私の師カーリーは、”すべてがこの瞬間に終わる”ということを強調します。アセンション・アチチュードを思い浮かべるとき、”私”という物語が断ち切られ、”私の世界”すべてが消える。そこには問題もない、しなくてはならないこともない。ありのままの現実だけが残る。
”これ以上簡単なことはないでしょう?”彼女は繰り返し言います。
この”簡単なこと”が、簡単ではありませんでした。まず、あまりに退屈すぎる。問題を見つめ、どこかにある完璧な未来、いつか到達すべき完璧な自分に向かって何かをやっていく、という習慣化された衝動が心身を支配しており、そのエネルギーなしで生きていくなど、考えられないことでした。なので定期的に”私の問題”を大げさに抱えて、それに一生懸命取り組んで、自分の進歩に一喜一憂していました。
ある時、アラン・ワットの話を聞いていて、”真実がわからないのは、わかりたくないからだ。他に理由なんてない。本当にわかりたかったら、今この瞬間にわかる。”と言ったのがひどくひっかかりました。それまでにも他の人が同様のこと言っているのを聞きましたが、この時は強く響くものがあり、ビデオを止めて自問しました。”今でも何が真実かわからない、まだ目覚めていないと思うのは、わかりたくないから?本当にわかりたいと思ったら、今わかるんだろうか?”
残念ながら、その瞬間に真実は啓示されませんでした(笑)。ただ、”真実を知りたい、わかりたい=悟りたい、目覚めたい”と言い続ける一方で、実はプロセスに中毒しているだけじゃないのか、という問いが自分に残りました。
カーリーによく言われたことで、長らく拒絶していたことは他にもたくさんありますが(笑)、”真実のためだけに真実を求めるのでなければ、真実を知ることはない。”というのもその一つです。
私の関心は長らく、”私が永遠に完璧に幸せになること”でしたし、”それはもういいから、真実とやらはどうなんだろう?”と思うようになってからも、気がつくと”より素晴らしい私になるため”、あるいは、”私の不幸を取り去る”、が動機になっていることに繰り返し気がつきました。
2014年7月31日木曜日
2014年7月30日水曜日
人の話はもういいから、自分はどうなんだろう
アディヤシャンティというアメリカ人の男性がいます。日本でも多くの人が知っていると思いますが、アメリカでは大変に人気があります。比較的年若くして目覚め、指導者になった人ですが、なんとも言えない優しい空気と鋭いフォーカスを備えた人で、とても魅力的です。私は彼が近郊都市に来た時に、2回ほどミーティングに参加する機会がありました。質問がないのに、彼の注意を浴びたくて質問しようとしたのを覚えています。また受け皿が広いというか、聞いているこちらがうんざりするようなメロドラマチックな質問や、だらだらした質問にも、びっくりを通りこして飽きれるほど好意的に対応します。
私は定期的に誰かにハマってその人のCDやDVD、あるいはYoutubeビデオを延々に見続けるという傾向がありました。アディヤシャンティはその一人で、朝から晩まで―料理しながら、車の運転をしながら、お風呂に浸かりながら―暇さえあればアディヤの話を聞き続けるという生活を数ヶ月間、2度にわたって経験したと思います。二回目は教師養成コースの後で、余計なゴミが消えた頭には彼の明晰で美しい話がとても深く響き、また自分の経験と照らし合わせると、以前とは理解度が比較にならず、聞いても聞いても聞き足りないような気持ちがしました。しかし・・・
彼の話が以前より、いかに深く理解できるか、響くかという話をとうとうと語ったところ、ここでまた、私の師カーリーが、少々気に入らな気な、あるいは何を言っているのかわからない、という表情を浮かべました。彼女の言いたいことは正直、すぐにわかりました。”アチチュードを思い浮かべた時、すべての思考が消え、ただ一つしかない現実があらわになる中で、他に何を理解する必要がある、または理解したと思ってるのだろうか?”
