2014年10月8日水曜日

守れるものなどなにもない

私がスピリッチュアリティと呼ばれるものを通して手に入れたかったのは、『絶対に安全な砦』です。

”外側でどんな危険なことがおきても、私はここにいるから平気。絶対に脅かされることはない”、という場所。求めていたのは究極の安心感と保証です。

瞑想したら、不動の自分、ゆるがない心の平安が手に入る。
真理を知ったら、二度と混乱せず、いつでも正しい最善の答えがわかるようになる。

要は、傷つくのが嫌、不快な感覚をすべて遠ざけて、好きな物だけで身の回りを固めたかったんです。あたりには、”こうやったらそれが手に入るよ”、とうたうセミナーや本がたくさんありました。

物事の本質を垣間みたとき、”ここに存在するのはたった一つ”、すなわち、秘密にできることなど何もなく、引ける境界線などなく、砦を作ることなどできない、とわかって愕然としました。

よく使われる例えですが、世の中に存在するすべての”形ある物”は”私”も含めて、本当に、命の大海に起きる波のようなものです。波である私の周りに砦を作ることなど、できるはずがありません(_ _;) 波はいつも動いていますし、そもそも、どうやって海や他の波との境を決めることができるでしょうか。

ということは、周囲から自分を切り離して安全な場所に逃げ込むなどありえない・・・命はすべてをありのままに含む。すべてといったらすべて、です。ありのまま、というのは、本当にあるがまま、です。混乱も、みじめさも、迷いも、怒りも、喜びや至福、愛情とすべて同じく含まれるのです。

守れるものなど、何一つありません。
起きて来ることはただ起きていて、私たちは否応なく、そのすべてとつながっているからです。それが好みにあっていようとなかろうと。

さて、思ってたのと全然違うけど、本当にこんなもんが欲しいのだろうか・・・

と、思った時は手遅れでした。消去ボタンを押しても、記憶から消えない。見なかったふりをするには、はっきり見すぎてしまった。だけど、『好き・嫌い』とか『いい・悪い』という思い込みは自分の中にしっかり残ってる。嫌いなものへの抵抗も、しっかり残ってる・・・よくパニックを起こして、無意識に幻の安全な砦を探し、無い物を探すことで余計に苦しみを増していました。

”唯一の現実”、が何度も、色んな形で明らかになっていくにつれ、好き・嫌いを問題視することがなくなっていました。ただ、これは自分の力の及ぶところではないので、いつどんなところで、ふいにまた同じ反応が起きないとは限らない、そしてそれは、起きて見るまでわからない、といった感じです。