『なぜか聖書』シリーズ(笑)。
瞑想教師になるためのトレーニングを受けていたときのことですが、”それ”が何か、はっきりわかったと思った後、混乱に陥りました。2回目の混乱の大きな要因は、本当にわかったなら、”それ”を表現できなくてはならないはずなのに、私には”それ”を表現することなどできない、ということでした。
っていうことは、わかったように思ったけど、実は間違っているんではないか・・・?
早速先生のもとへ走ったわけですが、先生との会話は、だいたい以下のような感じに運びました。
私「わかったと思ったのに、とても表現できないんだけど。」
先生「?・・・ああ!理解を完璧にしようと思ってるのね?」
私「そうじゃなくて(絶対そうだったのに、完全否認 (_ _;))・・・本当にわかったなら、表現できないといけないんでしょう?」
先生「誰がそんなこと言ったの?」
私「だって、昨夜もミーティングでそう言ったじゃない??」
先生「そういう風に聞いた、ってことよね。必ずしもそれがそこで言われたこととは限らないわ。」
私「ムムム・・・(またそういう微妙な切り返しをするんだから・・・)」
先生「”それ”を表現することはできないけど、”それ”であることから表現が起きるというのはあるわよね。」
私「うーん・・・私にとっては、色も形も性質もないもので、とても表現するなんてできないんだけど(頑固)。」
彼女は、そう、表現できるものではないわよね、という深い同意を示した直後に、するすると、”それ”を表現し始めました。
先生「これ・・・そこにある椅子であって、この階段の手すりであって、あの花であるもの。あなたであり、”私”でありながら、私はそれである(I am THAT)というにはあまりにも大きくて、おこがましくすら感じられたりする・・・」
そうよね、表現できないわよね、というふうな同意を示した延長上でスルスルと表現した先生には、いつもながらまったく・・・これなんだから、という、呆れにも似た思いに駆られたりしたのですが(同意を示したということ自体、私の解釈でしかなかったんですけど)、同時に、彼女の表現の美しさに魂が魅了される思いでした。
そしてふいに、聖書の2つの節が意識に上って・・・あるいはどっかから降ってきました。
I and my father are one 私と父は一つである
My father is greater than I. 父は私より偉大である。
圧倒的な体感をともなう理解がもたらされ、”ああ、私はこれを絶対忘れることはないだろう、もう迷うことはないだろう”、などと思いました。
・・・も、ち、ろ、ん!みなさま、おわかりのように・・・”わかった”、なぞと思う限り、その後もしっかり迷うのですが (⌒▽⌒)。