彼女にこのような反応があると、出来の悪い生徒としては、さらっとその話をなかったことにして次の話題に移っていくのですが(叱られないように誤摩化す子供の態度そのままです・笑)、その後、他の会話に交えてちくりと刺すような発言がありました。
”(以前教師養成コースに行った人の例を挙げ)彼はアディヤの話を聞くことを代替えにして、自分でアセンションしようとしない。”
カーリーと同じ側に立っているふりをしたいけれど、自分の中に怪しさを感じているのを隠しきれず、”あ〜”と曖昧な返事をして、その話はさっさと頭の倉庫、記憶の隅に放り込んで忘れました。実際にそれが自分自身への真剣な問いとなったのは、それからまたしばらくたってからです。
ある朝、いつものようにアディヤのCDを聞いていたとき、突然、”もうたくさんだ”という気になりました。CDを止め、椅子に座って自問しました。”目覚めていると言われている人たちの話は、耳が腐るほど聞いた。でも私自身の経験はどうなんだろう?自分にとっての現実はどうなの?”
これまで聞いた、すべての人の悟りに関するすべての話を全部捨てたらどうなる?人の話はもういいから、私には何が現実として見えているんだろう。
その問いが湧いたとき、カーリーの言葉が思い出されました。別にだからどう、というわけではないのですが、あのとき感じたちくり、は、あの時まだ認める準備がなかった自分自身への疑問―人の話を聞くことで、自分が理解を深めているかのような幻想に浸っているのでは?―があったからなんだと、はっきり認識しました。
だからと言って人の話を聞いたり、本を読むのをやめたわけではありません。人の言葉を鵜呑みにしないことを新しいポリシーにしたわけでもありませんが、自分の現実をチェックするということは、自然にもっと起きるようにはなりました。
私は定期的に誰かにハマってその人のCDやDVD、あるいはYoutubeビデオを延々に見続けるという傾向がありました。アディヤシャンティはその一人で、朝から晩まで―料理しながら、車の運転をしながら、お風呂に浸かりながら―暇さえあればアディヤの話を聞き続けるという生活を数ヶ月間、2度にわたって経験したと思います。二回目は教師養成コースの後で、余計なゴミが消えた頭には彼の明晰で美しい話がとても深く響き、また自分の経験と照らし合わせると、以前とは理解度が比較にならず、聞いても聞いても聞き足りないような気持ちがしました。しかし・・・
彼の話が以前より、いかに深く理解できるか、響くかという話をとうとうと語ったところ、ここでまた、私の師カーリーが、少々気に入らな気な、あるいは何を言っているのかわからない、という表情を浮かべました。彼女の言いたいことは正直、すぐにわかりました。”アチチュードを思い浮かべた時、すべての思考が消え、ただ一つしかない現実があらわになる中で、他に何を理解する必要がある、または理解したと思ってるのだろうか?”
彼女にこのような反応があると、出来の悪い生徒としては、さらっとその話をなかったことにして次の話題に移っていくのですが(叱られないように誤摩化す子供の態度そのままです・笑)、その後、他の会話に交えてちくりと刺すような発言がありました。
”(以前教師養成コースに行った人の例を挙げ)彼はアディヤの話を聞くことを代替えにして、自分でアセンションしようとしない。”
カーリーと同じ側に立っているふりをしたいけれど、自分の中に怪しさを感じているのを隠しきれず、”あ〜”と曖昧な返事をして、その話はさっさと頭の倉庫、記憶の隅に放り込んで忘れました。実際にそれが自分自身への真剣な問いとなったのは、それからまたしばらくたってからです。
ある朝、いつものようにアディヤのCDを聞いていたとき、突然、”もうたくさんだ”という気になりました。CDを止め、椅子に座って自問しました。”目覚めていると言われている人たちの話は、耳が腐るほど聞いた。でも私自身の経験はどうなんだろう?自分にとっての現実はどうなの?”
