若い頃、「はみだしっこ」という漫画に出会い、大はまりしました。それまで親にかわいがられよう、人に好かれようと直球で努力してたのに、それがどうにもうまくいかなくなっていた時期でした。それでまっすぐであるより、漫画の主人公達みたいな、ちょっと斜に構えた姿勢が格好いいと思うようになりました。素直にかわいくあろうとするのがうまくいかないなら、こっちにいってやる!―てな感じです。
さらに大学時代、つかこうへいにはまったりして、余計に一癖あるのが格好いいと思うようになりました。なんでも素直に受け入れるのではなく、いちいちいちゃもんをつけるのが格好いい、という姿勢です。
内心は不安と恐怖で一杯だったのに、虚栄を張って、ひねくれの美学を実践すべく、できる限りのところまで意地を張りました。時折、すごく心のきれいな人を見て、自分が心底いやになる、ということもありました。あんな風にあれたらなぁ、と深い憧れを感じたのも覚えています。
さて、虚栄心が深いと、受け入れ窓口は極端に小さくなります。いい、と思うものを認められないからです。ある意味、認めたら負けだからです。そしてどんどん、自分を檻に閉じ込める結果となります。前に言ったことを覆すわけにいかないから、メンツが潰れるから、といった愚かしい理由で、どんどんどんどん、色んなものを拒絶していくようになります。そして私は息ができなくなる寸前までいきました。
スピリチュアリティなるものに出会った時、今度は反対の極にまっしぐらに走りました。自分を開くのが偉い、見栄をはるのはいけない、純粋にならなくてはいけない、等々という新しいスタンダードに見合うためです。
一時は自分が良い人間になっていくような気がしたのですが、気がつくと、これもただの拒絶の繰り返しでした。エゴはいけない、ネガティブな思考や態度はいけない、こだわってはいけない、執着してはいけない・・・当然、周囲の人や物も、常にこういった物差しで測っている。窓口は狭くなるばかり、息苦しさは増すばかり。
それでも幸運なことに、様々な人や物に出会い、”ゆるみ”というものが起きていきました。
”ゆるみ”というのは、文字通り、自分の中で固く信じてきたことがゆるむことです。”ゆるみ”が起きると、何層もの無意識の条件付けによって縛られていたエネルギーが、だんだん解放されるような感じがします。拒否感が減ると、”平気なもの”が増えます。これはいけない、これは嫌い、と決めつけ、繰り返し自分に教え込んできたことが、本来の、”すべて平気状態”に帰っていくからです。
すべて平気というのは、すべて好きになる、というのとは違います。嫌いでいることにも、好きでいることにも、感情的なこだわりが湧かない、あるいは継続しない、とでもいいましょうか。
自分に合わない意見も、嫌いな話しも、ひとまず聞けます。それでも嫌いかもしれないけれど、それを問題視することも、逆に自分を正しいと思うこともなんとなくなくなっています。どんな反応、意見、感情、感覚も、ゆるむほどに個人的な色を失っていきます。するとさらに、すべての意見、感情、感覚が一定ではなく、刻々と変わっていることに気づきます。
すべての条件付け、良い悪い、こうあるべき、といったルールや固定的な考えは、この社会で上手に生きて行けるためのものですが、実際のところはあまりうまく機能していないように思います。
真に解放されるには、個人の思考からのみでなく、文化のインプットから、人類の思考の球体から抜け出さなくてはならない、と言ったのはU.G.クリシュナムルティだけではありませんが、私は彼のことをよく思い出します。