ニサルガダッタ・マハラジがその師に、「ただ”私”に意識を向け続けなさい」と言われて、純粋に、ただ言われた通りにやり続け、3年で完全に”在る”ということの本質に目覚めた、というのは(知る人の間では^^)とても有名な話です。
っていうか、すごい話です。
師に会ったのは数回。本当にただ、自分一人で座り続け、見つめ続け。
3年たって完全に本質に目覚めた後も、一度はどこかの山奥に、さらなる深みを求めて行こうとし、その道中でそんな山に行く必要はない、ということに気づいたといいますから、ちょっとはそんな普通の血迷いもあったようですが、様々な瞑想と迷走を続けた我が身を振り返り、そのひたむきさはちょっと真似できん、という感じです。
それ以上にすごいと思うのは、
「”私”に意識を向けなさい」とだけ言われて、それができたこと?
私は10年以上前に”すごい本だ”と聞いて早速 I AM THAT を買っ(てもらっ)たのですが、読んだのはその3年後で、未だに通しで読んだことはありません(^^;)。
初めて読んだとき、『なんだぁ!”私”に集中すればよかったんだぁ!簡単じゃーん!』と本気で大喜びし、我が師カーリーに勇んで報告。
『ニサルガダッタ読んで、やっとわかったわ!”私”に集中すればいいって!これでもう、すればいいことがわかって、迷うことないわー。』
我が師は焦った顔で言いました。
『彼の言っている”私”は、普通に言う”私”ではないのよ。』
つまり、パーソナリテイ的な”私”という感覚ではなく、存在そのものとしての”在る”という感覚なのだ、と。すごい簡単でシンプルな解決策を知ったと思ったのに、そこにトリックがあった(らしい)と知ってがっかりしました(_ _;)。
ただ、つい昨今(っていうか昨日?)、ヒロさんオススメのジョン・シャーマンのインタビューを聞いて学んだところでは、(知る人の間では有名な)ラマナ・マハリシは、”エゴをしっかりつかまえて放すな”と言ったそうなので、また、この方も一人で座り続けた人なので、
いわゆる”私”を注視したとしても、遅かれ早かれ、同じことに気づかざるを得ないのではないかなー、などという、意味のない考えが浮かんだりしていた夕べでした。
さて、積極的な、躍動的な意識を” わたし”と思っているものに向けたら、なにが見つかるのか。なにが”わたし”と思えるのか。
は、
自分で見てみるしかありません。
どこかで聞いた(どうやら)正しい(らしい)答えを捨てて、隙だらけで、無防備に、見てみるしかありません。
しかも、まいしゅん(毎瞬間)。
だって、
それが単に気になるから(^^)。
ただどうしてもやっちゃうから。