2015年4月10日金曜日

余儀なき選択

choice-less choiceという言葉がくりかえし浮かぶ、今日このごろです。


選択の余地のない選択、選択肢のない選択。好む好まざるに関わらず、そうする以外にない、という表現です。

実際には、起きてくることはすべて、choiceless choiceですから、”あるがまま”の別の顔、といってもいいかも知れません。

”私”という蜃気楼が蜃気楼としてはっきり見えているとき。
”悟り”という蜃気楼の虚実が透けて見えているとき。

”私”と”私のすべきこと”、あるべき姿、取るべき行動、そういった条件付けに気づく間もなく縛られて、ハムスターのごとく回し車の上を必死に走っているとき。

そして、


”私が”、とか、見えている、見えてない、云々のすべてが完全に消えているとき。


それらのすべてが、種から芽が吹き出るように、花がある瞬間に開くように、雲があるとき太陽を覆うように、ただ、それ自体のペースで起きています。

気がつくと、すべてはすでに起きています。


気づいた瞬間に、体中から力が抜けます。

深く、深く、頭が下がる思いがします。