choice-less choiceという言葉がくりかえし浮かぶ、今日このごろです。
選択の余地のない選択、選択肢のない選択。好む好まざるに関わらず、そうする以外にない、という表現です。
実際には、起きてくることはすべて、choiceless choiceですから、”あるがまま”の別の顔、といってもいいかも知れません。
”私”という蜃気楼が蜃気楼としてはっきり見えているとき。
”悟り”という蜃気楼の虚実が透けて見えているとき。
”私”と”私のすべきこと”、あるべき姿、取るべき行動、そういった条件付けに気づく間もなく縛られて、ハムスターのごとく回し車の上を必死に走っているとき。
そして、
”私が”、とか、見えている、見えてない、云々のすべてが完全に消えているとき。
それらのすべてが、種から芽が吹き出るように、花がある瞬間に開くように、雲があるとき太陽を覆うように、ただ、それ自体のペースで起きています。
気がつくと、すべてはすでに起きています。
気づいた瞬間に、体中から力が抜けます。
深く、深く、頭が下がる思いがします。