2014年10月16日木曜日

イシャヤのアセンション教師への過程

インディアナのコースから帰ってきました。参加者は新旧生徒、教師含めて13名、とても良いコースでした。

私は12年前、イシャヤのアセンションの教師養成コースに参加する予定でいました。しかし当時の団体が解散してしまい、それは叶わぬこととなりました。このままではアメリカまで来たことの意味がなくなる、それまで色々努力してきたことが無駄になる・・・なんとか自分のやってきたことの意義を見いだそうとして、教師養成コースを自主的に開催することにしました。

私の師カーリーがサポートしてくれ、他に数人が集まり、小さなコースを行いました。

イシャヤのアセンション教師養成コースには、大きく分けて二つの重要なパートがあります。一つは集中的なアセンションで、最低4ヶ月は目を閉じて、一日10時間以上アセンションをします。そしてその後、実際にコースを指導するための準備を行います。

私の小さなコースは4ヶ月後、集中的なアセンションを終えたところで終了となりました。カーリーの判断で、誰一人教師となるための次の過程に進むことはありませんでした。

当時の私は、自分がなにをやっているのか、まったくわかっていませんでした。一なるもの、アセンションではアセンダントと呼んだりしますが、それが何かも意識の上ではわかっていませんでした。あくまで、”私”という観点から、これまで色々犠牲にして頑張ってきたのだから、何かの証を手に入れたい、報酬が欲しい、と思っていただけでした。

頭の片隅では、”今教師になって、一体何を教えるというのだろう?ただアセンションのテクニックを教えればいいというものではない”、とわかっていたので、ならなくてほっとしたのですが、同時に癇癪も起きました。”私”に何もくれないアセンションに、とても腹がたちました。

それから10年以上たって、もう教師になるつもりなどなかったときに、教師になりました(^^;)。おかしなもんです。

教師養成コースの中で一番印象に残っているのは、カーリーの、

"You can't teach what they already are."という言葉です。

”みなすでに命そのものなのだから、教えられることなど何もない。生命そのものに、どうやって生命であることを教えるというのか?”これを聞いたときは水に打たれたような気がしました。

私たちはたまたま、自分が生命そのものであるという事実を繰り返し思い出すことを知り、習慣としている。それを望む人と分かち合うことができる、それだけです。

見知らぬ人々の前に座って話しをするとき、緊張も不安も湧きます。ただその時、そこに座っている”私”のみならず、目の前に座っている”人”などおらず、そこにあるのは命だけだ、と思い出せることは、本当にありがたいことです。