2015年6月28日日曜日
層 layer 、あるいはらせん - part 2
昨今、映画を見てもテレビを見ても、物語は指の間からこぼれおちる砂のように、見る先からすり抜けていって、記憶にとどめるのがほとんど不可能のような感じがしていました。
物語が進行している間は、刺激に対する反応が体に起きるのですが、それを支える物語が頭にとどまることがないので、見終わって残るのは体に起きた感覚反応の余韻だけ、とでもいうか。
そしてそれが
最近のトレンドだな、
とか、
近頃こういう風になった、
なぞと思った途端にどっと、反対が押し寄せました。
”AはBだ”
なんていう定義を持った瞬間に、反対の極に大揺れ。
反対の経験が起きること自体になんら問題はないのですが、そこにわずかな苦しみが伴っていることに警報のようなものが鳴って、
なにかおかしいんじゃないの、と。で、
ああ、またある特定の経験を特別視していたんだな、
あたかもなにかに向かって進化・進歩したように 思う、というその思考を信じていたんだな、と気づいて、
ああ、またもやらせん階段だ。同じような経験を、くりかえし、くりかえす。
終わったと思っても、さらに微妙な、精妙な感じでまだ巡ってるーーー
なんて思考がわいたと思ったら、
だれが、”なに”が、その思考を信じていたんだろう?
という思考が即座にやってきて、
さらに、
本当に同じ経験をくりかえしたんだろうか?と。
ほんとうに、まえにもおなじけいけんをしたというしょうこはあるんだろうか?と。
こたえを探さない、ただの問いによって、答えをえるかわりに、足元が、すべてが完全にどしゃん、
とくずれて、
次にちょっとした恐怖がわきます。
その沈黙につながる問いをまったりとたどること数日?
なにかの拍子にやいっ!と、
反対のアイデンティティーに飛び込むような感じのことが起きました。
ほとんど面倒くささから(笑)。
そうしたら、あまりにすべてが、まちがいようもなくわかれていなくて、
その中から”わたし”が、”わたし”することや、
混乱と思える思考も起きては消えていて、それが問題であると思うことは、
狂気の沙汰としか思えない。
花火も飛ばない、火花も散らない、天使もラッパ吹かないごく普通の、
ひょいとした認識の転換だけで、自然の現実が当然ながらそこにあります。
”こちら側”から”あちら側”を理解しようとするのではなくて、
どっちかというと、飛び込むというよりも、もっと無重力な。。。
ぽんぽんぽん、と、すべての服をあたりじゅうにほうりだして
宙に浮かんですっぽんぽんの自由さにかえる感じに近いような。