これまで聞いた、すべての人の悟りに関するすべての話を全部捨てたらどうなる?人の話はもういいから、私には何が現実として見えているんだろう。
その問いが湧いたとき、カーリーの言葉が思い出されました。別にだからどう、というわけではないのですが、あのとき感じたちくり、は、あの時まだ認める準備がなかった自分自身への疑問―人の話を聞くことで、自分が理解を深めているかのような幻想に浸っているのでは?―があったからなんだと、はっきり認識しました。
だからと言って人の話を聞いたり、本を読むのをやめたわけではありません。人の言葉を鵜呑みにしないことを新しいポリシーにしたわけでもありませんが、自分の現実をチェックするということは、自然にもっと起きるようにはなりました。
2014年5月18日日曜日
私の旅
多くの人が経験したことだと思いますが、私は子供の頃、自然や神様や不思議なことが大好きでした。幼なじみが幼稚園入園のために、キリスト教の教会に通い始めた時にはとても羨ましく、賛美歌を借りて、巻末に載っていた主の祈りを暗記しました。オカルト好きだった両親が揃えていた漫画、”後ろの百太郎”や”恐怖新聞”の影響で、守護霊様と交信しようとか、道のゴミを拾って善行を積むとか、瞬きを減らして金星人のように潤んだ瞳になるようにするとか・・・いやはや、おかしなことをたくさんしました(笑)。小学校の間に、ブッダ、キリスト、一休さん、ギリシャ神話、日本神話、その他偉人・聖人に関する本をたくさん読み、聖書、ラーマーヤナ、マハーバーラタも読みました。中学に入ってからは、お小遣いをためてはUFO関連の本や密教に関する本を買い、ロウソクの炎を見つめて集中する訓練をしたり、意味もわからないまま般若心経も暗記しました。夜寝る前には知っている限りの神様にお祈りをしました。神様の数は日々増え続け、誰かを忘れて怒らせはしないかと、毎晩心配しながら一生懸命お祈りしました。お祈りの習慣は大学を終える頃まで続きましたが、どうして世の中にはこんなにたくさんの神様がいるのか、いつも不思議に思いました。
一体誰が本当の神様なんだろう?すべてを統一するものはないのだろうか?たった一つ、これだけ信じればいい、というものがあったらいいのに。そうしたらただ一心に、それだけに向けて祈ることができるのに。
大学卒業後、神様のことは忘れ、人生の忙しさに没頭していったのですが、いくつかの挫折を経験し、名声や富、成功を追うことに疲れ果てたときにニュー・エイジの世界に出会い、その美しいアイデアに強く惹かれました。悟り・目覚めこそが人間として到達できる最高の頂点だと思い、その達成に向けて、様々な道を探求しはじめました。そうして長い長い探求の旅を続けました。
旅の終わりは昨年秋に訪れました。自己の本質、存在の本質を体感し、何かを探す旅は終わりました―同時に新しい旅が始まりました。”自分”という感覚が剥がれ落ちていくにつれ、言葉では表現不可能な命の源が、その存在を現していきます。
かつて、私は悟りというものは、個人が努力、信心、修練、修行、浄化等といった過程を経て到達・達成するものだと思っていました。目覚めというものは”最高の自分に生まれ変わる”とか、”最上の自分を達成する”ことだと思っていました。目覚めというものが、”私”に一切関係なく、単に自然な現実がありのままの姿を現すことであるとは、思いもよりませんでした。その自然な現実の中においては、”自己”、”個人”、”私”、というものが、火、水、土といったような一つのエネルギーであり、”私”という個の存在が幻想に過ぎないなどとは、まったく思いもしませんでした。
人が目覚めを迎える―人に目覚めが起きる、悟りが訪れるのに、決まった方式や処方箋などありません。厳しい修行の果てに悟りを迎えたとか、修行の最中のふとした瞬間に悟りを得た、臨死体験で悟りを得た、などという話をたくさん聞き、長年、そういう形でしか起きないのだ、という思い込みが私の呪縛になっていました。実際には、目覚め・スピリッチュアリティなどといったことなど一切聞いたこともなかった人が、バス停でバスを待っている間や、地下鉄に乗っている間に、あるいは車を運転している時に、突然、”それ”を迎えたというケースも数あるといいます。
