をすべて遠ざけて、好きな物だけで身の回りを固めたかったんです。あたりには、”こうやったらそれが手に入るよ”、とうたうセミナーや本がたくさんありました。
物事の本質を垣間みたとき、”ここに存在するのはたった一つ”、すなわち、秘密にできることなど何もなく、引ける境界線などなく、砦を作ることなどできない、とわかって愕然としました。
よく使われる例えですが、世の中に存在するすべての”形ある物”は”私”も含めて、本当に、命の大海に起きる波のようなものです。波である私の周りに砦を作ることなど、できるはずがありません(_ _;) 波はいつも動いていますし、そもそも、どうやって海や他の波との境を決めることができるでしょうか。
ということは、周囲から自分を切り離して安全な場所に逃げ込むなどありえない・・・命はすべてをありのままに含む。すべてといったらすべて、です。ありのまま、というのは、本当にあるがまま、です。混乱も、みじめさも、迷いも、怒りも、喜びや至福、愛情とすべて同じく含まれるのです。
起きて来ることはただ起きていて、私たちは否応なく、そのすべてとつながっているからです。それが好みにあっていようとなかろうと。
さて、思ってたのと全然違うけど、本当にこんなもんが欲しいのだろうか・・・
と、思った時は手遅れでした。消去ボタンを押しても、記憶から消えない。見なかったふりをするには、はっきり見すぎてしまった。だけど、『好き・嫌い』とか『いい・悪い』という思い込みは自分の中にしっかり残ってる。嫌いなものへの抵抗も、しっかり残ってる・・・よくパニックを起こして、無意識に幻の安全な砦を探し、無い物を探すことで余計に苦しみを増していました。
”唯一の現実”、が何度も、色んな形で明らかになっていくにつれ、好き・嫌いを問題視することがなくなっていました。ただ、これは自分の力の及ぶところではないので、いつどんなところで、ふいにまた同じ反応が起きないとは限らない、そしてそれは、起きて見るまでわからない、といった感じです。