無限なるものがその姿を現すのに、決まった形や方式などあるわけがありません。
私自身の場合、イシャヤのアセンションと呼ばれるテクニックが旅の供となりました。なので、このブログではイシャヤのアセンションについて多くお話すると思います。また他に、バイロン・ケイティ、アディヤシャンティ、トニー・パーソンズ、UG クリシュナムルティ、デービッド・ホーキンズ、ベルナデット・ロバーツ、アンソニー・デ・メロ、といった方々に深い影響を受けています。これらの方々についても、出会いを通じて教わったこと等、書いていきたいと思います。
興味ある内容について、カテゴリーから選択して読んで頂けたら幸いです。
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私の旅
2014年5月13日火曜日
私の師 カーリー・イシャヤ
私のここ13年間の旅は、私の師との出会い、その影響を除いて語ることはできません。
私の師はカーリー・イシャヤというアメリカ人女性です。カーリーというのはヒンドゥー神の名前で、彼女がイシャヤの僧侶となる誓いをたてたときに与えられた名前です。彼女の人生はイシャヤのアセンションへの献身と、彼女から学ぼうと集まる人たちへの奉仕に捧げられています。彼女は真に目覚めている人ですが、インターネットも一切しませんし、本も出版していないので、私たちのコミュニティ外では誰にも知られることのない存在です。もし彼女と出会っていなかったら・・・私のアセンションの理解は、個人としてenlightenmentに至るための道具、という範疇にとどまっていたと思います。
彼女は”すべてなるもの”へ私たちの注意を促し続けます。同じ真実について語る多くの素晴らしい人々(トニー・パーソンズ、ベルナデット・ロバーツ、アディヤ・シャンティ、バイロン・ケイティ他)についても、すべて彼女から教わりました。
Ascending doesn't cause the Ascendant. Ascending is the Ascendant. (アセンションすることがアセンダントを起こすのではない。アセンションすることそのものがアセンダントなのだ)と彼女は教えます。アセンダントというのはイシャヤ用語ですべてなるもの、すべての存在の源を指します。
そりゃそうです、瞑想や祈り、修練が”すべてなるもの”を起こすわけがない。すべてのmovement=動の源泉はすべてなるものなのですから。ですが、”私”というセンターがあって、それが人生の舵を取っている、と信じているときには、すべては反対に感じられます。”私”の集中力が、理解が高まったから、精進したからすべてなるものにアクセスできる力を得た、と考えます。特にこれが神秘体験を伴うときには始末が悪いです。”私”というエネルギーはspecial(特別)であることが大好きですから、その体験にしがみつきますし、それは瞑想によって起こった、私の瞑想力が上がったから起きた、と主張します。そしてもう一度同じ体験を、もっと強い体験を、と欲を出します。
こういった溝に陥るたびに、カーリーは、ときには優しい言葉で、ときには辛辣な一言で(あるいは冷たい一瞥で・笑)、あるいはシンプルな指摘で、私の軌道修正をしてくれました。”航海しているとき、大海にあってはたった一度の羅針盤のずれは大したことに思えないけれど、そのたった一度のずれが、私たちを全く違う岸に導く結果になる”と彼女はよく言います。
彼女は私にとって、もっともクリアな鏡です。不安が湧いたとき、また自信が湧いたとき、彼女にそれを投げかけてチェックします。そうして静かに無人に帰ります。彼女に出会えたことは、本当に幸運であったと思います。
私の師はカーリー・イシャヤというアメリカ人女性です。カーリーというのはヒンドゥー神の名前で、彼女がイシャヤの僧侶となる誓いをたてたときに与えられた名前です。彼女の人生はイシャヤのアセンションへの献身と、彼女から学ぼうと集まる人たちへの奉仕に捧げられています。彼女は真に目覚めている人ですが、インターネットも一切しませんし、本も出版していないので、私たちのコミュニティ外では誰にも知られることのない存在です。もし彼女と出会っていなかったら・・・私のアセンションの理解は、個人としてenlightenmentに至るための道具、という範疇にとどまっていたと思います。
彼女は”すべてなるもの”へ私たちの注意を促し続けます。同じ真実について語る多くの素晴らしい人々(トニー・パーソンズ、ベルナデット・ロバーツ、アディヤ・シャンティ、バイロン・ケイティ他)についても、すべて彼女から教わりました。
Ascending doesn't cause the Ascendant. Ascending is the Ascendant. (アセンションすることがアセンダントを起こすのではない。アセンションすることそのものがアセンダントなのだ)と彼女は教えます。アセンダントというのはイシャヤ用語ですべてなるもの、すべての存在の源を指します。
そりゃそうです、瞑想や祈り、修練が”すべてなるもの”を起こすわけがない。すべてのmovement=動の源泉はすべてなるものなのですから。ですが、”私”というセンターがあって、それが人生の舵を取っている、と信じているときには、すべては反対に感じられます。”私”の集中力が、理解が高まったから、精進したからすべてなるものにアクセスできる力を得た、と考えます。特にこれが神秘体験を伴うときには始末が悪いです。”私”というエネルギーはspecial(特別)であることが大好きですから、その体験にしがみつきますし、それは瞑想によって起こった、私の瞑想力が上がったから起きた、と主張します。そしてもう一度同じ体験を、もっと強い体験を、と欲を出します。
こういった溝に陥るたびに、カーリーは、ときには優しい言葉で、ときには辛辣な一言で(あるいは冷たい一瞥で・笑)、あるいはシンプルな指摘で、私の軌道修正をしてくれました。”航海しているとき、大海にあってはたった一度の羅針盤のずれは大したことに思えないけれど、そのたった一度のずれが、私たちを全く違う岸に導く結果になる”と彼女はよく言います。
彼女は私にとって、もっともクリアな鏡です。不安が湧いたとき、また自信が湧いたとき、彼女にそれを投げかけてチェックします。そうして静かに無人に帰ります。彼女に出会えたことは、本当に幸運であったと思います。
2014年5月1日木曜日
トニー・パーソンズ リトリート締めのメッセージ
今回もたくさんの学びがありましたが、コースの最後にトニーが言ったことは心に深く刺さりました。
”あなた方はここで学んだことなど何もない。家に持って帰れることなど何もない。今ここにあるものは、ここから去って帰る途上にあり、家での日常にあるものだ。だからここで聞いたことを応用しようとか、実践しようとか、一切考えないように。すべてはすでに完全なるものなのだから。”
彼のメッセージには妥協がありません。実際、2冊目に出版した本は、妥協していたとして、セミナーで販売もしていません。その姿勢は徹底していて、聞く側に迷いを起こさせません(少なくても私にとってはそうです)。そしてどこまでもシンプルです。本当に行ってよかったと思います。私にとっては精神世界の巨人です―なんて言ったら本人はとっても嫌がると思いますが(笑)。
”あなた方はここで学んだことなど何もない。家に持って帰れることなど何もない。今ここにあるものは、ここから去って帰る途上にあり、家での日常にあるものだ。だからここで聞いたことを応用しようとか、実践しようとか、一切考えないように。すべてはすでに完全なるものなのだから。”
彼のメッセージには妥協がありません。実際、2冊目に出版した本は、妥協していたとして、セミナーで販売もしていません。その姿勢は徹底していて、聞く側に迷いを起こさせません(少なくても私にとってはそうです)。そしてどこまでもシンプルです。本当に行ってよかったと思います。私にとっては精神世界の巨人です―なんて言ったら本人はとっても嫌がると思いますが(笑)。
2014年4月25日金曜日
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